「こんぴら歌舞伎大芝居 昼の部」

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  • 金丸座 ろ1の2番

義経千本桜」すし屋。勘九郎さん、いがみの権太初役!ご本人も筋書で狐忠信と知盛はやったことがあるのでいつかは権太も…と思ってらっしゃったと書かれてましたね。

昨年暮れの顔見世で仁左衛門さまがちょうど権太をおやりになったばかりなので、その記憶もまだ鮮明なところですが、いやはやかなり違いますよね、上方の権太と。基本的に権太の「抑えきれない情」をあえて見せるのと、最後の最後までそこは抑えて抑えたうえに、それでも漏れ出るものの匂いだけをかがせる、ぐらい人物の見せ方が違いました。おもしろいなー。

勘九郎さんの権太、ドラマの影響もあって日焼けした浅黒さと引き締まった体つきが役に説得力を与えているし、まあなにしろかっこいい(結局そこ)。かっこいいのよ。弥助とお里のふたりを追い立てて部屋から出しちゃうときの傍若無人さも、母親に泣き落としでかかるときのクズっぷりも、どうしようもないやつ!と思いながら、でもかっこいい!と引き裂かれる私の心(別に引き裂かれてはいない)。銀三貫目まんまとせしめて、へいこらしながら戸を閉める、閉めた瞬間ぬっと顔立ちが変わって人相にも「いがみ」が滲み出る、あの変わり身の鮮やかさ!そして悪の魅力の満開ぶり!客席が一瞬どよめいたのもむべなるかなですよ。

あと、首実検のところもよかった。下手で、顔色ひとつ変えずに梶原を凝視してるんだけどさ、維盛の首に相違ない、の瞬間に表情はそのまま、だけど肩にひっかけていた袖がぱさっと落ちるのよね。あの首実検にかける権太の想いをそこだけに凝縮させるストイックさ!すごいね、歌舞伎!去っていく一行に向かっての「褒美の金、おたのもうしまっせ」のくだり、あふれる思いを出すな、出すなという権太の心の声が聴こえてきそうで、瞳がうっすらと滲んでいるような、それすらも出すまいとするような、あの横顔。いやーよかったです。

中車さんの弥左衛門、やっぱり語って聞かせるところでちょっとトーンが落ちちゃう感じがある。そのあとの亀蔵さんの梶原景時の台詞とか聞くと、こういう古典の体力っていうのはまさに積み重ねによるものなんだなーと実感します。とはいえ芝居味のある場面で客の視線を一気に惹きつける方だなーというのも思いました。歌女之丞さんは今月昼夜ともに素敵なところが沢山拝めてうれしかったです。鶴松くんのお里もかわいらしかった。

今回のこんぴら、勘九郎さんはタイプの違う三役で、正直…どれも好き~!って結論にしかならなかったんですけど、どういう役がいちばん人気があるのか、ちょっと聞いてみたい気もします。

「心中月夜星野屋」。昨年夏の納涼でかかった新作歌舞伎です。こちらも元ネタは落語。中車さんと七之助さんはそのまま、母親役が獅童さんから扇雀さんになりました。

これも、この金丸座のコヤの空気と演目がぴったり合った感じでしたね!もう、どっかんどっかんウケる。お客さんみんな手を叩いて大喜びでした。最初の、ついつい心中の約束をしてしまう、あたりも芝居のトーンがくっきり変わるのでわかりやすく、だからこそそのあとのおたかの返答のドライさが倍おかしいって感じありました。

七之助さんのおたか、美しくて、でも愛だのなんだのに夢を見るようなポエマーなところは微塵もなくて、実がないっていうよりもむしろ現実主義って感じで、それがむちゃくちゃ魅力的に見えてよかったです。扇雀さんとのコンビも最高。思えばこのお二人、野田版鼠小僧でも超リアリストな母子を演じておられましたね。ゴールデンコンビだな~。対する中車さんと亀蔵さんのコンビも絶妙。中車さんホントこういう演目での光り輝き方ハンパないです。

稽古屋座敷→我妻橋→稽古屋座敷に至る転換も客を待たせない工夫がされているのも個人的には花丸。あと、これはサゲにもう1枚上乗せてくる歌舞伎版のオチが好きです。ここで客席がまたドッと沸いて、その空気のまま打ち出し、というのがまた最高でした。

昼の部はありがたいことに最前列で拝見させていただくことができて、いろいろ感想とか検索してたら最前は照明が視界を遮るかも…というのもあったので、どんな感じかな…とおそるおそるだったのですが、幸い真ん中の芝居はきっちり見えていうことなしでした。ほんっとに近い、近すぎておそろしい、これに慣れちゃいかんいかんぞ、と言い聞かせながら、勘九郎さんの権太を文字通り穴が開くまで凝視させていただきました…ホントにファン冥利につきます!昼夜ともにこれ以上ない!ってほど堪能させていただきました!

