「命、ギガ長ス」松尾スズキプロデュース 東京成人演劇部 vol.1

松尾スズキさんが東京成人演劇部のvol.1として公演する安藤玉恵さんとの二人芝居。ハコは小さいし(東京はスズナリ)、7月はちょっと忙しいし…今回は見送りかな…と思っていたのにフタをあけてみたらという例のやつ。大阪公演の追加販売にギリギリで引っかかりまして、もろもろ調整のうえ見て参りました。大阪公演の劇場は新しくできた読売テレビ新社屋の10hall。新社屋全体はまだ完成じゃないですけど、1階のホールだけ使えるようになってました。公開番組の収録とかで使うのかな、椅子もしっかりしたやつで、だいたいキャパ200強って感じでしょうか。立地もよいし(元シアターBRAVAのとこ)このサイズのハコとして関西で育ってくれるといいですね。

「26歳で劇団を作ってからというもの、失敗したらホームレスというプレッシャーとばかり戦い、楽しむことを忘れてしまったのではないか」と、だからこその「演劇部」としての立ち上げ、ミニマムな構成、セットデザインも松尾さん自ら。とはいえ、というか、だからこそ、というか、こういうホンを書くのって、本当に松尾さんのワンアンドオンリーだなと強く感じさせる見事な舞台で、いやー見に行ってよかったです。

子供は無職で引きこもり、親の年金で暮らしを立てる8050問題真っただ中の親子と、その親子を素材として8050問題のドキュメンタリを録ろうとする女子大生とその指導教授。しかしその親子は実は「8050問題を見せるセミプロ」だった、という切り口。切れ味の鋭い台詞がたくさんあって、心のメモ帳が忙しかったです。

ニートの息子が言う、どうしてみんな、無職にドラマを求めてくるのか、こっちは選択して無職をやってるんだ、って台詞があって、こういう視点ってまさにザ・松尾スズキというか、かつて障碍者を「かわいそう」とか「感動」だけの物語でくるむことをせず、「彼らにも淡々と消費する日常がある」と言ったひとならではだなと思いました。「それだけの金があったら一生遊んで暮らせる」「もう十分遊んで暮らしてます」のカウンターもすごい。

認知症の母親は何度も風呂場で夫(息子)を死なせてしまった話をするんだけど、クライマックスの「まだ手が離せない」、すごい、すごいパンチ力でしたね。風呂場で溺れた子どもの手を引っ張っているイメージが、一気に「まだ手のかかる子供で」という母親の共依存めいた言葉に聞こえてくるところ。唸りました。そこに畳みかけられる、「ただ、いたずらに、長らえるだけでもいいので」。参った。

ギャグもキレッキレで、なんといっても「野田秀樹セサミンのCMに出る時代」に腹捩れるほど笑いました。安藤玉恵さんすばらしかったなー!タフさが違うというか、あの松尾さんとこれ以上ないほどガッツリ組んで、この世界観で、芝居のトーンが沈みきらず絶妙な軽さがあって観るものを引っ張っていってくれる。あと!効果音の吹越さんの参加ビックリでした。

演劇というか、物語のよさは、美しいものだけでなく「その先の地獄」の風景を一瞬見せてくれるところにあるよなと私は思っていて、そういう意味では私にとって松尾スズキさんはいつも「その先の地獄」と「地獄だけど、生きてる」風景を感じさせてくれる作家なんだなーということを改めて感じた公演でした。

「チック」

世田谷パブリックシアターの主催で2017年に日本初演だったんですけど、その時引っかかりながらも観に行かず、するとその年の読売演劇大賞の優秀賞に本作の演出の方のお名前が入っていて、観に行けばよかった…と後悔していたんですよね。いやはや、すごくよかったです。今年のベストに食い込んでくる勢い。再演してくださって本当にありがとう!

もともとはドイツの児童文学書「14歳、ぼくらの疾走 マイクとチック」が原作で、ドイツで2011年に初舞台化。主人公はドイツの寄宿学校に通う14歳のマイク。母親はアル中、父親は浮気三昧、両親は顔を合わせればいつも怒鳴り合いをしている。マイクはあだ名をつけられたことがない。あだ名をつけられたことがないというのは友達がいないからだ。友達のいない、退屈なやつ、そうレッテルを貼られたマイクの学生生活は決して呼吸しやすいものではない。クラス中の憧れの女子の誕生日パーティーにもよばれなかった、冴えないマイク。けれど転校生のチックがやってきた。アジア系ロシア人の問題児。誕生日パーティーに呼ばれなかったマイクをチックは誘いに来る。青い車に乗って。

