「パラサイト 半地下の家族」

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ポン・ジュノ監督・脚本。おーもしろかったです!2019年カンヌ国際映画祭最高賞パルムドール受賞。間もなく発表されるアカデミー賞にも作品・監督賞ともにノミネートされております。

半地下の狭い家で暮らす無職の父と母、浪人中の兄と妹。兄の友人(大学生)から紹介された豪邸での家庭教師の仕事。その蟻の一穴から「その家」に次第に侵食していく。すべては計画通りだった。はずだった。

「パラサイト(寄生虫)」というタイトルから、金持ち家族の方に「何か」があるのかなという予想をしていたんですけど、ぜんぜん違ったし、違ったところからの展開がツイストが効きすぎててほんと目が離せなかったですね。あの隠し扉を開けるところから始まる、形勢逆転、逆転、また逆転。そうそう、北朝鮮国営放送ギャグってやっぱ、あるんだな…というのもしみじみしました。そりゃ、あるよね。やるよね(余談ですが大人計画所属の池津祥子さんはこの道でかなりの腕前)。

貧富格差を容赦なく描きながら、こうした時にありがちな「貧しきもの」の方に正義の天秤が傾きすぎるということがない、そのバランス感覚のまま最後まで走りきっているのがすごいなと思いました。あと物語の展開、構図が私のツボだった…。計画は立てない、計画を立てるから計画にないことが起きる、というあの避難所での会話を踏まえての「僕には計画があります。…その日までお元気で」。し、しびれるぅ~~~~!!!!!

印象に残ったのはあの雨の日、豪邸を抜け出した彼らが下へ、下へと降りていくあの遠景のショット。ショットがどれだけ切り替わっても、彼らは降りていく。下へ、下へ、もっと下へ。あの半地下の家へ。

「金持ちだけどいい人だ」「間違えちゃだめ。金持ちだからいい人なのよ。金はひねくれたシャツのしわをのばすアイロン」。いいセリフ。彼らは無能なわけでも怠惰なわけでもなかった。でも半地下に暮らし、その半地下の匂いが染みついている。その「匂い」を契機にして一線を超えた瞬間のソン・ガンホさんの演技が目に焼き付いております。

「キレイ」

なんと4演目の「キレイ」!初演は2000年だったっていうんだからそりゃ遠い目にもなりますね。松尾スズキさんがシアターコクーンの芸術監督になられ、まずこの「キレイ」をひっさげての御登場でございます。

この作品を見るたびに楽曲と歌詞の面白さ、クオリティをエンタメとして堪能する部分と、ケガレとミソギが最後に交錯する、あの円環のような劇構造にもってかれるところは毎回同じなんですが、今回はそれに加えて、これは「何かを捨てて何かを得る」ひとたちの話なんだなっていうのがすとんと胸にはいってきた感じでした。ケガレだけじゃなくて、ハリコナもそう、ジュッテンもそう。何かを選ぶということは何かを捨てるってことなんだ。「僕らは片隅に転がる人形のように自分の人生を捨てながら生きている」。「キレイ」を見ててこの台詞を思い出したことなかったのに、今回はどの登場人物を見てもそれを感じた。

ケガレに生田さんというしっかり歌えるキャストがはいったことと、これ意外なんですけど、生田さんのケガレの佇まいがすごく初演を彷彿とさせたんですよね。だから原点回帰な部分もありつつ、各々のキャストのパワーが上がってむちゃくちゃ濃密なものができあがってた気がします。印象に残ったキャストあげるとキリがないんですけど、見ててまずうおっと思ったのが皆川さんのカネコキネコと鈴木杏ちゃんのカスミお嬢さま。皆川さん、もう完ぺきに仕上げてるというか、ぜんぜん隙がない。細かい台詞のニュアンスもぜんぜんとりこぼさない。「子だくさんが好きさ」は曲もかっこいいし詞も最高で大好きなナンバーなんだけど、「日が暮れる」でイントロが鳴るところ、「それはそれ、これはこれ、それはひとまずさておいて、そんな匙加減が必要さ。強さだよ、それは」とかがむーったくたカッコイイ。鈴木杏ちゃんのカスミさん、もともとの才能に場数と努力を掛け合わせるとこうなるのかあ…とその力量にひれ伏すばかり。カスミさんはむちゃくちゃいい役だけど(個人的に一番いいセリフをもらっていると思う)、それを倍掛けで活かしてくる。「ここにいないあなたが好き」でのキレッキレのまなざし最高でした。「海老痛」もよかったなー。

