「黒塚家の娘」

  • シアタートラム F列2番
  • 作 北村想 演出 寺十吾

SISカンパニーの主催公演で「日本文学シアター」と銘打たれたシリーズの4作目。今回はタイトルの通り、「黒塚」が題材になっています。

「黒塚」は歌舞伎で見たことがあるのと、あと木ノ下歌舞伎で上演したものも拝見していますが、個人的にこの木ノ下歌舞伎で見た舞台が相当ツボでして、それもあって題材としては相当好きな部類です。ポスターの意匠もなかなかにゴシックホラー風味で、シリアスに寄った見せ方になるのかな〜と予想していましたが、けっこうファニーな演出も多く笑いがよく起こっていました。

紛れ込んでしまった霧の中の世界、のぞいてはならない奥の部屋に積まれた白骨死体、明かされる老婆の正体…と黒塚のフォーマットを踏みつつ違う世界の入り口を案内していく見せ方が面白かったです。あとやっぱり渡辺えりさん強い。そして私はどうにもこうにも強い芝居をする人が好きなのだった。

「ローガン」


ヒュー・ジャックマンが演じる最後のウルヴァリン。めちゃくちゃよかったです。めちゃくちゃよかったです。私X-MENの映画2本ぐらい落としてるしそこまで思い入れも深くないですが、それでもここに出てきたキャラクターと、そして出てこなかったキャラクターに思いをはせずにはいられませんでしたし、何よりもそういった思い入れのある、なしを超えた説得力のある物語に耽溺することができました。

かつておそれられたミュータントが、いまや過去の遺物となって扱われている時代のウルヴァリンと、彼が匿うプロフェッサーX。ローガンもチャールズももはや年老いていて、その能力が自分を侵し、または制御することができなくなっている。ローガンはハイヤーの運転手をして日銭を稼ぎ、“サン・シーカー”のヨットを買い、海の上でチャールズと暮らそうとしている。そこに、あるひとりの女性がローガンに助けを求めてくる。

ミュータントを結局のところ「突然変異」としてラベルを貼って片付けようとする人々と、その能力に歪んだ欲望を抱くものと、その能力ゆえに苦しむ彼らと。それでもチャールズはやっぱりチャールズで、どこかに希望を見出そうとする。だからこそ、ウェストチェスターで何があったのか、それを想像するだけでつらい。そこで失われたという人間とミュータントの命のことを思うと、胸がきゅーーーってなる。

あの家族と出会って、暫しの休息が描かれたあたりからもういやな予感しかしなくて、このあたりの緩急もほんと見事でした。関係ないけど、あのお父さん、見た瞬間にベントン先生やー!おなつかしい!ってなりましたよ。

しかし、なんといっても私がこの映画で一番胸震えたのは、この「ウルヴァリン」の物語が、X-MENのコミックスで描かれる「ウルヴァリン」の物語に支えられていくところです。ローラの言う「エデン」はコミックスの中で描かれた絵空事にすぎない、とコミックスを読んだローガンは言う。そして観客もおそらくそれが真実なのだろうと思う。ローガンは言う、「これはお話だ、本当のことじゃない、事実をもとにしてはいるが、全然ちがう、別のお話だ。」

だが、実際には、その虚構こそが彼らの命を繋ぐ。ローラを導いてきたローガンは、終盤、ローラによってエデンに導かれる。虚構が、物語が現実を超え、その先の世界を繋いでいくというこの展開!!アメコミ映画としてここまでうつくしい物語がかつてあっただろうかと思うほどです。そして最後のローラとローガンの会話…。ローガンがついに最後にして得ることのできたものに涙が止まりませんでしたし、またあそこで男の子のひとりがウルヴァリンのフィギュア持ってるのがもう…!!!どんだけ私の涙腺に蹴りを入れるんやって感じでした。

R指定ということで、残虐なシーンもありますが(とはいえ無駄に残虐なわけではない)、あの治癒能力を持つ肉体で戦い続けるということがどういうことなのか、ローラの戦い方も含めて改めて実感させられた感じです。ダフネ・キーンすごくよかったな。かっこよかった。ヒュー・ジャックマンウルヴァリンがもう見られないのは悲しいし、このあとにこの役を引き継ぐ人は大変だろうな…と思いますが、しかしこれ以上ないほどの素晴らしい幕引きだったと思います!