ひと夏の冒険、と言ってしまえば簡単なんだけれど、それだけですませたくないたくさんのひだを丁寧に描いていて、見ている最中はちょっと冗長かなと思うような場面があっても、最後にはそれらが彼らの人生に必要なものだったのだ、と得心するような物語の流れ、よかったです。マイクとチックがやっていることははちゃめちゃではあるのだが、だからこそ彼らがこの「世界」と触れ合う一瞬の美しさに胸を打たれる、そういうシーンがたくさんありました。中でも、チックがマイクにお前は退屈なんかじゃない、お前と出会って1分1秒退屈だと思ったことはない、誕生日パーティーによばれなかったのはお前が退屈だからなんかじゃなくて、お前がみんなのように女の子のご機嫌とりをしないからだ、と語り、おれにはそういうことがわかるんだ、なぜっておれは女の子に興味がないから、と静かに告げる場面。その告白を聞いたチックが、ここでチックを女の子より好きになることが出来たら、と思いながら、でもそうはなれない自分を感じて、ただチックの肩を抱く、あの場面の美しさは、まるで映画「ムーンライト」さながらでした。チックが「あまり深い意味にとらないで」とマイクに言うところで、観客からひそかな笑い声があがったんだけど、そのあとチックが、それまでただの1秒も神妙だったことなんてないチックが、膝を抱えてうつむいてしまう、それがまるでその笑い声に傷ついているかのようにも見えたんですよね。どうにもならないことなんだ、これは、というチックの声が胸に響くからこそ、マイクがただひたすらに、一身にチックに対する友情を返すのがたまらない気持ちにさせる。

病院で適当にかけた番号の相手が、電話口の向こうで自分たちの心配をしてくれる、そのときにマイクが言う「世界はクソだし、そうやって教わってきたけど、不思議なことに僕とチックはこの旅の間中、クソじゃない人にしか出会わなかった」っていうとこ、たまんなかったですね。それなのに、マイクは連れ戻された家でどうしようもない親に殴られるのだ。ラストシーンの、あのプールにすべてを投げ込んで、投げ込んだソファに座って水の底から水面を見上げるシーンも、よかった。キラキラと輝く水面、美しい世界。ずっと息を止めて沈んでいられるわけじゃないけど、でも思ったよりも長くそうしていられる、ってむちゃくちゃいいセリフ。あまりの美しさに、涙が出ました。マイクにとってチックと出かけた「とんでもなく遠く」へ行く旅は、ずっとそうしていられるわけじゃないけど、でも思ったより長くそこにいられる、ってものそのものだったんだろうな。

あの事故の瞬間のマイクのモノローグ、いろんな「できなかったこと」が駆け巡るのだけど、でもどうせいつか死ぬのなら、それが今でもいいと思った、っていう、あの言葉。忘れがたい。

演劇ならではの表現がふんだんにとりこまれていながらも、文字通りロードムービー、映画を見ている感覚にさせてくれるなと思っていたら、やっぱりドイツで映画化されたことあるんですね。舞台セットをスクリーン代わりにして、手持ちカメラを駆使した演出で面白かったです。小山ゆうなさんはドイツ出身だそうで、脚本の翻訳もご自身で手がけられたそうだ。あと何しろ舞台美術がすんばらしかった…と思ったら乘峯雅寛さん、読売演劇大賞のスタッフ賞獲られてましたね。回転して自在に表情を変える舞台もだけど、あのスクリーンになり天井になり壁になり…という壁面の使い方がむちゃくちゃ印象的でした。

マイクとチックを演じる篠山輝信さんと柄本時生さん、再演ということもあるし私が見たのが楽前というのもあるかもですが、盤石の仕上がりといった感じ。観客を巻き込みながら物語を転がしていかなければならないんだけど、こちらに居心地の悪さを感じさせない絶妙なラインで芝居をしてくれててよかった。5人中4人のキャストが初演からの続投っていうのも作品の質を表してるよなーと思います。

劇中で交わされる「50年後の約束」がどうなったかまでは作品では語られなくて、でもそれは当たり前とも言えて、なぜって今はまだその「50年間」の途中だからね。マイクもチックもイザも、まだbeing on the road、その道の途上にいるんだものね。その途上で、何度も、この夏のことを胸に抱きしめ直したりするんだろうな、そんなふうに自然に思える舞台でした。

公共劇場主催の公演で、演劇作品としてもすごくミニマムで再演の障害になる要素が極めて少ないんじゃないかと勝手に思っていたりして、いずれにしてもこれは上演を重ねていってほしいなーと思う作品です。今回見逃した方も、次の機会がありましたら是非。

「骨と十字架」

  • 新国立劇場小劇場 C5列14番
  • 作 野木萌葱 演出 小川絵梨子

新国立劇場パラドックス定数の野木萌葱さんの新作、演出は新国立劇場芸術監督の小川絵梨子さん。面白かったです!チラシのビジュアル素晴らしいですね。劇場ロビーの飾りつけも工夫が凝らされててよかった。