前回の少年ハリコナから青年ハリコナに成長した小池徹平くん、完全に歌って踊れてかつ芝居の幅がぎゅいんぎゅいん広がった人になって帰ってきた感あった。青年ハリコナって何気に難しい役のような気がするけど、この解釈正解だよなあ…というシーンがいくつもありましたね。「宇宙は見えるところまでしかない」のショーアップぶり大好き。

初舞台の神木隆之介くん、よかった、よかったし歌うまいし、あの役って表面をつるっとなでるだけみたいなことをすると途端にいやったらしくなると思うけど、ちゃんと自分を解放して舞台に立っててさすがだなと思いました。ジュッテンが岩井さんで嬉しかった、私は快哉を叫びましたよ。岩井さんのジュッテン、絶妙なラインでこの世界に染まりきってないというか、ジュッテンだけ違うものが見えてる感があったのが印象的。神木くんのハリコナといいコンビだったなー。

猫背さんやヨタロウさんは4演ともに同役で、そういうの逆に自分ならではの解釈みたいなのが上乗せされがちだと思うんですけど、お二人とも劇世界に完全に寄り添った芝居を貫かれてて、それもすごいなと思ったし、あの細かいニュアンスの再現つーか(桃はねえ!お母さんの食べ物!名セリフですよね)プロの仕事だなあ…と感動いたしましたです。

でもって阿部サダヲのマジシャンね。彼は初演再演がハリコナ(少年)、三演目でダイズ丸、で今回マジシャンなんだけど、わたし三演目の感想のときに「この物語がダイズ丸を中心にしたものに見える」って書いてるんですよ。でもって今回「マジシャンがこの物語の中心に思える」って言っちゃう。言っちゃいます。どれだけ目玉の姿でちょけてても、「こうするしかないのか」のひと言で物語を自分の方に一気に引き寄せるあの力、なんなんでしょうね。化け物か?見るたびにビックリしてますけど、まだまだビックリし続けてますよ。

初演のときは最後のケガレの歌のとき、松尾さんがセンターに踊り出た(文字通り)んだよな、なんてことも懐かしく思い出し、それも松尾さんならではの含羞というやつだったろうと思うのだけど、20年経ってもはやその含羞は不要のものとなった、堂々たるミュージカルになってるなって思いましたし、ひとつのレパートリーとして末永く生き残ってもらいたい作品だなと改めて実感いたしました。

「ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密」

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ライアン・ジョンソン監督・脚本。翻訳ミステリファンには嬉しい、かなり王道のミステリ映画でした。フーダニットではないんですけど、そのぶん脚本にひねりが効いていてよかった。映画で「殺人ミステリ」ってどうしてもサスペンスかアクションの方に寄りがちなところがあると思うんですけど、大富豪の死、自殺か他殺か、外部からの侵入が限定された屋敷、因業因縁渦巻く親族関係…ときて、そこに名探偵投入ですから、楽しくならないわけがなかった。

というように本当に「ミステリ」なので、これからご覧になる方は先の展開を知らない方が吉です!

謎解きとしてはかなりフェアで、最初の事件の晩の説明の時にちゃんと犬の鳴き声の説明もしているし、「誰か」でびっくりさせる構図ではないんですよね。ストーリーテリングの大きな前提として、「マルタがウソがつけない特異体質」というリアリティラインぎりぎりの設定を放り込んでいるんですけど、ここに軸足を置くのがまずこの物語を楽しむ第一歩って感じです(ミステリ読みすぎるとそこも疑いたくなっちゃうからね)。

ひとつ気になったのは「あの方法で薬剤の入れ替え…いける?」ってとこかな…注射器が2本以上ないと無理では…そして使った注射器はどうしたのさ…(こまけえ!)

「現代の富豪」としてベストセラー作家を据えるというアイデアもいいし、その子供及び孫たちの自分たちは『持てる者』だという根拠なき自信を気持ちよくライアン・ジョンソン監督が打ち砕いていくっていう。小道具の現代的なアップデートもはまっていて、探偵が絶妙にオフビートな立ち位置でいるのも楽しめた要因だったな(ダニエル・クレイグめちゃ楽しそうだった)。あと、ランサム役がクリス・エヴァンスで、言うまでもなくキャプテン・アメリカだった人なわけなんですけど、真逆の役柄でありつつ一瞬「この人信用できるのでは…」みたいなポジションに置かれるのがむちゃくちゃ奏功してましたね。その効果をも楽しんじゃうようなクリエヴァさんステキ。