「名古屋平成中村座 夜の部」

義経千本桜 川連法眼館」。約1時間の場面ですが、見れば見るほど改めてコンパクトにドラマがまとまっていて、作品としてこの場が長く生き続けるのがわかる気がします。今回扇雀さんの狐忠信だったんですが、佐藤忠信での場面の大きさを感じさせるところとか、座組が全体的に若いというのもあってぐっと引力があってよかった。ただ、個人的にはやっぱり勘九郎さんで見たかったという気持ちがあるし、扇雀さんには静御前義経かで舞台に大きさをもたせてほしかったみたいなところが否めず。まあ、座頭は扇雀さんなのでしょうがないところではありますが。

「弁天娘女男白浪」。七之助さんの弁天小僧、亀蔵さんの南郷力丸で。まだ初日開いて間もないってこともあるのか、舞台全体のキレとしてはもう一声!という感じ。とはいえ、これも安定して楽しめる演目。歌舞伎を知らなくても誰もが知っている名台詞は聴けるし、実は、と展開していくところ文句なく胸がすくし(悪党なんだけどスカッとするよね)。いつも思うけど、あの額の傷を隠しているところの見せ方とか、ドラマをわかった演出だよなーとほれぼれします。

「仇ゆめ」。これが見たくて夜の部を取った!舞踊劇、舞踊で物語が進んでいくので、そんなの勘九郎さんにやられておいしくいただかないわけないじゃないのさー!という感じである。話の展開がSO SADなので個人的にはドッカンドッカン明るく終わってくれてもよかった(だってせっかくの舞踊劇)と思うけど、それを差し引いてもたいそうな目の御馳走でした。歌舞伎における踊りでフォーメーション組んだ群舞ってまあないじゃないですか。この芝居わりと大人数で踊る場面があるので、それがめちゃくちゃ新鮮でしたし、その中での勘九郎さんの、なんつーか視線を惹きつけて離さない力がすごい。所作板の音からして違うもの。めちゃくちゃいきいきしてたし、そういう勘九郎さんが見られて嬉しかったなー。

各演目の感想にかかわりあるような、ないようなという話なんですけど、ひとつだけ気になったこと。この中村座では、大阪城しかり、今回の名古屋城しかり、めったにない「借景」のために昼夜それぞれの最後の演目で搬入口が開くのがもはや恒例になっています。搬入口を開ける、というのはそもそもこういった野外劇場に勘三郎さんが痛烈にあこがれるきっかけともなった、唐組の紅テントからのインスパイアも相当あるんじゃないかと思います。蜷川さんも、よく使われる手法でした。搬入口を開けるというのは、もちろんただ開けるという行為だけでなく、劇場という閉鎖空間が「現実」とつながる、いってみればあの世とこの世の端境みたいな意味合いがあると思うんですよね。

今回、夜の部で弁天娘女男白浪がかかっていて、稲瀬川の場面もあるんですけど、そこの場面転換のときに、後ろを開けて道具を入れる、つまりそこで(定式幕はかかっているとはいえ)ざっと太陽の光が入ってきちゃうんですよ。陽の光って、それだけでもものすごい劇的な効果なので、それを転換中に漫然としてしまうのはなんとももったいない。逆に最後の場面での借景は、美しいけれど劇的という部分ではちょっと欠けるものがある。無理に開けることもないというか、最後の場面にこだわる必要ないというか、だったら逆に稲瀬川勢揃いで後ろが開いた方が効果が高いのでは?と思ったりしました。そのあたりはやっぱり演出家の目というのが左右してくるところなんだと思いつつ、一旦ぐっとけれんを押えた方向で固めてみてもいいのかもしれないですね。