テイヤールはイエズス会の司祭であると同時に、古生物学者として人類の進化の起源への探求を続けていた。しかし、テイヤールのその思想はアダムこそが人類の唯一の起源であるとするキリスト教の教えに反するものであるとして、テイヤールの処遇が取り沙汰されることになる。

実在の人物を主軸に据えながらも、野木さんらしい物語の立て方というか、ドキュメンタリズムではなく「あったかもしれない」物語の紡ぎ方が相変わらず素晴らしいなと思いました。これもいつものことながら、「あったかもしれない」物語なんだけど、書き込み力がすごいので、ドキュメンタリ的な感覚で見ちゃう部分もあったり。つくづく野木さんは書ける人なんだな~と思います。

彼らのいる時代から約100年後の未来から見ている私たちからすると、人類の進化の起源というのはすでに「歴史的事実」のようにとらえてしまうけれど、そのまさに途上にあった宗教者たちがその事実とどう向き合ったのか、ってスタンスで描かれてる5人の登場人物の造形がそれぞれによかった。ラグランジュは一見、柔軟性のないような人物に見えるけれど、事実がどうかではなく、ただ神に向き合うこと、という一点においてブレず、テイヤールに「確固たる信念」を問いただす場面が非常に効果的だったし、リサンはその一見シニカルなような立ち位置が今の観客にもっとも近い部分もあるんだけど、テイヤールを見る時の「持てる者と持たざる者」とでもいうようなまなざしが印象的でした。リサンが2度、火をつけることに失敗するのも象徴的というか、劇中の原人たちが火を使っていたことはわかっている、火をおこせたかどうかまではわからない、すでにあるものを使ったのかもしれない…という台詞と重なる部分もあるような。

アンリの立ち位置も面白かったですね。テイヤールを誰より崇拝しながら、しかし開いている扉を開けて論文のことを密告したのも彼なのだ。あと、ラストシーンの最後のテイヤールへの問いかけ、「どちらへ行かれます?」は文字通りクォ・バディス、ペテロの言葉だし、この辺り聖書により親しんだ人が観たらより多くのなぞらえがわかるのかもなーと思ったりしました。

テイヤールは学者としての世界の探求と信仰する者としての神への探求は同じところにあると信じ、しかし、リサンの言葉に寄るまでもなく、自分の発見が自分の信仰の足元を揺るがすことに彼は気がついている。しかしそれでもなお、神のみもとへ、と歩く意思。信仰とは信じることではなく、信じる意思そのものなのだというような幕切れ、よかったです。

神農直隆さん、6月下旬に代役の発表があったと記憶してますけど、すらりとした背の高さ、細身にカソックがよくお似合いで、そしてなにしろいい声の役者しか採らないことで有名な(私調べ)MOPご出身の面目躍如でしたね。ハーほんまええ声。そして伊達さん、ほんといい仕事してたな!あの独特の口調、シニカルな佇まい、眼鏡、タバコ…台詞が明瞭で、言葉をほとんど荒げないけど心情がビシバシ伝わってて、爆発した時の牽引力もすごい。すばらしかった!小林さんと近藤さんのガッツリ共演、丁々発止のやりとりが観られたのもうれしかったです。劇中で「長い付き合い」って台詞がありましたが、文字通り長い付き合い(言うまでもなく東京サンシャインボーイズ時代の盟友)のおふたりへの野木さんのサービスかな!なんて思ったりして楽しかった。しかし、近藤芳正さんは積極的に若い演劇人と仕事をしていく姿勢が一貫してて、ほんと尊敬するし、近藤さんのお仕事を追いかけてたら若い才能を見逃さないのでは…みたいな謎の信頼感まであります。

この公演、パラドックス定数の方から重ねてDMで公演のご案内がきてたり、諸事情あって急遽チケットを買い直したんだけどその時はまだ残席がっつりあったりして、ちょびっと客足を心配してたりしたんですが、フタをあけてみれば口コミでしっかり動員されてて、楽前も満員の入りでした。すんばらしい!

「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」

f:id:peat:20190706005156j:plain
マーベル・シネマティック・ユニバースのフェイズ3のラストを飾るのはエンドゲーム…じゃなくて本作です!監督はホームカミングに引き続きジョン・ワッツ

最初のトレイラーが出た時はピーター・パーカーの夏休みがニック・フューリーに乗っ取られる、ってことと、ミステリオって新しいキャラクターが出るよって情報ぐらいで、しかもタイミング的にインフィニティウォーでいいだけサラサラしたあと(ピーターもサラサラしたあと)なので、これは…時系列的にIWよりも前の話をやるってことなの??とか思ってましたが、エンドゲームのフタを開けてみたらがっつりEG後だし、むしろEGのネタを明かさないと作品のキモとなるトレイラーが作れないしっていう、いや大変だったでしょうね宣伝部。

