「二月大歌舞伎 夜の部」

「熊谷陣屋」。幸四郎さんの襲名演目。芝翫さん(当時橋之助さん)と吉右衛門さんの熊谷直実を観たことがあります。直実、義経、相模、藤の方の心理戦というか、台詞に出てこないやりとりに面白さがあるので好きな演目。二月は昼の部の大蔵譚といい、どちらかというと播磨屋さんのイメージの強い演目が並んでるのも面白いところですね。
幸四郎さん、一月の時にも思いましたが、ほんとぐい、ぐいと芝居が大きくなっていて、こういうときを追いかけてみていくのってたまらないものがあるよなーと思いましたし、襲名興行ならではのまさに大歌舞伎!な顔合わせでものすごく充実感がありました。2階席から観ていたので、袴の捌きや制札の見得の型の美しさにうっとり。

「壽三代歌舞伎賑」木挽町芝居前。揃いも揃ったりという大幹部の皆様がずらりと並んで壮観な一幕。二八(ニッパチ)は興行の枯れ月ともいわれますが、そのせい?そのおかげ?で今月の歌舞伎座は過去最高の出演者数だそうです。そりゃそうですね、だって一月は歌舞伎座新橋演舞場国立劇場に浅草公会堂加えて大阪松竹座でも興行を打ってたのにひきかえ、今月は歌舞伎座博多座ぐらいしか大きな座組はないのでは?ということで、高麗屋さんの三代襲名をお祝いする豪華な一幕でした。男伊達と女伊達の掛け合いのとき、仁左衛門さまがにこにこと上下を交互にご覧になっていたのと、床几から立ち上がる時、隣の吉右衛門さんの裾をささっと扇子で直されてたのがなんかむやみにときめきました。この日は新橋の芸者さんが総見でいらしていて、「新橋の姐さん方」へのお言葉もあり、なんとも豪華な気分を満喫。染五郎くんが「巷では美少年と言われておりますが…」とかましたときの幸四郎さんの顔芸も楽しかったです。

仮名手本忠臣蔵祇園一力茶屋の場。演目が発表になって、平右衛門とお軽を偶数日が海老蔵さん菊之助さん、奇数日をなんと仁左衛門さん玉三郎さんで交互に出演されると判明して文字通り阿鼻叫喚…になったのかな。私は最初は日程が合わないかな〜と遠巻きに観ていたのですが、もしかしたら観られるかも?チケットが戻れば?みたいな状況になり、でもってまあ、戻りますよねそりゃ。何枚かは。ということでめでたく奇数日に観劇して参りました。いやはや…観てよかったなああああああああ!!!と心の底から思います。

10年ぐらい?もっと前?に、仁左衛門さまと玉三郎さまのお軽勘平で五段目・六段目を見たことがあって、でもってそのちょうど同じ月に(ってことは正月だ)浅草で勘九郎さん七之助さんのお軽勘平(これ交互にやってたんじゃなかったかな?)を見る機会があって、そのときに、わたし勘九郎さん(当時勘太郎さん)のこと大好きだけど、これはさすがに一軍と二軍ぐらいちがうわ〜〜って思ったことがあったんですよね。

一力茶屋自体、芝居としても華やかな場面も多く、それでいてそれぞれの役にハラがあって心理戦が繰り広げられるところも面白いし、人気があるのも頷けます。白鸚さんの大星由良之助がよかったのも勿論なんですが(あの六段目のやるせない思いが七段目の最後の大星の台詞でやっとカタルシスを得られるあの感じ、たまんないですよね)、あの平右衛門とお軽のやりとりのすべてが、面白さもありながら、ここぞという場面での芝居味をたっぷり味わわせてくれ、かつ文句なしに目の大御馳走ともいうべき佇まい。これ正直何度でも観られるやつやな…と思いました。でもって、その10年前にね、おふたりの六段目を観たときに、玉三郎さんのお軽が外で待っている源六に煙草盆を持っていく、戸を閉めるときのこの戸を閉めたら別れの挨拶をしなければならない…という哀しさ、それを表に出せないつらさ、そういうものが所作ひとつで立ちのぼってくるようで、泣けて泣けてしょうがなかったんですよ。でもってこの七段目でそのお軽が、勘平の身に起きたことを聞いたときのあの衝撃、わたしゃどうしよう…という嘆きが、まさにその10年前の舞台と完全に地続きに感じられて、その芸の確かさ凄さに心底打たれました。なんかもう、ちょっとしたタイムマシンのように感じられましたよ。