いつでもそこが桜の森の満開の下

坂口安吾の「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」を下敷きに野田秀樹が書いた、夢の遊眠社「贋作・桜の森の満開の下」は、1989年2月に初演された。東京は日本青年館、関西公演は京都南座で行われた。わたしは、この時の南座の公演を観に行った。初めて見る野田秀樹、初めて見る遊眠社、初めて行く南座。もう28年前のことだが、不思議なことに、あの揚幕のしゃりん、という音を今でもまざまざと思い出すことができるような気がする。その音に続いて聴こえてくる、「みみおーーーーーーーーーー」という毬谷友子の声とともに。

夢の遊眠社では1992年に早くも再演となり、東京は同じく日本青年館、大阪は今はもうすでになくなってしまった、道頓堀の中座で上演された。夢の遊眠社解散後も、野田地図の製作協力という形で2001年に上演されている。劇場は新国立劇場中劇場。初演・再演で夜長姫と耳男をつとめた野田秀樹毬谷友子に代わり、堤真一深津絵里がその役を演じた。

南座の初演、中座の再演、そして新国立で生まれ変わった贋作・桜。それをすべて見ることができたのはほんとうに幸福なことだったと思う。私はこの舞台で初めて「舞台の美しさ」を知った。南座での終演後、どうやったらこれを明日も見ることができるのか?(残りは千秋楽しかなく、とうぜんチケットは完売していた)と熱に浮かされたように話したりもした。ほんとうに私にとって忘れがたい、人生のオールタイムベストのうちのひとつだ。

勘三郎さんは同年代の作家が書く、今の歌舞伎を創り出すことを常に考えていて、その筆頭にあったのは同い年だった野田さんのことだったのではないかと思う。野田さんに書いてほしい、という勘三郎さんの熱意は相当なもので、勘三郎さんが野田さんのワークショップに参加したりしていたし、野田さんもそれに応えて最初は「カノン」を歌舞伎でやるつもりで書き始めたのに、どうしても話が予想した方に転がらず、勘三郎さんもこれほんとに歌舞伎にする気あるのか?と野田さんに詰め寄ったという話もあったと記憶している。その後、二人はご存知の通り、歌舞伎座で「野田版・研辰の討たれ」という作品をものし、その後も鼠小僧、愛陀姫と歌舞伎座での上演を続けていくことになった。

夢の遊眠社時代に上演した「贋作・桜の森の満開の下」を歌舞伎にしよう、歌舞伎にしたい、という話は、野田さんと勘三郎さんがタッグを組み始めた当初から何度も名前があがっていた。耳男の役はまさに勘三郎さんのニンといってよく、夜長姫のあの邪と聖を行き来するような変わり身は歌舞伎の女形にハマる造形のように思えた。そしてなにより、作品としての完成度が桁違いだった。実際に、もうほとんど、決まりかけていたのだとおもう。勘三郎さんがそのものずばりなことをぽろっとお話になったこともあった。でも、何かの事情で、いろいろな事情で、それは実現しなかった。2005年の松竹座での研辰千秋楽、カーテンコールで舞台に野田さんが呼ばれ、勘三郎さんとおふたりで挨拶をなさった。勘三郎さんがそのとき、「これからもいろいろやっていきたいとおもっています、雪も降らせたいし、桜も降らせたいし。」と仰ったこと、それを聞いて飛び上がるほど喜んだことを昨日のことのように思い出す。神さまにでも仏さまにでもお祈りするよ!と思った。でも、届かなかった。届かないまま、勘三郎さんは逝ってしまった。

今年の初めに上演された野田地図「足跡姫」は野田さんが勘三郎さんへのオマージュとして書いた作品だが、冒頭のシーンを見た瞬間、私はあっと声をあげそうになった。桜。桜の森の満開の下じゃないかこれは。