とはいえですよ。MCUを熱心に追いかけてきた人であればあるほど、この春からのキャプテンマーベルそしてエンドゲームの連打で、とくにエンドゲームの「集大成とはッ!!!こうッ!!!」といわんばかりの打撃に、燃え尽きたぜ…まっ白な灰に…みたいな心境になってた人少なからずいたんじゃないですかね?正直私はそういう部分ありました。そもそもEGの時にあれだけ水も漏らさぬ鉄壁のネタバレ防衛線を組んでいたのに、今作はちょっとガード下がっちゃってたものね(具体的なバレを踏むとこまではいかなかったけど)。しかも、今作の新キャラであるジェイク・ギレンホールが演じるミステリオはトレイラーではヒーローっぽい登場だけど、原作ではヴィランだというし、しかも演じているのがあのジェイク・ギレンホール…読めた!みたいな気持ちになったりするじゃないですか。

駄菓子菓子!いやはやMCU底知れないですね。底知れない。ここまで「たぶんこういう展開だろうなあ~」と大勢が想像した展開は確かに当たっているのに、ヴィランの正体もその見せ方も、ここまで「驚異<ワンダー>」を積み上げてくるとはマジのマジで恐れ入りました。映画館に足を運んだ観客に絶対に何か手渡すという意思、そして絶対に現実の社会にコミットしたものを作り続けるんだという強い意思に私はめちゃくちゃ打たれてしまいましたよ。

最初の、MJといい感じになりたいピーターとそれに対するいろんな障害、みたいなのは「楽しいしかわいいけどこれこのままで大丈夫かな?」みたいな気持ちになりましたが、やっぱりジェイク・ギレンホールはやってくれる男ですよね。彼が出てきてから一気に物語がドライヴしだすし、ピーターの前に味方として立っているときにも、その正体が明かされてからも、何とも言えない説得力がある。あれ、最初にピーターがミステリオって、イタリアで謎の男って意味だよって話をして、次に会ったときには自らミステリオだって名乗っちゃうのとか、言ってみれば尻尾がチラチラ見えてるんですよね、ベックって。その匙加減がほんとうまいんだ。だからピーターがあのトニーの遺産を渡してしまったときも気持ちとしては「だ、だめだよ…」と思ってはいるものの、ベックが誰で何を目的としてるかまで読んでるわけじゃないんですよねこっちは。そこからの、まさかのチーム戦でした!そしておまえも!おまえも!おまえも!トニー・スタークに遺恨のあるやつやったんかーい!っていうさ…!

でもってミステリオがドローンとプロジェクションマッピングを駆使してるっていうその種明し、この今日的なヴィランのキャラの立て方がすごい。しかも映画の中で戦闘中にベックが着てるのがまんまモーションキャプチャースーツなんですよね。あの撮影現場の写真が流出しても、みんな「あっモーキャプだ」としか思わない。そこに映ってないものしか想像しない。その構図を映画の中で逆手にとってくるっていう…MCU!お前がほんとにおそろしいよ!しかもですよ、ベックの今際の際に「今はみんななんでも信じる」って言わせて、さらにポストクレジットでは「実際の映像で組み立てたフェイクニュース」でトドメを刺す容赦のなさ!

何しろ「実際にはない映像」で相手を翻弄することができるヴィランだから、「何が本当なの?」ってハラハラが最後の最後まで続くし、ヴィジュアル的にも文字通り虚虚実実の映像がピーターを取り囲むわけで、いやもう最後のほう「もうピーターを休ませてあげてよお!」って半泣きになりそうになりましたよ。ほんと見ごたえあったし、だからこそそれに打ち克つのがスパイダーセンス(ムズムズ!)っていうのがむちゃくちゃ胸がすく思いがするんですよね。

今回はニック・フューリーが事件をもたらすわけだけど、途中でピーターに覚悟がないって言い募るところ、いやちょっとさすがに待たんかいってなったし、まだ高校生なんだぞ!ってなったし、そういうお前がまずなんとかせえよ!ともなったし、最終的にこんなに騙されるなんて、フューリー…おまえキャプマ以降人が変わったように見えるよ…とか思ってたらホントに人変わってるし!でお前が夏休み取ってんのかーい!っていう、本当に最後の最後まで気が抜けなかったです。

MJがピーターのこと気になってるけど素直にそれを口に出せないタイプなのめっちゃよかったな。ネッドとベティのカップルもかわいかったしネッドがスパイディの正体を知ってるってMJに対して先輩風びゅーびゅーなのも好きでした。でもって今作はアイアンマンシリーズ以上にハッピーがすごく大きな役割を果たしてて、保護者的でありながら、何よりもトニーを喪った同志っていう立ち位置ですごく頼もしかった。迎えに来てくれた時ホッとした…。そしてあのロンドン塔での対ドローン戦、シールド投げてみて届かず「キャップはすごい」って言ってくれたの、全キャップファンが心で嬉し涙を流したと思いますよ。そういえばあのエンダ~♪をバックにキャップの写真も出てきたってことは世間的には死亡(又は行方不明)って感じなのかな。そうそう、オープニングの処理もすごいと思ったんだ、サラサラからの復活によるゴタゴタ、センスゼロのアベンジャーズメモリアル映像でEG後の我々の心情をいったんきっちり対象化してくれてるよねっていう。