「こんぴら歌舞伎大芝居 夜の部」

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  • 金丸座 青田組3の3番

「傾城反魂香」土佐将監閑居の場、吃又とも言いますね。勘九郎さんの又平、猿之助さん(当時亀治郎さん)のおとくで観たのが最初だったかな。その後も勘九郎さん七之助さんのコンビとか、仁左衛門さんの又平に勘三郎さんのおとくも拝見しております。今回は扇雀さんの又平に七之助さんのおとくの顔合わせ。

扇雀さんの又平は初役だそうですが、個人的にはすごくよかったです。今まで見た中では、どうしてもおとくに「陽」のイメージがあることが多く、又平は「陰」だし、どこかキャラクターに最初から悲劇性があるというイメージだったんですよね。でも扇雀さんてどこか「陽」の雰囲気のある人で、それは序盤は「滑稽さ」に繋がりかねないところもあるんだけど、いよいよ彼が自分の声で必死に訴える段になると先ほどまでとの落差が効いてくる感じがある。必死さの中の哀れさがより強く滲むというか。七之助さんのおとくは逆にどちらかというと最初から悲劇性のある立たせ方なので、そこもうまくはまっていたのかもしれない。

手水鉢の絵が抜けるところ、じわじわ見えてくる…ではなくて描き終わってしばし間があってサッと現れる、というふうだったので観客も思わず「おおっ」という感じでざわめきがありました。あそこのさ、気がつきそうで気がつかないところ、ほんとうまいことできてるな~って思いますよね。客の心理をよくわかってる。

勘九郎さんの雅楽之助、短い出番ながらキリっとしたお姿、こういうのを見たいんでしょ?わかってるんですよといわんばかりのキレッキレの動きでもはや拝みそうになりました。飢えてるところに降ってくる大御馳走!ありがたくいただきます!

「高坏」。これ、この金丸座という小屋と、まさに花盛りという今の時季とがぴったり重なって、なんというか幸福感が倍増しで感じられた一幕でした。とにかく雰囲気がべらぼうにいい。この会場に来るときに観客は石段の前に咲いていた桜や道すがらの風景を、この演目を見ているときにも脳裏に思い浮かべるだろうし、演じ手もその共感を共有しているというのかな。会場全体にふんわりと桜とお酒のよい香りが漂っている気さえしました。

また勘九郎さんの次郎冠者も、前半の可愛らしさもさることながら、酒に酔って高足で舞い始めると、まさに馥郁たるというような柔らかさがあって、初役で見たときを思うと本当にずいぶん変わったなー!という気がします。私が見ていた回では大向うの「待ってました!」が絶妙のところでかかって、それもぐっとこちらのテンションを高めてくれた気がしました。

「芝浜革財布」。言わずと知れた落語の「芝浜」を歌舞伎化した作品。歌舞伎で拝見するのは初めてです。今回は昼夜ともに落語を題材にとった作品が入ってるんですね。

中車さんの政五郎、七之助さんのおたつ。もともとが落語噺なので、軽妙で楽しく見られるし、役者はふたりとも達者だし、大満足でした。中車さんも七之助さんも、前半の生活臭あふれる佇まいと、後半の旦那然、奥様然とした恰幅の良さ、羽振りの良さが際立つ姿も両方絵になるのがいいですよね。昼の部の「星野屋」とくらべると、あの暗転のときの処理とかは時代だなーと思ったりしましたが。

あと、サゲが落語とは違うんですけど、これは絶対落語のサゲのほうがいい~~!!と個人的には思います(笑)

さて、金丸座にお邪魔するのは何度目になるのかな、もちろん雰囲気が最高で気分がアガるのは間違いないんですけど、平場のお席で過去に結構つらい目にあったことがありまして、それ以来なんとなく腰が引ける!みたいになっておりました。しかし!今回は個人的にすごく席に恵まれて、今までの苦手意識もこれで払拭という感じです。