「おまえによくしてやったのに」という彼らの根拠なき上から目線(でも葬儀には呼ばない底の浅さ)、それが逆転した時の「飼い犬に手を噛まれた」と言わんばかりの豹変ぶり、父祖代々と言いながら80年前にパキスタン人から買った屋敷だろと切り返されるとこも痛快でした。あの最後の構図よかった。私の家、私のルール、私のコーヒー。

「壽初春大歌舞伎 夜の部」

義経腰越状 五斗三番叟」。初見です!長い演目の一部だからということは頭にありつつも、伏線引くだけ引いて幕~。ってなっちゃうやつなのでマジか!って気持ちと、歌舞伎自由だな!って気持ちがないまぜになりました。物語厨の私としてはあの刀の合図だけじゃなくて「実は」展開がチラ見せでもいいから欲しかったという欲求が。酒の飲みっぷりがどんどん豪快になっていくところ面白かったです。

「連獅子」。澤瀉屋さんの連獅子拝見するの初めてです。猿之助さんの親獅子を拝見するのも初めて(というか仔獅子も見たことない)。猿之助さんの踊りが大好きなので、ひさびさにがっつりと拝見できて嬉しかった…堪能いたしました。連獅子、見れば見るほど見所しかないやつやん…となって大好きになる。澤瀉屋さんの連獅子、いろんなところで違いがあってそれも新鮮でした。團子くんもよく食らいついてたなあ。この演者(中の人)の構図がそのまま劇中の構図になぞらえちゃえるところもこの演目の楽しさですが、一度そういうのとっぱらって「いや絶対おれのほうがすげえ!」みたいな、天下一連獅子会みたいなやつも観てみたいです(ってこれ私ずっと言ってますね)。

「鰯賣戀曳網」。勘九郎さん七之助さんのコンビ、歌舞伎座にふたたび。ふたたび、なので当初は今回はまあいいか…と流す気でいた私だ。いたんだけど、諸般の事情で足を運んだ私だ。結果、観にきてよかったです。前回は、とくに花道でお礼を言う場面なぞ、舞台の上のふたりのみならず、あの場にいた誰もが勘三郎さんのことを思っているといった雰囲気があり、それはそれで忘れがたいものであるわけだけど、しかし今回は不思議なほどにそういう空気が薄れていた。薄れたことで、しっかりと地に足のついた物語になった感がありました。猿源氏も蛍火もおふたりのニンといってよく、イキイキと、しかし丁寧に演じられている姿はまさに眼福でした。でもって、いちばん「来てよかったなあ」と思ったのが、あの猿源氏の「いわしこぅえ~~」の声が素晴らしかったこと!蛍火が惚れこんでしまうというのもわかる、説得力に満ちたお声でした。たのしく、かわいらしく、すがすがしい気持ちで打ち出してもらえる演目としてほぼ完ぺきな一本だったんじゃないかと思います。

「楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~」

  • 浅草九劇 全席自由
  • 作 清水邦夫 演出 西森英行

清水邦夫さんの戯曲の中でももっとも有名なもののうちの一本。登場人物4人、上演時間1時間20分、一幕もの、という「場所を選ばず」な構成もあってか、累計上演回数が日本一と言われてますね。第三舞台の女性陣も男性陣が「朝日」やってる時に公演したりしてましたね(すぐ第三舞台を引き合いに出すオタク)。しかし!私は何と今回が初見なのでした~!初見をオールメールという変化球で入ってしまったハッハッハ。

有名な作品なのにあらすじをまったく知らずに見たので、むちゃくちゃ新鮮に楽しんでしまいました。そしてチェーホフの「かもめ」をはじめ演劇古典の引用がドカドカ出てくるので、一応一通りそのあたりの経験値を積んでおいてよかったなとも思いました。「かもめ」は有名な「私はかもめ。いいえそうじゃない。私は女優…」から始まる独白が、かなりこの劇構造の大きなサブテキストになっているので、知っていると倍楽しい感じがありますね。

最初のシーンで女優AとBが「オカマ野郎」と罵られる場面があるので、「女性を演じている」のではなくて、「性自認が女性である男性を演じている」という構造なのかな。せっかくのオールメールなので、そこはもうちょっと活かしてもよかったんじゃないかなって気がしました。