トニー・スタークという偉大なメンターを喪ったあとのピーター・パーカーの物語ではあるんだけど、喪失を浪花節で嘆くようなしょっぱさがなくて、託されたものをもってトニーのいない世界とどう向き合うのかってことに焦点が合ってたのがすごく好きでした。トム・ホランドくん相変わらずかわいいが過ぎるし、世界の孫って感じだけど、でもなんか、今作でまさに「大いなる力には大いなる責任が伴う」ってことを背中で見せてくれるヒーローになった感がありました。もう孫だなんておそれおおくて言えない。ピーター、あんたはかっこいいよ。

そういえば!今作が私のドルビーシネマ初体験になりました。めっちゃよかった~~~!エキスポレーザーIMAXのあの画面がのしかかるような迫力はないけど、何しろ画面が鮮明で没入感がすごい!あの上映前のドルビーシネマの紹介もめっちゃエッジィで楽しいのでぜひ一度経験してみていただきたい。あなたが今見ている黒は黒ではありません!とか言われちゃって、でもって「ホントだー!」ってなるのちょう楽しいっすよ!

EGじゃなくてFFHがフェーズ3の最後っていうのも見れば納得というか、ちゃんと次への橋渡しをしてったよね。物語はまだ続くという。ほんとどこまで想定してこのユニバースを描いてるんでしょう。ケヴィン・ファイギ恐ろしい子

その姿勢は気持ちだけ、気持ちだけでお願いします

昨日の夜中に鴻上尚史さんの件のツイートをリアルタイムで拝見して(フォローしてるからね)、うーむこれは燃えそうだぞと思いました。いくつか発言のツリーがつながり、それに対して「いや、そんなことないですよ」という反論のリプライが二つ三つついたところで就寝したが、朝起きたら案の定延焼していた。延焼、するわね、そりゃ。

で、仕事から帰ってきたら該当のツイートは削除されていて、全部読んだわけではないけど観劇クラスタからの反論もおそらく出るとこまで出たんじゃないかと思うんで、もうワシが何にも言うことはない!って感じなんだけど、しかしなんとなくモヤモヤが収まらないので自分なりの整理を書いておくことにします。

最初に言っておくけど、これは収まりかけた火事に油を注ぎたいわけでは断じてないってことです。すでに該当のツイートを削除され、(多少釈然としない部分はあるにせよ)反論の意図はわかったとされているわけだから、勿論この件はこれで手打ちでいい。あくまでも自分のために書いているだけです。

まず鴻上さんのそもそもの発言についてポイントは3つあると思う。

  • ほとんどの劇場は「前のめりになったほうが視界が開ける」
  • 創り手としては、芝居に対して集中するあまり観客が思わず「前のめりになる」ことをめざしている
  • 「前のめりになるな」というアナウンスは観客を積極姿勢にさせたいという制作側の意図を削ぐものである

でもって「前のめり」をネットの辞書で引くと(デジタル大辞泉からの引用)、

1 前方に倒れそうに傾くこと。「急停車で前のめりになる」
2 積極的に物事に取り組むこと。前向き。「前のめりの生き方を評価する」
3 準備不足で、性急に物事を行うこと。せっかちすぎるようす。「新政権の施政方針は前のめりに過ぎる」
[補説]2・3は従来にない用法。

と出てきます。

で、鴻上さんはこの2の用法を意図して「前のめり」という言葉にポジティブな感情をお持ちだってことなんですよね。だから「前のめりになるな」を「積極姿勢になるな」という語感ととらえてる、またはとらえることができるので、そういうアナウンスまでしなければならないのか?という。

これに類すると言っていいかわかんないけど、例えばライヴハウスを想像していただきたいのだが、アーティストは「今日はフロアを揺らすぜ!」という意気込みで来ている、しかし開演前のアナウンスでは「フロアが揺れるので飛び跳ねないでください」と言っている。そういう「削ぎ」が同じように「前のめりになるな」にもあるんじゃないかってことですよね(実際にこれに類するアナウンスをするライヴハウスもあるが、それは安全上の理由なので削ぐとか削がないとかの問題ではない、念のため)。

しかし、観客として思う「前のめり」は…いや、主語が大きいの良くないですね。私が思う「前のめり」はまさにデジタル大辞泉の1の用法、「前方に倒れそうに傾くこと」であり、そうなっている観客のことを言っているわけです。