君のような者は残るだろうが、それは君ではない。野田さんは勘三郎さんへの弔辞でそう書いた。だからこれはつまり、勘三郎さんと叶えることのできなかった舞台を重ね合わせているのではないか、ということは、野田さんはふたたび誰かと「桜の森」をやる気はないのではないか。いやそうではなく、だからこそ、新しく「桜の森」に挑めるのではないか。勘三郎さんにも野田さんにも思い入れのある芝居仲間と、何度もそんな話をした。

わたしはやってほしかった。もう、夢に見て、夢に見すぎて、その芝居を見たような気さえしているが、でも、ずっと実現してほしいと思い続けてきた。勘三郎さんは逝ってしまったけれど、勘九郎さんと、七之助さんで、あたらしい耳男と夜長姫をやってほしいと思い続けてきた。歌舞伎座の舞台で、揚幕がしゃりんと鳴り、七之助さんの夜長姫が駆けだしてくるところを見たかった。今日でなくちゃいけないのかい、今日でなくちゃいけないんだ。そのやりとりを見たかった。勘九郎さんの耳男が語る、どこへでも参れるおまじないを聞きたかった。

それがとうとう、現実になる。歌舞伎座に、あの桜の花が咲き開く。
この気持ちをなんと言葉にしていいかわからない。

これは私の勝手な憶測で、なんの確証もないが、この八月の納涼で「桜」が実現したのは、染五郎さんのお力添えがあったのではないかという気がしている。染五郎さんは、勘三郎さんが「桜」をやりたいと言っていたころから、出演者としてお名前があがっていたこともあるし、染五郎さんご贔屓であるお芝居仲間が、2年ほど前に染五郎さんがこの作品について、思い出深い作品で、これを見て役者をやめるのをやめようと思った、とお話されていたことを教えてくださっていたからだ。そして、染五郎さんは来年、幸四郎を襲名される。これが染五郎として最後の納涼、だからということなのか、納涼の一部から三部まで、文字通り大車輪のご活躍である。普段から仲良しの猿之助さんがお付き合いなさるのも、そういう染五郎さんのご希望があったのではないか、だとしたら、この第三部も、そういうお口添えがあったのではないかという気がしてしょうがない。本当に足を向けて寝られない。七月もお忙しいのに、もはや染五郎さんのお身体だけが心配である。

世の中にはいろんなエンターテイメントがあり、映画でも音楽でも、ひとを楽しませるものはたくさんある。でも私はその中でも、どうにもやはり演劇というものにつかまっているし、きっとそういう人生を送り続けるんだろうと思う。私は演劇に絶望しない。絶望しないというのは、99本つまらない芝居を見ても、次の1本が最高の舞台かもしれないと信じることができるということだ。そして「贋作・桜の森の満開の下」はその私の、演劇への信頼の限りなく根っこに近い所を今に至るまで支え続けてくれている。歌舞伎座でその芝居を見たい。ずっと願っていた。ずっと夢に見てた。ほんとうに、ずっと、夢に見ていた。

それがとうとう、現実になる。

「メッセージ」


原作はテッド・チャン「あなたの人生の物語」。
叙述トリックのある映画なので、見ようかな?と思っている人は映画を見てから感想を読むことをおすすめします。

時系列、という言葉があるように、人間は時間は過去から未来へ流れていくと思っているし、それは言ってみれば川の流れのように過ぎていくもの(ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず…)、だと思っている。いやそれを「意識」してすらいないかもしれない。

映画はある女性の幸福な日々を映しだすことから始まる。愛情をもって育てた一人娘との蜜月。思春期。そして彼女を襲う病。喪われてしまう何よりも愛しいものの命…。そして、彼女は語りだす。自分が「時間」の概念を獲得した体験を。
映画のこのエピソードの配置から、最初に語られた彼女のエピソードを、時系列の、川の「上流」に置いたままこの映画を見始める観客が多いのではないでしょうか?