しかし、この二月ぐらい役者が集結した状態で、仮名手本忠臣蔵全段通しとか見てみたいですよね。長すぎるっていうなら二日に分けてもいい。どの段にもしぬほどうまい役者しか出てない!みたいなそういう…松竹さんぜひご検討を!

「スリー・ビルボード」


…人間とは多面体であって、鯨を保護した同じ手で便所の壁に嫌いな女の電話番号書いて…

マーティン・マクドナー脚本・監督。おもしろかったです!!!間違いなく2018年のベスト級に残ってくる作品でした。幕切れのその一瞬まで私にとってはほぼ完ぺきともいえるようなタイミングでした。いやーよかった。

冒頭に引用したのは松尾スズキ作「キレイ」の劇中のナンバー「ここにいないあなたが好き」の一節だが、私はこの映画まさに、人間とは多面体であるという映画だと思った。当たり前のように思えるかもしれないが、映画でも、演劇でも、テレビでも、「ドラマ」にはどこか型にはまった人物像が連なることが多い。そこから自由になって物語を紡ぎながら、しかもそのストーリーテリングの威力は衰えない!すごすぎます。「こうなると思った」という予想、ある意味では気持ちよさを手放しながらも、「こうなるとは思わなかった」が決して唐突には思えない。なるべくしてなっているのに、物語の転がる方向が予測できない。いやはや、素晴らしいとしか言いようがない!どんなシーンでも基本的に「会話」で構成されるのは、戯曲を書く人ならではだよなーと思いましたし、そういうところも自分のツボだったのかもしれません。

物語の発端は、自分の娘がレイプされ焼き殺されたひとりの母親が、町はずれの道路沿いの大きな3枚の看板に警察を糾弾する「広告」を掲載したことから始まる。だがこの作品は犯人捜しをするわけではない。娘を殺された母親が権力を糾弾、その発端から誰もが想像する展開には流れない。母親であるミルドレッドは確かに悲劇に見舞われ、鋼鉄の意思をもっているかのように見えるが、すい臓がんを患っている警察署長の喀血に動揺し、看板を燃やされたことに対してあらぬ方向に報復し、そして娘との関係性においても彼女は自分自身に深い疵を持っている。

警察官のディクソンはレイシストで、すぐにキレ、持っている権力を暴力という形で揮う最低の人間だが、彼は燃え盛る火の中から捜査資料を救い出し、ボコボコに殴られながらもレイプ犯を捕まえるために爪の先でひっかいた皮膚のかけらを証拠保存キットに保管する。署長のウィロビーは署員のよき理解者で、良き夫、良き父であるが、同時に自分を襲う悲劇に耐えることができない。ミルドレッドの前夫チャーリーは家を出て動物園に勤めている若い女の子と一緒に暮らしている。ミルドレッドはチャーリーをDV夫と言うが、子どもたちはそれに一方的に賛同しているわけではない。レッドはミルドレッドの払った広告代金を「あれは前金扱い」と言い、広告を維持するにはすぐに金が必要であると言い出したりするが、全身をやけどで覆われた男のために、オレンジジュースを入れてやる。

怒りは怒りを来す。チャーリーの年若いガールフレンドはそう言う。この物語も、文字通り怒りが怒りを来して転がっていく。しかし、それと同じように、赦しが赦しを来すこともあるのだ。炎の中から救い出されたファイルが、きまぐれに顔を見せた鹿が、オレンジジュースのストローが、だれかを赦す。