長年観客席に居続けてきたので、もちろんいろんな客に遭遇してきました。前のめりにあたったことも一度や二度ではないですし、実際それによって迷惑をこうむったこともあります。ここからは私の経験上の話になりますが、あまり観劇慣れしていない観客は、いざ自分の席に座った時、「この目の前の舞台に今から役者が立つ」という事実に興奮する人が多い。そしてその興奮から、「もっと舞台に寄ろう」として自分の身体を物理的に近づける。浅く腰かけ、身を乗り出さんばかりにするわけです。もちろん、観劇慣れしていても、そういった習性が抜けないという人もいるでしょう。

はっきり言いますが、この「前のめり」は作品の劇的興奮とは一切関係がないんです。中身に関係なく前にのめっているだけです。もし、その「観客が物理的に身体を近づける」行為を見て作品の出来を判断している制作者がいたとしたら、観客の立場からそれは大きな誤解ですと申し上げたい。

さらに、件の発言に対する反論として、「前にのめっていなければ、つまり深く腰掛けて背もたれに背中をつけている客は、作品に対して積極姿勢でない、興奮していないととらえられるのか?」という意見はもっともですし、観客がいかに世界に没頭しているかをはかる物差しが、そんな簡単に目に見えるものであってたまるかとも思います。ひとりひとりの観客は、その観客の文法でしか作品を見ない、だから個々の客の声を聞く必要はない、けれど、その日の客席の「観客」としての声なき声というものは絶対にある。絶対にあります。それを聴くことができる人がこの世界で生き残っているのではないのか、とも思います。

もうひとつ言いたいのは、きちんと腰かけて背もたれに背中をつけて観劇していたとしても、思わぬ興奮で一瞬背中が浮いたり、大笑いして前かがみになったり、そういった反射的な反応は誰しもあるということです。そして「前のめりになるな」と言っている人は、そういう反応を問題視しているわけじゃないだろうってことです。「ハイ!いまそこ背中が3秒離れた!」みたいなことを言う人はいないでしょう。そうではなく、「物理的に自分の身体を舞台に近づけようとして」「その姿勢を観劇中死守しようとする人のこと」を言っているんです。

ほとんどの劇場は前のめりになった方が視界がひらける、という点については、そうですか、あなたがそうならそうなんですね、としか申し上げられないけれど(だって個人の体験ですからね)、女性の座高の問題なのか、座る座席の問題なのか、ともかく、それこそ1000回を超える回数いろんな劇場の椅子に座ってきたものとして、「私は前のめりになられて視界が開けたことは一度もないです」としか言えないし、実際問題、視界が開けているのに改善を求める客なんていないと思うんですよ。あのアナウンスは劇場が勝手に慮ってやっているわけではなくて、そういう客側からのニーズがあって行われているわけでしょう。劇場によっては「2階席のお客様」と限定するところもあるから、1階席では大して問題とならない、つまり視界を大きく左右しないってこともあるかもしれない。でもだからって「前のめりという用語が積極姿勢での関与を否定されている気持ちになって制作者がへこむからアナウンスしなくてもいいのでは」というご意見にはとうてい首肯できません。

ブロードウェイやウェストエンドではそういったアナウンスがないというのはいいことかもしれない、そんなことまでアナウンスする日本の社会が未熟というならそうかもしれない、だとしたら成熟の方向にこれから向かえばいいのではないですか。今行われているアナウンスはその成熟のためのステップだと思えばいいのではないですか。ゆくゆくは、そんなアナウンスがなくても、「前のめり」な客に対して周囲が声をかけ、すんなり理解される日が来るかもしれない。来ないかもしれない。でも、少なくとも「制作側の意思を削がれる気持ちになる」ことと、その日劇場に足を運んだ観客が少しでも快適に、皆が舞台を楽しめる環境をできるだけ確保することを天秤にかけたら、どちらに傾くかは自明の理なのではないでしょうか。

こんな話で3000字も書いてしまった。こんなに書いてしまったのはもちろん私が鴻上さんと第三舞台で産湯を使った人間だからです。べつに幻滅した!みたいな話じゃないヨ!こんなことで幻滅するほど私が鴻上さんと第三舞台に対して負ってる借金は安くないし、これで幻滅するならとっくの昔にしてるような気がする(なんだって?)。繰り返しますけど油をそそぎたいわけではないですし、逆に反論している方にみんなもうやめてあげてよお!みたいな気持ちも全然ないです。私が鴻上さんに学んだことのひとつが、なんかあったら対話だろおお!!!って姿勢なので、対話じゃないけどこうして書き残してみました。長文ですまないし、最後まで読んで下さったかたには感謝しかない、でも長いからこそ書けることもあるんじゃないかと思うのよ。これが私のやり方です。

「神と共に 第二章:因と縁」

f:id:peat:20190702211104j:plain
待ってました第二章~~~~!!!監督は第一章と同じくキム・ヨンファ!第一章見たのが6月初旬だったので間を空けずに第二章見られるのは嬉しい!