夜の部は1階の後方、青田組というところだったんですけど、これがもう…最高でした。青田組の2列目からは椅子席なので、視界がぐっと高くなるんですよね。観やすいし、何よりラク!しかも出口も近いのでトイレもすぐ行ける(大事)。あと今回平場が椅子になったので、観客全体の頭の位置が高くなったことにより低い位置での芝居が観づらいきらいがあると思うんですが、それもまったく影響なし。しかも私の座った3の3がど真ん中なんですよ。もう、普通に前見てるだけで舞台全体はもとより花道仮花道全部が視界に入り、しかも役者の目線と同じ高さ。これは芝居好きなら誰でもここに座りたい!というような席なんじゃないですかね。高坏で勘九郎さんがいざ舞わん、というところでバッチリ目線いただきましたー!みたいな錯覚だってできちゃうってなもんですよ。とにかく最高の場所で堪能させていただくことができて、感謝感謝です。

「野田版・桜の森の満開の下」

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今のところに転居してからシネマ歌舞伎とかNTLとか変則上映には縁遠くなってしまったな~と残念がっていたのですが、桜となると諦めて指をくわえちゃいられないよ!なんつって、同県内でやってくれるだけでもありがたい。ありがたい。

いろんな劇場で「贋作・桜の森の満開の下」の舞台を観てきたし、遊眠社版のDVD(最初はVHS)は数えきれないぐらい再生しているし、昨年行われた野田地図版も先日放送されたばかり。いろんなフォーマットでこの作品を見てきたけれど、思えば大スクリーンで見る、というのは初めての経験でした。

WOWOWのドキュメンタリで野田さんが仰ってましたが、休憩時間が入ることによって観客が一気に二幕で集中しだす、っていうのはわかるな、と改めて映像で見ても思いました。やっぱり前半の、おもちゃ箱をひっくり返したような展開を休憩時間でクールダウンして観客に飲み込ませる、って作業は非常に有用なんだなと。そしてこの作品の第二幕は掛け値なしにすばらしい。もはや体感15分ぐらいしかない。

寄りの表情が見られることが嬉しいシーンもあれば、いやここはもうちょっと引きの映像がいいのに、と思うところもあり、まあこういうのは実際の舞台が映像化されたときにつきものの感想ですね。オオアマの「耳男お前がオニになれ」は染さまのアップでたのむよ!とか、あの最後の殺しの場面はもっと引きで見たいよ!とかいろいろありましたが、逆に言うとそういった「舞台を観たものだけの記憶」が残っていくのはいいことなのかもしんない。映像ってやっぱり強烈だから、自分の記憶が知らないまに上書きされちゃうこともあるわけで、それは永久の楽しみを手に入れる代わりになくすものもあるってことで…あれ?なんだか贋作・桜の作品そのものにも似ていますねこれ。

夜長姫と耳男の終盤のやりとり、今日でなくちゃいけないのかい、今日でなくちゃいけないんだ…そのとき、おぶっていたのは私?からの七之助さん、もはや面をつけていなくても、スッと顔や身体、すべてのものの色が変わって「この世ならざるもの」に変化しているのが感じられる、それが舞台のマジックではなく、こうしたスクリーンを通してなお感じられるというのが、ほとほとすごい。何だったら、面をつけなくてもよいのではないかとすら思うほどです。そしてあの殺しの場面の夜長姫と耳男の動きは、初演から大まかなところは変わっていませんが、間違いなくその様式美ともいうべき美しさは歌舞伎版が群を抜いていると思います。歌舞伎って、どうしてあんなにも「殺し」の場面が美しいのだろう。ひとの極限を描くことに長けた表現方法なんだなあってことを、またここでもしみじみと感じたりしておりました。

この作品は、実際の舞台を観ていても、メディア化された映像を観ていても、たとえばうるっと涙をこぼす、というような日もあれば、もしそこに誰もいなければ、突っ伏してごうごうと声をあげて泣いてしまいたい、という衝き上げるような衝動に駆られる日もあって、ほとんど慟哭に近いその衝動がどこからくるのか、これだけ何度も何度も何度もこの作品を反芻していても、正直なところ自分にはわからない。でも、わからないってすごいですよね。30年という時間、この作品のことを考えていて、何度も触れて、それでもわからない。わからないのに、愛おしくてしょうがない。なにがそんなに悲しいのか、と聞かれたら、人間に生まれたこと、としか答えようのないような根源的な悲しさが、この作品を見ていると私を襲ってくる。なにか大事なものを喪って、それに気がつかずに日々を過ごしているけれども、でもこの作品を見ている間はそのなくしたものが…オニが、自分のそばにいるような気がしてくる。