私たちはみんな、誰かをゆるし、そして同じだけ、誰かにゆるされながら生きている。そのことをつい忘れそうになる。ツイッターでは、どこかのだれかの行いを、140字で断罪し、それをみなボタン一つで広めていく。でも140字で何かが「わかる」ことなんて本当にあるだろうか?どこか道路沿いの大きな看板に書かれた文字と同じように、人生も人間もそれだけではないのではないだろうか?ディクソンは最低の人間で、ミルドレッドは善良な悲劇の母親で、警察署長は無能な権力者だったのか?ほんとうに?

最後のシーンのディクソンとミルドレッドは、まるで迷子のようでもある。来された「怒り」の行き場を探し当てるが、ふたりともそれほど気が進まない。ディクソンは自分の顔を焼けただらせた女のことを、とっくにゆるしている。二人はこれからすることを道々考える。そうして、この物語の幕は閉じる。私たちも道々考えよう。来された怒りを、どこかで赦しに反転できることがあるのかもしれない。ないのかもしれない。けれどいつか、赦しが赦しを来す、そういう連鎖がある、きっと。道々考えながら、そう願おうじゃないか。

「バーフバリ 王の凱旋」


S・S・ラージャマウリ監督、インド映画です!1作目の「伝説誕生」も日本でちょっと話題になりましたが、2作目はそれを上回る勢いのバーフバリ旋風!1作目はWOWOWで放送したのを録画してあったんですけど、とりあえず映画館で見るのを優先しよう!と思って「王の凱旋」から見てきました。ということで、1作目見てないからなーと迷っている方に力強くおすすめしますが、
2作目から見ても全然大丈夫です!
冒頭に丁寧な1作目のあらすじがあるというだけでなく、時系列からするとこの2作目の方が先になります。これ帰宅してから録画してあった「伝説誕生」見てほんとよくできてるなって思ったんですけど、2部作つまり2本の映画なので、単純に考えれば「起承転ちょっと結」が1本目、「ちょっと起承で転!結結結」みたいなのが2本目になるのが普通じゃないですか(しかも一種の英雄叙事詩であればなおさら)。それが「結からの承、そしてここから転!」で1作目が終わり(あの引きのすごさ…2作目から見たからあれだけどこれ1作目のあと次作の公開を待っていたひとさぞかし身悶えしたろうなー!)2作目は「起承、そしてここからすべての結!」って感じなんですよ。うまいこと見どころとドラマが分散されてて、どちらから見ても両方楽しめると思う。

映画の冒頭はなるほどこれが称えたくなるバーフバリそして象また象…とその絵力の強さに若干引き気味だったんですけど、デーヴァセーナとの絵に描いたような恋もすごければ、このデーヴァセーナとシヴァガミさまの嫁姑対決もすごいし、その合間合間にバーフバリ無双が差し挟まれるしで、しかもなんつーか、このあたりの姦計とか血のつながりとかそれよりも濃いシヴァガミとバーフバリの絆の描き方とかがめちゃくちゃ丁寧でよくできてるんですよね。シェイクスピア的でもあるし、ギリシャ悲劇的でもある。やっぱりひとつの「神話」というか、根源的な「物語の面白さ」ってこういうところに帰ってくるんだろうなーと思いました。

あと、私も実はそういうところがあるんですけど、ドラマとかでさ、恋人同士とか信頼し合う同士がなんか小さな誤解からすれ違って…みたいな展開を見るのが苦手、ってひとにぜひおススメしたいですね。なぜなら、バーフバリは絶対、自分の弱さから間違った方を選んだりしないからだ!誓いは絶対に守る!愛する人は絶対に守る!だからそういうイリイリした展開にならない。そういうイリイリしたことではないところで超弩級のドラマをぶつけてくる!そういう感じです。デーヴァセーナが自分の体に触れようとした痴漢の指を切り落とす(最高かよ)ところでまずすげえ!ってなるのに、そのあとの展開もう予想の斜め上どころか予想の真上を超えてくるもんね。