以下遠慮なくネタバレしているのでこれからご覧になる予定の方はお気をつけください!

第一章でめでたく転生を果たしたジャホン、しかし亡者の弁護を担当するカンニムは一度怨霊と化したジャホンの弟スホンを連れ、彼の裁判を行ってほしいと閻魔大王に直談判する。判官の首と使者の肩書を賭け、裁判を行う赦しを得るが、しかしそれには条件があると告げられる。それは下界ですでに寿命が尽きているにもかかわらず、屋敷を守護するソンジュ神に邪魔され冥界に連れてくることのできない亡者を48日以内に連れてくること、そしてソンジュ神を消滅させることだった。

冥界7つの裁判渡り歩くぜヤッホー!だった第一章(いやそんな話じゃない)は舞台設定の面白さと亡者の過去を明かしていく構図が物語をぐいぐい引っ張っていましたが、第二章は観客がすでに愛着を抱いた三人の使者(いやあれで愛着を抱くなと言う方が難しい)の過去の因縁を紐解くことで物語を牽引していくという、同じ作品でありながら見事に違うテイストの作品になっているんですよね。そしてこれ、第二章で明かされた過去の因縁(まさに因と縁!)を見た後、もう一回第一章を見返したくなるという罠が!ううう~~、踊らされてる~~、でも踊らされるの気持ちいい~~!

ソンジュ神のところへ行き、説得or調伏(って言っていいのかな)するはずだったヘウォンメクとドクチュンは、ソンジュ神がなぜ「姿現し」をしたのかの過去を知り、残される子供の行く末の手立てを講じるとともに、かつて自分たちが死んだときに使者だったというソンジュ神に、一千年前に「何があったのか?」を聞いていくことになる。片やカンニムはスホンとともに、「無念の死」の立証のために冥界の障害を越え、焦点となる二つの裁判を受けることになる。

ヘウォンメク&ドクチュン&ソンジュ側は過去の因縁も相当にドラマティカルで、かつ下界の出来事がマ・ドンソクとチェ・ジフンのオフビートなやりとり(ファンドはダメだ!笑った)で彩られるのに比べて、カンニム&スホン側はカンニムが何しろ自分の意図を明かさない(明かせない)のもあって、若干単調になりがちな部分はあるにせよ(突然のジュラワ笑いましたよ…)、とはいえそれを補ってあまりある最後の怒涛のカンニムの告白!私、忘れるってことは人間に等しく与えられた恩寵だと思っているんだけど、まさにカンニムはその恩寵を奪われて、己の罪と向き合い、赦しを乞うこともできないまま、あのふたりを1000年見つめてきたわけですよ。自分が自分の至らなさから死に至らしめた血のつながらない弟と、そしてまったく奪われる必要のなかった命を奪われた少女とをさ!!!しかもその二人には記憶がなくて自分をテジャン、使者様と慕ってくれる。そんでもってそのふたりとやることは下界から死者をつれてきて、その罪と向き合わせる弁護士って…地獄かー!ってなりませんか。

スホンが生き埋めにされたと知った時、これが49人目になる、それを果たせば記憶は消える、そして記憶が消えれば、二度と自分に告解するチャンスはない。そう思ったんだろうねあの時。自分が生き埋めにされたんじゃなかった。いやむしろその方がどんなにかよかったとカンニムは何度も考えたんじゃないですかね。

でまたさ、ヘウォンメクですよ。いやマジで、高麗最強の武将、通称「白い山猫」って出てきてもっふもふの首巻きして大立ち回りしてる過去のヘウォンメク見て、設定!濃い!つかネーミング!!と思ってたら現在のヘウォンメクがむちゃくちゃ悦に入ってたので大笑いしました。ここだけでなく何度も過去の設定の濃さを今のヘウォンメクが茶化すことによって対象化してくれるのがまたいちいちよかった。だって天涯孤独の身の上で敵の将軍に拾われて養子になって血のつながらない兄とうまくいかなくて挙句の果ての追放ってだけでも「も、盛りすぎ!」ってなるのに、さらにドクチュンとのエピ畳みかけてくるやん。ドクチュン完全に天使やん。もう、もう無理です!ってぐらいこっちのキャパいっぱいいっぱいですよ。何のキャパかって性癖のキャパですよ。しかも現世では途中で急に前髪おろす!かわいい!全方位隙なしかい!あの1000年前のドクチュンとの別れのシーン、白い毛皮を出して…ううう…へウォンメーク!!!(無駄に呼びたい)。