ある日突然、世界12か所に謎の物体が現れる。彼らは誰で(何で)どこから来たのか?なんのために来たのか?そのコンタクトを試みるために言語学者である彼女と、数学者の男性が呼ばれる。決まった時間だけ開かれる「ゲート」をくぐり、彼女らは「彼ら」の意図を探し当てるため、接触を試みる。

ヘプタポッドの描く「言語」、その見えない全体像、小石をひとつずつ積み上げていくような「コミュニケーション」にしびれをきらす者からのプレッシャー、反乱分子。そういったものをかいくぐりながらヘプタポッドとの「会話」を試みる彼女は、奇妙な映像を見るようになる。その映像は、時間を川の流れとして見ている観客には過去のフラッシュバックに見える。だが、だんだん、その映像が何を示しているかがわかるようになってくる。そしてそれが「なんなのか」を理解した瞬間の、脳がぐるっと反転するかのような感覚!これぞSFを見る(読む)醍醐味といっていいのではないでしょうか。

言語は人間の思考や世界観の構築に関与する、つまり「新しい言語」を手に入れた彼女は、時間を新しい概念で理解することができる。その概念の中では時間は川の流れではなく、今も、100年前も、3000年あとも、「そこ」にあるものなのだ。だから彼女は、この先に待っていることを知っていても、その道を選ぶことができる。自分にとっていくつもの得難い瞬間を自分のものにするために。

劇的な興奮と、脳をぎゅっぎゅっともまれるような体験を味わえる映画で、見終わった後ちょっと世界の色がかわってみえてくるような2時間でした。やー面白かった。

「天の敵」


面白かったです!!!このあと東京公演少し残して大阪公演があるのかな。機会がある方には是非にとおすすめしたい。見る予定の方は見てから感想を読んで下さるとうれしい。

人間の体は日々食べるものでできている、だから、口に入れるものにはじゅうぶん気をつけなきゃだめだよ、いいものを食べなきゃだめだよ、旬のものを食べなきゃだめだよ、旬のものにはその季節に宿るパワーがあるからね…私の母がよく言う台詞です。じっさい、「食」をおろそかにすることへの警鐘というのはいつ、どんな時代にも高々と鳴らされているように思う。それは「じゅうぶんに食べるものがなかった時代」を過ごした人にはだからこその、「飽食の時代」を過ごした人にもだからこその理由があるんだろう。

じゅうぶんにものを食べることができなかった時代に、どうすればより少ない食料で必要な栄養分を取ることができるか。それは次第に「完全食」への思想へ移っていく。それだけですべての栄養をまかない、人の生きる力となるもの…それは一種夢想じみてはいるが、長谷川卯太郎はひょんなきっかけから、その「完全食」を手に入れることになる。

果たして、魔法ではなく、物理の力で「いつまでも若く、美しく、健康である」というある種究極の夢を手に入れた人間はどうなるか?どう生きていくのか?そしてその先には、何が待っているのか?

完全食のアイデアとして「ない」とは言い切れない、体内にあるものだけで身体の機能を循環させれば、人間というのは完全体になれるのではないか?というアイデアで見せてくるところが絶妙のうまさ。かつ、それが法的にどうか、という側面のフォローも怠りなく、永遠だからこその孤独感をかなりポップに見せるかと思えば、さらっと剛速球を投げてくる緩急も見事。

個人的に、前川さんの作品のSF感には、独特の「揺らぎ」があるのが魅力的だと思っていて、情か理かでいえば割と「理」に沿って物語を描かれるけど、その理(ことわり)の向こう、隙間にある揺らぎというのか…。それが卯太郎だけに見える、「向こうに行ってしまった」友人の姿なのかもしれない。

さらに私のツボなのが、この100年近くにわたる物語の最後の最後に、ボールをこちらに投げてくるところ!舞台の上でのやりとりは横方向のボール、観客への投げかけは縦方向のボール、どちらかのボールだけでは作品はつまらない、と私のすきな劇作家が言っていましたが、この作品は最後の最後に超特大の縦方向のボールをなげる。寺泊の妻はおそらく心を決めているだろう。では寺泊は?あなたは?この状況で、あなたは、どうする?確実に死に至る病。治る、と信じられている手がかりがそこにある。だが、凄まじいリスクもある。あなたは、冷蔵庫を開けますか?