噂には聞いていたけど「ロード・オブ・ザ・リング」を彷彿とさせる場面も多くて(大平原と城塞という絵面もそうですが、個人的に一番里心が出たのは大きな象の彫像の下を船から見上げる場面の描き方…アルゴナスやーん!)、しかも最終決戦文字通りの飛び道具がバンバン出てくるし、悪役とのタイマン勝負は1に絵力2に絵力、3から5も全部絵力じゃ!ってぐらい画面の圧がすごいので、ほんと日頃のくさくさしたこととかマジどうでもよくなります。あとバーフバリも男前だけどバラーラデーヴァも男前だよね。彼は彼でなかなかつらい人生だ…(母も恋した人も皆バーフバリにとられちゃう)。あとカッタッパ推しってひとが結構多くて、私もカッタッパとバーフバリの阿吽以上の阿吽な共闘は最高楽しかったですけど(だからこそほんと最後のアレな!)、個人的に胸熱になっちゃうのはクマラです。あのぼんやりおっとりがバーフバリと出会って身の丈よりも大きい気持ちになって、なのに(だから)迎えるあの最期…!ああいうのほんとツボです。魅力的な登場人物ばっかりだったよなー。

SNSを中心に評判が拡散されていってるんで、まだまだ上映が続きそうな感じですよね。なんか景気の良い映画みたいなーという方はぜひ!あとなんかスケールのでかいものを見てスッキリしたいんじゃー!って方もぜひ!おススメです!

後藤ひろひと大王の脚本はやっぱりすごいという話

T-Worksの「源八橋西詰」、さきほど千秋楽の幕が開いたところですかね。わたしもいくつか感想を探して読んでみましたが、大王の脚本のすごさ、ベテラン久保田さん&坂田さんの手練れぶりとともに丹下さんへの絶賛も多く、見事にプロジェクトの目的を果たしてるなーと思いました。

しかし、思い返すだに後藤さんの脚本のうまさというか…いやあれなんていうんでしょうね。トリッキーという言葉もしっくりこないし、本当に悪魔的なうまさだなと思い知らされた感じがあります。

ここから「源八橋西詰」のかなり核心的なネタバレをします。

物語の中盤、大きな核となるエピソードに童話作家の話があります。病院を思わせる人々のスケッチ。そこにひとりの女の子が出てくる。ツインテール、たどたどしい喋り方、茄子を擬人化してひとり遊びをしている。ここで観客はなんの説明台詞がなくても了解します。この少女はおそらく入院中で、その寂しさを紛らわせるためにひとり遊びをしているのだと。

そこに現れるひとりの男性。彼は女の子のひとり遊びに巻き込まれ、おとぎ話の聞き手となります。少女との会話から、この男性がおそらく童話作家なのだろうということもうっすらとわかるようなやりとりが描かれます。女の子の語り口は最初はたどたどしいが、その物語の一種異様な迫力にのまれ、聞き手である男性は涙ぐみ、最期にはその美しい結末に観客は思わず聴き入ります。

女の子が去ったあと、男性はどこかに電話をかけます。ええ、そうなんですよ、新作が書けそうなんです…え?レイコですか?元相方の?…いや相変わらずです。あの事故以来、どうも自分を少女だと思い込んでいるようで…

演劇では、「子ども」の役を、「そういうテイで大人が演じる」ことがざらにあります。それはそうです。たとえば子供時代の回想シーンでいちいち子役を出すほど小劇場界にはお金がありません。大人も子供も老人も、皆同年代の役者が演じる。よくある話です。そして、そういう人物を示す「演劇的な記号」を観客はちゃんと察知します。ツインテール、たどたどしい話し方、茄子をヒト視したおしゃべり。観客は「大人の役者が少女を演じている場面」であると飲み込み、何の違和感もなく物語の続きを見ます。

だからこそ、最後の台詞にハッとなるのです。私たちは少女見ていたわけではなく、少女となった大人の女性を見ていた、つまり、目の前にあることが目の前にあるままだったということに、そこで初めて気がつく。そして、この場面で誰一人としてこの人物を「少女だ」という認識で語った台詞がなかったことに気がつくのです。演劇とは「見立て」の芸術ですが、その「見立て」に慣れた観客だからこそハッとさせるこの展開のうまさ!