いやマジでこれを踏まえて第一章を見たい、第一章のカンニムを舐めるように見たい。しかもこれ、最後の最後まで「え?あ?そうなの!?」がポストクレジットシーンでどかどかくるので全然気が抜けなかった。そうか…カンニムは知らないままに父に告解を果たしていたのだね…でもって地獄の勧誘制度なに!?でもわかる、私もスホンは冥界でいい仕事すると思うヨ!彼が繰り返し「生まれ変わりたくない、あんな苦労二度としたくない」っていうの、なにげに重いし、でもスホンのすごいところはさー、あの二人をゆるしてるじゃん。ゆるしてるっていうか、あの二人がゆるされることを願ってるじゃん。関係ないけど私閻魔大王さまは御髪をおろしているときのスタイルが好みです(聞いてない)。

今回召還されるはずだった亡者は第一章でもちょくちょく出てて、しかもカンニムたちが見えてたっていうのもなるほどなー!ってなったし、ソンジュ神がヒョンドンの前では完全に「気は優しくて力持ち」なんだけど、ちゃーんとふてぶてしさがあるのもよかったなー。いやーほんとに面白かったです。使者トリオが好きすぎて、これスピンオフとかないの?見たいよー見たいよーって私の中の駄々っ子がおとなしくなる気配がありません!

「X-MEN:ダーク・フェニックス」

f:id:peat:20190625232534j:plain
ファーストジェネレーション、フューチャー&パスト、アポカリプスと続いた現行X-MENシリーズが本作をもっていったんのピリオド。監督・脚本はサイモン・キンバーグ。

シリーズの最終作にしてはコンパクトな作品で、コンパクトだけど濃密かっていうとそうとも言えない…みたいなところがちと残念でした。ファーストジェネレーションから続投しているキャストの豪華さ、その彼らの場を持たせる力があれだけ集結しても、やっぱり土台となる脚本に強度がないとつらみがある。

今までのシリーズでは見られなかった組み合わせやコンビネーション、それぞれの能力の見せ方とかも新しさのあるシーンもあって、そこは楽しかったです。特にエリックは何しろ能力がチートすぎてスタジアムを浮かせるとか地軸をどうにかするとか大振りな方向での絵が多かったけど(そっちの方が劇画的に映えるといえば確かにそうだよね)、今回は近接戦闘というか、目の前の敵ひとりひとりを倒す、に集約された動きでかつ演じてるマイケル・ファスベンダーのスタイリッシュさも相俟ってカッコよさが天元突破してた。

しかし、登場人物がとるそれぞれの行動、アクションが連鎖していかないというか、ぶつ切り感がすごくて、そうなると物語が有機的な流れを維持できず、なんとなく最後「お、おう…そこに着地するか…」という感じで終幕になってしまったんだよなー。チャールズは中でもワリを食った感が強い。救出作戦の強行もそうだし、ジーンの説得を巡るやりとりもそうだし、レイヴンを喪ったあとのハンクとのやりとりもそうだし、そのハンクも「非を認めろ」と迫って、認めないから出てってエリックの所へ行って(しかしエリックがどれだけ情報網を持ってても、その情報網にチャールズならアクセスできるんでは)、探し出して殺すっていうエリックの言に首肯してるのに、そこからの共闘へ至る心理もよくわかんないし。というかそもそもレイヴンの死はあれしかなかったのかっていう。いやジェニファー・ローレンスのスケジュールおさえるの難しかったのかなとかメタなことも思いますけど、もっとやりようが…あったのでは…となりますよね。

エリックは前回のアポカリプスも、言ったらその前のフューチャー&パストも、隠居(幽閉)から引っ張り出されるってパターンが続いてて、しかも前回も今回もその翻意に至る流れがよくわからない。いったんは敵対させよう!でも最後は共闘させよう!っていう構図にするために便利に使われすぎな気がしてしまう。エリックとチャールズってやっぱり特別なケミストリーのあるふたりだし、その力学を劇中でまったく使わないのに、最後はチェス持って「今度は俺の番」て、そういうエリック側からの能動的なアクションを本編で見せてからの連携であってほしかったっす。

そして主役はジーンなのに、ジーンのキャラクターのエッジが立ってないつーか、力の強大さに振り回されるのはともかく、それをコントロールできるようになる流れがやっぱり唐突に感じてしまった。そしてピーターくん…マジか…ってなったし、いやクイックシルバーのアクションは撮影にお金がかかる…んだろうけども…いやしかし…っていうモヤモヤが。カートくんは能力フル発揮でむっちゃ活躍してたね。ナイトクローラーかっこいい。

あとやっぱりヴィランの存在がもやあっとしたままだったのも物語の牽引力が低い要因ではあるよな~。いい悪役は物語を輝かせる。

人間とミュータントとの共存または対立というのをシリーズ通して描いてきたけれど、この作品には記号としての人間しかいないつーか、ミュータント役に立つ=応援する!、ミュータントが逆らった=排除しよ!なリアクションが記号的に書かれるだけなのもちと残念な点でした。X-MENは将来的にはMCUに合流するという話がありますが、いやー今はまだ全然想像つかない。怖いような!楽しみなような!