大高さんの演じる女優Aは長くこの楽屋に居続ける「死者」なんだけど、この長すぎる時間をもてあそぶって、大高さんにとっては「これをやらせて俺の右に出るものはない」って感じじゃないでしょうか?それじゃまるで人生つぶしじゃないか。朝日の台詞を思い出しますね。そして変わり身早くシェイクスピアから三好十郎まで演じ分けてみせる洒脱さ!このあたりはさすがに大高さんに一日の長ありといった感じでした。佐藤アツヒロくん、舞台で拝見するの久しぶり。大高さんと共に受けに回る場面も多いけど、ここぞというところで抜群のリアクションを見せて観客の空気を掴んでいくのお見事でした。

女優Cが「女優という仕事」について語るモノローグ、彼女が楽屋を出ていくときに漂う孤独の影、楽屋に残される「死者」たちの孤独と表裏一体になっていて、なるほど80分でこの濃密さ、やっぱりホンか!ホンなんだな!という気持ちを新たにした次第です。

「ジョジョ・ラビット」

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すばらしかった。掛け値なしの傑作なので、そうなの?見に行こうかな?と思ってる人はここでUターンするだけでなく予告編も見ないようにして映画館にGOしてください。迷わず行けよ。行けばわかるさ。2019年トロント国際映画祭最高賞の観客賞受賞。監督はタイカ・ワイティティです。

10歳のドイツ人の少年ジョジョは自分の脳内にいるアドルフ・ヒトラーと会話している孤独な男の子だ。ヒトラー・ユーゲントのキャンプに参加しても、彼は上級生からいじめられ、勇敢なナチスになることができない。でもイマジナリーフレンドのヒトラーと話しているときは強くなった気持ちでいられる。ジョジョの父親は戦線に参加したまま帰ってこない(とジョジョは思っている)。母親は不在がちだ。姉はいない。ある日ジョジョは誰もいないはずの屋根裏に、ユダヤ人の少女が匿われていることを知ってしまう。

10歳の少年のイマジナリーフレンドとして、とはいえ、ヒトラーを具現化し、かつ彼をユーモラスに(だって10歳の子が思い描く独裁者ですもん)描写するっていうことが表現としていかに高いハードルか、ってことに改めてふるえる想いがしますが、見終わった後には「こういう表現だからできたこと」が積み重なっていて、タイカ監督まじで…天才か!?ってなりましたし、イマジナリーヒトラーが、世の中を単純に二分し、自分と違うものを簡単に排除させる大人としてふるまうたびに、私たちが子どもに何を伝えていかなきゃいけないのか、ということが逆にあぶりだされてくるような気がしました。この想像の中のヒトラーをタイカ監督自身が演じているんですけど、前半の「ユーモアさえ感じさせるちょび髭」から、ラストの他者を抑圧し分断し抹殺する独裁者の貌まで見事に表現していて、脚本書いて監督してさらに出演して…んもう、全方位で天才か!?

ジョジョは、ナチスの単純化した二元論(アーリア人は善、ユダヤ人は悪)を無邪気に信じる(というか、信じたい。世相とこの単純な論理への傾倒って絶対関係あるよね)けれども、ヒトラー・ユーゲントのキャンプでウサギを殺せないし、女の子を傷つけて泣かせたことを悔いる心がちゃんとある。彼らと自分たちが「見かけではなにも変わらない」ことにも気がついている。そういった気づきはどこからくるのか?対話なのだ。脳内で家を燃やしてしまえというヒトラーと、まずは交渉だというジョジョ。お互いを知る、ということの大切さをエルサとジョジョを通して観客も体験していく、その中でジョジョの恋心が育っていく、このシークエンスの積み重ねの素晴らしさったら。

そしてジョジョの周りの大人たち!母親であるロージーのユーモア、そして愛。キャプテンKが示す真の「やさしさ」。いやもうロージースカーレット・ヨハンソンもクレンツェンドルフ大尉のサム・ロックウェルも最高すぎた。このふたりのありとあらゆるシーンが名場面。しかも、しっかりとユーモアをもってそれぞれの生活の描写がなされているところがまた、素晴らしい。キャプテンKとフィンケルの関係性はかなりあからさまに明示されるけど、でも台詞としては何もない。あの最後の市街地戦での彼らの衣装見た時に私は涙が止まらなかったですよ。現実なのか夢なのか曖昧になるような、あの時代に、ゲイであるということはすなわち収容所送りを意味したあの時代に、彼らが示す最後の、全力の権力に対するファックユー。泣いた。泣きました。キャプテンKの最期にももちろん泣きました。ロージーの台詞を思い出す。するべきことをしたのよ。