しかし見れば見るほどこれ以上ない、というような布陣での上演だったな~。勘九郎さんと七之助さんは言わずもがな、染五郎さん(あえて当時のお名前で)のオオアマ、本当にすばらしい。こんなにも上からものを言わせて説得力と魅力が爆発する人そうそういない。「このなくした耳から俺を名人と呼ぶ声が聴こえてくるのでしょ?」「あ?」この「あ?」だけで白飯3杯いける勢いですよ。猿弥さんのマナコも、マナコにぜったいに必要な愛嬌があふれまくっていて、だからこそ最後の哀しさが際立って。梅枝さんの早寝姫も大好き(いささかも気が引けませぬ!の間、絶妙すぎる)、ハンニャの巳之助さんも魅力炸裂してたなあ…本当にいい座組だった。

贋作・桜の歌舞伎版への思い入れは、私にとってはイコール亡くなった勘三郎さんへの思い入れでもあったわけだけれど、こうして勘九郎さんと七之助さんに耳男と夜長姫を演じてもらえて、思ってた以上の芝居を見せてもらえて、なんだか凝り固まっていたこの作品へのほとんど怨念といってもいいような執念が浄化した気がします。ラストシーンの耳男の、勘九郎さんのあの慟哭と、あの桜の木の下にただひとり座っている姿を見ていると、最後にはそういった過去の何もかもが消えて、ただこの作品そのものへの愛しさだけが自分の胸に残るような、そんな気がしてきました。

平成の世が開けると同時にこの世界に生まれ落ち、平成という時代が閉じるまさにその月に、しかも文字通り桜の咲き誇るこの季節にこうして新しいフォーマットで生まれ変わっていく「贋作・桜の森の満開の下」。私の観劇人生を支える一本であることは間違いなく、そういう作品に30年前に出会えたこと、本当に感謝したいです。

「バイス」

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アダム・マッケイ監督・脚本。今年の賞レースで各方面でノミネートされており、えっクリスチャン・ベールどうした!?って変貌ぶりと、えっあなた本当にサム・ロックウェル!?な映像をたくさん見てこれは…観るしかない!と思っていた映画です。

ジョージ・ブッシュディック・チェイニーコリン・パウエル…さすがにこのあたりは名前と顔が一致しているし記憶にも新しいところです。そのホワイトハウスにおける虚虚実実の内側を描く…というよりは、むちゃくちゃ告発の色合いが強い。告発というか、「どうしてこんなことになったのか、それをはっきりさせなきゃいけない」という強い意思。冒頭に「これは真実の物語だ(true story)」と出て、based onでもinspired byでもないところにも製作者の意思を感じました。

ストーリーテリングとしてはかなり変化球というか、ナレーターとなる語り手がいて、その語り手の正体は映画の後半で明かされるわけですが、そのナレーター視点からのツッコミまたは解説というようなものをどんどん見せていく。実際の映像もどんどん使っていく。でも実際の映像だと思ってたら出ているのはサム・ロックウェル演じるブッシュだったりする。冒頭、いきなり9.11のシチュエーションルームから始まって、そこで副大統領権限を超越したことをやろうとするチェイニーが弁護士と相談するっていうシュールさ(というか、あそこ弁護士入れるのね。シチュエーションルームじゃなくて単に避難時のシェルターだってことなのかな)。私の愛する「ザ・ホワイトハウス」でも権限移譲のサインをめぐって紛糾するエピソードがあったし、「非常時だから」ではなく法解釈を味方につけてからことを動かすチェイニーの狡猾さが際立つシーンですごく印象に残りました。

イラク戦争の時の「大量破壊兵器」を巡る報道合戦も、なるほどこういうことが行われていたのか…と腑に落ちる思い。もっというとイラク攻撃の口実に使おうとしたいちテロリストを誰が有名にしてしまったのか、そしてそれがISとなって台頭してしまうというこの皮肉さ、いや皮肉なんて生易しい言葉ではすまない、取り返しのつかない事態を招いたことと、そしてその招いたひとたちは、何万キロも遠い彼方で清流に足を浸しているのだ、ということにぞっとしました。

ヴォネガットの小説の中の台詞だったと記憶しているけど、金の流れる川の近くにいる人間はどうやったらうまく川の水を汲めるかということに執心しどんどん水くみがうまくなっていく、他方川から離れて暮らすひとたちはどうやって水を汲めばいいのかさえ教わることがない…っていうのを思い出したり。あの遺産相続税の死亡税への言い換え。逆にいえば、そういうことで人心というものは左右されてしまうんだという怖さというか。