舞台美術も素晴らしかったし、舞台の構成として橋本役の浜田さんと寺泊役の安井さんの会話を進行させながらシームレスに100年間の出来事が舞台上で展開していく見せ方もめちゃくちゃ好みでした。浜田さんのあのどことなく無機質っぽい佇まい、まさにハマり役。イキウメ、女優陣がいなくなってしまったけれど、小野ゆり子さんや村岡希美さんを客演に呼ぶあたり、さすがいい声爆弾の持ち主揃えてきてますねっ!って感じでした。

展開としては相当重いものであるにも関わらず、最後まで観客を沈み込ませず一気に見せきる筆力。いやはやすごい。堪能しました。

「クヒオ大佐の妻」

映画監督吉田大八さんの作・演出。吉田さんは「クヒオ大佐」という映画をすでに撮っていらっしゃいますが、今回は「クヒオ大佐の妻」。

吉田大八さんといえば私にとってはまず映画「桐島、部活やめるってよ」が思い出されるのだが、構図としては割と似ているところがあるかもしれない。構図というのか、どちらも「不在」を中心に据えた物語であるところが。演劇においてはこのジャンルに、「ゴドーを待ちながら」という金字塔があるわけですが、とあるアパートの一室で、ある女が「何か」を待っている。そこに訪れる人たち、そしてみな一様に「彼」の話をする…とちょっとゴド待ちのテイストもあるような。

うまいなーと思ったのは、大事なところを描きすぎていないところですね。果たしてそれが本当なのか、嘘なのか、本当にいるのか、いないのか、現実なのか、そうでないのか、筆を滑らせて観客に言質をとらせるようなことをしない。クヒオ大佐は1970年代から90年代にかけて名をはせた実在の結婚詐欺師だそうですが、舞台の年代をそれよりも少し後ろにしているのもよかった。なぜ騙されるのか?そこに何を見ているのか?という問いがより強くなるような感じがありました。

逆に言えば、その「なぜ」の中で語られる、戦争コンプレックスのようなものについては、ああ、うん…という感じになってしまったところがあったのは否めない。なんか、突然、正調つか芝居!とでも言いたくなるような世界がゴリゴリ展開していって、それはそれで嫌いではないんですけど、そこにカタルシスを感じるにはもう少し舞台のうえがくるっていてほしいなーと思ったり。

岩井さんの役柄が面白くて、徹頭徹尾、自分は何者でもない、という人生を送ってきていて、でも「何者でもなかったからこそ、自分は何者かになれる」という確信だけを持っている男。自分は何者かになれる、その題材さえあれば、ドラマさえあれば…そうして「クヒオ」の周りにいる女に、自分の描いたドラマを重ねようとする男。岩井さん、飄々とした佇まいを崩さず、決して露悪に見せないのがすごいなと思いました。これ岩井さんの役がカリカチュアされすぎちゃうと結構つらい場面あるよなー。

クライマックスでかなり大掛かりな仕掛けがあり、そのためなんだと思うのですが舞台がかなり高い位置に組まれていました。個人的には仕掛けをもう少しおさえても舞台を下げて欲しかったかなー。声の広がりもそうだし、個人的に役者の足元が見えるかどうかを割と重要視している私なのだった。

ラストシーンの、全部がおもちゃ箱の中に帰って行ったかのような静謐さは好きですね。こういう構造が好きなのはもう、癖(ヘキ)なのでしょうがない。

りえちゃん、さすがに美しいし、この役柄の説得力がある。岩井さん、かなり前半軽妙に演じていて、私一人アハハと笑ってしまってたんですけど、なんでみんな笑わないんだよお!べ、べつにわかってるアピールの笑いじゃないんだからね!と一人であせってしまいました。川面千晶さん、こういう役におけるディテールの見せ方さすがです。岩井さんと二人のシーンになんだかほっとしたりしました。