こういうのは、最後にどんでん返しの台詞を入れさえすればよいというものではなくて、緻密に、慎重に、観客をいわばミスリードしていく手管が必要です。脚本だけでなく、役者の手管も。語り手となる女性はもちろん、物語の聞き手となる男性を演じたのは久保田浩さんですが、あからさまに「女の子を相手にしている」芝居をすると最後のどんでん返しと相容れなくなくなりますし、最後の展開を意識しすぎた語り口になると、これもまたラストの展開が有効でなくなってしまうおそれがある。なんでもない顔をして幅の狭い平均台を歩いているようなものです。最初に彼女を見たときの驚き、大人なの?子供なの?ギャグのように聞こえる問いかけ…いやあうまい。うまいとしか言えない。

「源八橋西詰」ではさらにこのあと、観客をはっとさせる物語の展開がもう1枚仕込んであり、この終盤の連続アッパーカットになんというか気持ちよくノックアウトさせられたという感じでした。とくにここにあげた童話作家の話の描き方は、絶対に映像ではできない、見立てによる先入観を利用した作劇で、こういうエッセンスをさらっと書いてしまう後藤ひろひと大王の筆の冴えよ…!と思わず拝みたくなります。

昨今の「ネタバレ」を気にしすぎる風潮に首をかしげることもありますが、しかしこういう作品を観ると、容易に展開を察知させる感想を書くことの良しあしを考えさせられてしまいますね。最初に書いた感想ではそれを思って控えましたが、しかしどうしても書いておきたくなってしまったので、千秋楽ということに免じ、ゆるしていただけたらと思います。素晴らしい舞台でした。

「パディントン2」


ポール・キング監督。1作目がたいへん面白かったので続編も楽しみにしておりました!いやーーほんと、よくできてたね。面白くて泣けてカワイイが盛りだくさんなのはもちろんなんだけど、個人的にはなにより「いやーよくできてる!!!」と思わず唸ってしまいました。

ウィンザーガーデンの住人とすっかり打ち解け、ブラウン一家と仲良く暮らしているパディントン。彼は育ててくれたルーシーおばさんに素敵なプレゼントを贈ろうと、骨董屋で偶然見つけた素晴らしい飛び出す絵本を買うために毎日精を出して働いている。しかし、その絵本にはとんでもない秘密があって…という筋書き。

パディントン1は「他者」を我々はどうやって受け入れるのか?という移民問題の寓話的要素が底辺にありましたが、今回もそのラインは維持しながらも、なによりひとつの謎の本をめぐるしっかりとした冒険譚にしあがっていたという印象です。冒頭で紹介される日々のスケッチのすべてに意味があったーー!!とわかるクライマックスの連打、ほんと見ながらヒザを打ちまくりましたよ。劇中に出てくる小悪党の配置やその活躍ぶりもおさおさ怠りなく、ブラウン一家との気持ちがあやうくすれ違っちゃうところではめちゃくちゃやきもきしたし、あの電話…ほんと思わず泣いちゃったい。

このシリーズはギャグがしっかり笑えるところも大好きなんですけど、それにしても謎のミッションインポッシブル推しはなんなんだっていうか1もそうだったし今回も列車の上でのアクションシーンにめちゃくちゃMIシリーズみがありました。あれがここで出てくるかよというね!小道具の伏線の張り方もホントにうまい。