クリスチャン・ベール、マジで後半どこにもちゃんべの面影ない。若い頃のチェイニーはまだああ、彼がやってるなって感じあるけど、ある時点からマジでまったく役者の顔がどこにも見えない。すごいね。エイミー・アダムス、さしずめ現代のマクベス夫人もかくや、な役どころでしたけど、あのシェイクスピア的台詞の応酬のところとか二人揃って最高でした。スティーヴ・カレルラムズフェルドもよかったけど、やっぱサム・ロックウェルのブッシュがむちゃくちゃ印象的です。素の彼はぜんぜんブッシュ本人に似てないのに、そしてむちゃくちゃ特殊メイクで仕上げた感もないのに、映画のなかの彼、ブッシュにしか見えない。チェイニーから見れば「いい駒」にしかすぎなかったであろう人物を、バカに見えることを恐れず直球でみせてるところがほんと、いい役者さんだなーと。

チェイニーが見せるたまさかの人間性、ことに次女の同性愛が発覚した場面、大統領選で次女(演じてたアリソン・ピル、政治ドラマでよくお見かけしますわね)を引き合いに出されることを思い一線を退いた選択だったり、あの副大統領としてホワイトハウスに戻ってきたときに過去に想いを馳せる場面とか、そういうものはあるにせよ、この映画はチェイニー自身の許可を得ずに描かれていることもあって、そういう内面の連続性、みたいなところを期待するのはさすがに難しいという感じですね。でもって、ポストクレジットシーンがひとつありますが、これがまた、強烈です。

「ブラック・クランズマン」

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スパイク・リー監督作品。本年度アカデミー賞脚色賞を受賞。プレゼンターのスパイク・リーの長年の盟友、サミュエル・L・ジャクソンとの抱擁、感動的でしたね。

もともとの原作はこの物語の主人公にもなっているロン・ストールワースご本人が自らの体験をもとに書かれたものなのだそう。1970年代、まだ差別の色濃く残る時代にその地区初めての黒人警官となったロン・ストールワース。警察署内でもまだまだ偏見の残る中、彼はひとつの新聞記事に目をつけ、黒人に対する強い偏見を持ったレイシストを装ってかの悪名高きKKKクー・クラックス・クランに電話をかけ、組織内に潜入捜査を図ろうとする。もちろん、潜入する刑事は白人でなければならない。ひとりの人間をふたりで演じ、そのいびつな組織深くに潜り込んでいく。

70年代の話だよね、今はもう時代が違うよね、と安心しているとビンタされて、返す手でもう一回打たれるみたいなアレ。それでいて、オフビートな刑事もののバディ・ムービーを見ている面白さも存分に味わえるので、感情の振り幅がえらいことになりました。KKKの指導者デビッド・デュークについて、ローブで顔を隠さず、自分の主張はまるで人種差別ではないかのような顔をしてホワイトハウスに乗り込む、そこで憎悪を撒き散らすんだ、と言われたロンが「国民はそんな男を選びませんよ」と答える場面、ぞっとしました。そう言うロンに対して返した「ずいぶんのん気なんだな」というセリフにも。国民はそんな男を選ばない、とおそらく多くの人が思っていたはずなのだ。

KKKが目の仇にしたものは黒人だけではなくユダヤ人もだったんだけど、ロンの代わりにレイシストのふりをしてKKKに潜入するフリップがKKKメンバーのひとりにユダヤ人かどうか執拗に疑念を向けられること、それによって自分のルーツに自覚的になっていくところがよかったし、ロンとの連帯感も絶妙な温度だったな~。

しかし、アダム・ドライバーは魅力的な俳優さんだねえ。SWシリーズとも、ローガン・ラッキーともぜんぜん違うタイプのキャラクターで、ぜんぜんオーバーアクトなふうでもないし、いつものアダム・ドライバーなようで全く違う魅力があるっていう。

任務を無事終えた捜査チームの大団円ぶり(あの悪徳警官の末路!)がすごくいい風景で、ホッとしたところに2017年の映像をぶちかまされて、地続きであること、にうちのめされて劇場を出るパターン。でも今見られてよかったなと思った映画でした。

「空ばかり見ていた」

主演に森田剛くんを迎えての岩松了さんの新作。いやー岩松さんの作品は個人的にズバッとくるやつと掴もうとしてもつるっと手の中から逃げていくパターンがあって、今回は最後まで残念ながらつかみきれず…という感じでした。好きな役者さんが多いし、それぞれの会話は楽しんで観ているんですけども。