踊るの、踊るって自由な人がすることだから。解放されたドイツの街、一晩で逆転する価値観。ジョジョは「するべきことを」して、エルサを脱出させる。これからどうする?ジョジョがエルサに尋ねる。そこで流れ出す、デヴィッド・ボウイの“HEROES”。ドイツ語盤だ。ここで流れるのに、これ以上相応しい曲があるだろうか?ステップを踏む二人。踊る。踊るって、自由な人がすることだから。これ以上ない、完ぺきな幕切れ。

戦争という現実のどうしようもない残酷さを目を背けずに描きながら、愛とユーモアをもち、やるべきことをやれる大人でいること、を考えないではいられない作品でした。繰り返しますが、まぎれもない傑作です。

「フォードvsフェラーリ」

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ジェームス・マンゴールド監督。業績不振にあえぐフォード社はモータースポーツ界で名をあげるフェラーリ社の買収に乗り出すが、失敗。フェラーリ社への雪辱に燃えるフォードは、自社で開発したマシンでル・マン制覇に挑む…という、実話をもとにした物語です。

題材が題材だけにいい音響といいスクリーンで見た方がいいだろうなという気がして、公開週末にドルビーシネマで観ましたが、何に驚いたって男性客の多さ!自分がモータースポーツにあまり執心したことがないというのもあって、熱いファンがやっぱりたくさんいるんだなー!と思いました。

すごく面白かったんですが、見ていて気がついたんですけど私って速い車が苦手なんだったんだていう…じゃあなんで見に来たんだよって話なんですけど。スピードにスリルを感じるよりも前に恐怖を感じてしまうんだね!なのであまりの臨場感に映画のかなりの部分めっちゃ歯を食いしばって見てたみたいで、終わったあと顎が疲れました。ル・マンの名前は知っていましたが、そして24時間走るというのも知っていましたが、あんなスピードで3分半のラップを刻み続けるの?正気の沙汰じゃねえ!と改めて彼らの超人ぶりに震撼しましたね。

GT40という車をフォードが開発していく過程をやるだろうと思ってたらそこを潔くすっ飛ばして、フォードvsフェラーリっていうタイトルだけどフェラーリが噛むのは物事の発端のところが主で、基本的にはフォード内部の権力闘争と、「事件は会議室で起きてるんじゃない!サーキットで起きてるんだ!」みたいな現場vs管理職がメインストリームで、またこの争いが、たぶん仕事をしている誰もが一度は思ったことがあるであろう「じゃあお前がやってみろよ!」を地で行く管理職の管理職ぶりに、どうやっても観客は主人公のキャロル・シェルビーとケン・マイルズの肩を持ってしまうっていう。真の敵はフォードというか、むしろフェラーリ側は潔さもあって好印象な描かれ方ですよね。

7000回転の究極の世界を見たシェルビーは、持病でその道を突然に絶たれるわけだけれど、自分と同じように車を見ることができて、自分と同じように車を走らせることができるマイルズに自分の何かを託していることは間違いなく、そして口には出さないまでもマイルズもそれをわかっているんだろうと思う。でもその中で「大人の論理」をシェルビーが汲んでしまうのも、結局のところこれはフォードに全権が握られた戦いであるからなんだろうな。彼はこの世界から離れられない。そしてマイルズも、7000回転の究極の世界から離れられない。

しかしシェルビーとマイルズのあの「仲良く喧嘩しな」はなんなんや…缶詰で殴ろうとしてパンに持ち替えるし…じゃれ合うな!マイルズの奥さんの高みの見物最高でしたね。っていうかマイルズの奥さん終始最高だった。普通なら愁嘆場になるところをマイルズを助手席に乗せてかっ飛ばして吐かせるって素晴らしいでしょ。レースに出るならしっかり稼いでこいっていうあの姿勢もよかったなー。そういえば息子ちゃんは「ワンダー 君は太陽」のオギーのお友達のコだったね。

リー・アイアコッカジョン・バーンサルが演じていて、そういえばうちにアイアコッカの書いた本あったな…と懐かしく思ったりしました。わりと伝説的な経営者ですよね。クリスチャン・ベールは毎回風貌が違うので素顔がわかんなくなりそうになりますが、今回の役はかなり人間味あふれる役で好きでした。最後の展開も予想はつくものの、そのあとマット・デイモン演じるシェルビーから漂う喪失の影に胸が苦しくなるし、このふたりでル・マンのトロフィーを掲げるところを見たかったなと思ってしまいます。