地元の映画館では吹替えの上映しかなくて(子供むけファミリー層狙いなのかな〜)、吹替えで拝見したんですけど、いやはや古田新太さんはほんとに何でもお出来になるねとため息をつく。お父さん今回もここぞ!というところでめちゃくちゃカッコいい!!最高!!今回、ヒュー・グラントが昔は大スター、今はパッとしない落ち目の俳優という役で出ていて、ひとり屋根裏でハムレットマクベススクルージの衣装を身に着けたマネキンと会話をするというシーンがあり、そこはねー!字幕で!見たかった!斎藤工さんの吹替え全然悪くなかったけども、ヒュー・グラントが演じるハムレット(の一節)とかちょう見たいやん!

このシリーズは悪人は悪人らしくありつつも極悪ではないというか、チャーミングさを喪わずに描いているのがとってもいいし、だからこそあのエンドロールほんと釘付けになっちゃいますよね。欠点があるとすればあれではだれもスタッフロールを読まないというリブート版ゴーストバスターズ問題(クリヘムさんのダンスシーンと共にエンドロールが流れる)くらいでしょと思う。

飛び出す絵本の見せ方の素晴らしさ、それをおばさんに贈りたいと思うパディントンの気持ち、そういうすべてが昇華するラストとってもよい。もちろん泣きました。ファミリー層向け狙いかもしれないけれど大人が見てもめっちゃ楽しいし、そして嬉しい上映時間95分!最高か!

シネマ歌舞伎「京鹿子五人娘道成寺/二人椀久」


引越してからシネマ歌舞伎をやっている映画館に行くのがなかなか大変になってしまい、足が遠のいていたのですが、先日Eテレでやっていた「伝心 玉三郎かぶき女方考」での玉三郎さまによる「京鹿子娘道成寺」の実演と解説(ほんとこんな贅沢な番組を企画してシリーズ化してくれるなんて受信料永年払いしてもいい、いや、したい!)を見て、俄然見に行く気になったというか、舞台そのままじゃなくてバックステージの様子やインタビューも入ってるというのにも惹かれて足を運んできました。二人椀久(玉三郎さまと勘九郎さん)も一緒に上映されていますが、私はこの踊りとあまり相性がよくないのか、今まで3回ほど見たことがある…と思うんだけどいまいち好みではないので、今回は五人娘道成寺の感想を。

途中で玉三郎さまの過去の「京鹿子娘道成寺」や玉さまが菊之助さんとおやりになった「京鹿子二人娘道成寺」の映像が出て来たり、それこそ今回一緒に出演された梅枝さんや児太郎さん、七之助さん勘九郎さんのそれぞれの特色がやっぱり出るというか、こうして映像で並べてみるとほんと役者の数だけ…という感じなんだなあというのを実感しました。この舞台は実際に拝見したんですけど、舞台で見るときはやっぱり全体としての絵を認識してしまいますが、こうして切り取られることで見えてくるものもあるなーと。

児太郎さんが「娘道成寺」へのストレートな憧れとこの舞台に出られた喜びを素直に表現されているのがほほえましかったですし、梅枝さんのその喜びもさることながら自分が到達したい、しなければならない道の先を見据えている言葉選びも印象的でした。しかし、梅枝さんはめちゃくちゃ深みのあるいい声をされてますね。普段の喋りからいい声爆弾炸裂させててビックリしました。ナレーションのお仕事とかやってみてほしい。

勘九郎さんが「立役ひとりぶち込まれちゃって…」とか冗談めかして仰ってましたが、この人は踊りを非常に感覚的にとらえてらっしゃる、感覚的というか、どこか「ささげるもの」「ちがうところにいくもの」というような感覚でとらえているようなところがあると私は思っているので(芸能の原点ですよね)、インタビューでそれをうまく理詰めで説明できないのもむべなるかなと思いました。