内戦状態にある日本のどこかで、廃校にゲリラ基地を構えている集団が舞台なんですが、銃やヘリコプター、捕虜といった生々しい単語に交じって、生保レディが保険の勧誘をしてしまう緊迫感のない一面もあったりする。主人公はその部隊のリーダーの妹と交際しているが、自分も前線に出たいという彼女はある日暴行を受けてしまう。

主人公とその妹に起こったこと、とその集団のタガが外れていくさま、それによって壊れていく人間関係。中でも隊員の母親と捕虜のひとりのやりとりが物語の展開にスリルを与えていて面白かったです。しかしあの母親のバックボーンというか、あのあたりの事情をうまく掴み切れなかったんだよなー。つるっと説明されて終わってしまった。

勝地くんのやった役どころが、チャラついているように見えて底知れないキャラクターで、彼の柄にも合っていてすごくよかったです。本当には何を考えているかわからない、というような怖さが端々に滲むのがよかったし、その怖さが後半かなり物語を牽引していたなーと。筒井さんも久しぶりに舞台で拝見した気がしますが、相変わらず年齢不詳な感じがあの存在の相容れなさとバッチリはまってた気がします。剛くんもよかったけど、個人的には彼はもっと叙情が強い台詞や舞台で見たい気持ちがあるかな~。

岩松さんの作品、そんなに得意じゃないのに、ツボにはまったときの快感が強くて忘れられずついつい見に来てしまう…っていうのを繰り返している気がしますが、それをさせる気になるのも岩松さんの力量なのかな~。

「クラッシャー女中」

激戦のなか、なんとかチケット運にめぐまれ拝見することができました。根本宗子さんの作品は「皆、シンデレラがやりたい。」がすごくよかったので今回も楽しみにしておりました。

あんまり具体的なことは書かないようにしておりますが、それでもネタバレ気になる方は以降は回避が吉でございます。

制作発表当初(と、公式サイトとかにあるあらすじ)とはかなり方向性が違ったストーリーになっており、とある裕福な家庭に育った何でも持っている(ようで、何にも持っていない)男と、その男に執着だったり執念だったりいろんなものを燃やす女たち、という図式なんですけど、書くつもりだった方向には話が転がらずこういう展開になったのかな?と思うところもちょっとありました。特に最後はもう少し構図をまとめてスパッと終わってもよかったのでは。彼女が手を差し伸べて意図を明らかにした瞬間でエンドっていうのでも個人的にはダークさがあって好みだな~とか。延々続くやりとりも悪くはないんだけど、「そんなの愛じゃないね、それは暴力だね!」ぐらいのパンチラインが欲しかった感もあります(むちゃくちゃ個人的な思い出挟むの禁止)。

狂言回しの役が入れ替わるのも面白いアイデアだったんだけど、あれはあれでぐいぐい出れば成立するってわけでもないところが難しいですね。私わりと時系列の混在は得意なほうなんですけど、ちょっと流れがスムーズに飲み込めないな~というところがあったのが残念。子どもを演じる時の「演劇あるある」ネタとかはすごく面白かったですし、いいキャストが揃ってるので全体としては楽しく見られることは間違いないんですが。

倫也くん、Sっ気炸裂させてみたり寄る辺なさを醸してみたり、理想の女の子に恋する男の子になってみたり、あんな顔こんな顔たのしませてくれました。個人的には田村健太郎さんめっちゃいい仕事するなー!と感嘆。あの復讐心の話を妹にするところ、この芝居の中でも屈指の名シーンだと思う。趣里さんの吹っ切れた芝居も個人的に好きな感じでした。あと舞台に立った時の姿勢の美しさ、やっぱ目を惹きますね。

あと、カーテンコールの処理が個人的にちょっとむむむ…となってしまった。いや、多分さ、これは全然私の想像だけど、中村倫也くんのファンになって初めて舞台を観に来た、みたいなひとも少なからずいたであろうと思うんですよ今回。で、カーテンコールでいっぱい拍手送りたい(カーテンコールでの姿をいっぱい見たい)って人もそりゃあいたと思うんだ。私は長いカテコ断然NO派だから、すぱっと終わってくださるの助かるっちゃ助かるんだけど、あの幕切れはなんとなく消化不良になってないかなお嬢さんたち…ってことをね、考えてしまったりするわけです。いやもちろん、作演出の根本さんがどう提示するかを決めることだから、ああするべきこうするべきなんて言うのもヘンな話だよなってのはわかってるつもりなんですけど。