これは歌舞伎に限らずなんですが、私はこうしたバックステージものの映像のなかでも、出の前に袖にいる役者の顔を見るのが一番好きなんですね。ぜったいに私たちに見えない顔。普段通りのひともいれば、入り込んでいるひともいて、それは役者によってさまざまですが、今回袖で5人の鏡前をずらりと並べて花子の拵えをする姿が見られたのはなんとも御馳走をいただいた気分でした。玉三郎さまが最後の出の前に、ひとつ小さく頷いて鬘をつけるところ、ああいう顔ほんと、しびれますよね。

それにしても、玉三郎さまの演じる花子のひとつひとつが音がしそうに絵としてキマっているのがすごいし、最後にはその顔まですっかりかわっているのもすごいし、恋の手習いの思わず息止めて見つめちゃうみたいな吸引力もすごい。同じ時代に生きて見させていただく喜びたるや。そして、次にひとりでこの道成寺歌舞伎座の舞台で挑んでいくひとは誰になるんでしょうね。

「キングスマン ゴールデンサークル」


マシュー・ヴォーン監督!全米公開はもうずいぶん前だったのでだいぶ待たされたね!お待ちかねの続編です!

第1作も好きなひとは好きだけど一定数受け付けないひともいる…みたいな感じだったと記憶しているんですが、まあその作風は今回も同じですよね。好きな人は好き!ダメな人はダメ!すがすがしい!私は1作目はぜーんぜん平気だったんですよね。あの頭スポポポンとか「景気よく人が死ぬ」みたいなの全然大丈夫なの。今作もエグイ描写は特に苦手というわけではないんだけど(見たあとハンバーガーを平気で食べられる)、個人的には1作目にあったスパイガジェットのスタイリッシュな見せ方や、魅力的な悪役の書きぶりが好きだったので、そういう部分は今作は薄かったなーとおもう。

脚本が、大ナタでぶった切りながら書きましたよねってぐらい大味なところと、めちゃくちゃ緻密な工芸作品かよ!ってぐらい繊細に書かれているところの差がすごくて、見ながら結構戸惑ったなー。というか、ハリー・ハート周りのことはめちゃくちゃ繊細に書かれてるんだよね。ほんとコリン・ファースの演技すさまじかったですね。あとあのあたりの展開とエグジーの台詞がほんと二次創作が束になってかかってもましゅぼんプロの前に投げ返される感を大スクリーンで見せつけられてる感じでしたね。

チャニング・テイタムがああいう役回りになったのはスケジュール多忙のためらしいですが、彼の活躍を楽しみにしていたのでそこは残念でした。でもペドロ・パスカルがかっこよかったからそこはいってこいだ!今回のラスボスはジュリアン・ムーアだけど、なぜ彼女じゃなくペドロ・パスカルがミンチにならねばならなかったのか解せん派です。女性をミンチにするのはためらわれるってことだとしてももうすこしえげつない最期でもよかったのでは。

今回いちばん魅力的に描かれていたのはマーリンだと思うのであの最期…というか、最期そのものはいいんだけど、そうなった経緯のなんか雑な感じがいやだった。ガジェットがガジェットの役を果たしてないしそれがスパイものの楽しさなのにーと思ってしまう。しかし「ローガン・ラッキー」に引き続きCOUNTRY ROADがここぞというタイミングで使われる映画を連チャンで見ているな!雑な感じといえばロキシーとJBの顛末もいやだったーーー続編というかチームもののよさってああいうキャラとマスコットが育っていくところだと思うんだけど、それをあっさり放棄するましゅぼん…うう…次のカットで新しい犬つれてくるのはさすがにアカン!アカンで!

ラストファイトはハリーとエグジーがバディになってラスボスに向かっていくわけだけど、それよりもエルトン・ジョンの無双ぶりが印象に残っている…。荒唐無稽カモン!大歓迎!ではあるんだけどキングスマンには何を求めてるかってやっぱりスタイリッシュさなので、今作はその純度がちと下がっちゃったかなーという感想でした。しかし「3」だけじゃなくちゃんたむのスピンオフとかも考えてるらしいですねすごいねキングスマン