どうかあなたも生き抜いて

野田さんが言ってくれた、という気持ちと、
野田さんに言わせてしまった、という両方の気持ちがある。

「今般の社会情勢に鑑み」、演劇やライヴやスポーツイベントや、その他さまざまなものが中止・延期の事態になっている。わたしもすでに手持ちのチケットが4枚、非日常への切符ではなくただの紙になってしまった。わたしがツイッターでフォローしているのはライヴであれ演劇であれ、実際に足を運ぶひとが多いので、皆少なからずその打撃を受けている。

昨日東京芸術劇場の芸術監督をつとめる野田秀樹さんがNODA MAPのサイトに意見書を出された。もともと野田秀樹に興味のあるひと、演劇に興味のあるひとだけでなく、インターネット、SNSの波にのっていろんなところにその意見書は届いているようだ。それは演劇に興味のあるひともない人も引っかかってしまうような表現があちこちにあるからでもあるとおもう。「演劇の死」というのは野田さんにしてはかなり強い表現だ。実際、いままで演劇にとって追い風が吹く時代も向かい風ばかりの時代もあったが、野田さんは「演劇が生き残る」ということについて一種確信めいた発言をしてきた人なので、それを想うと今回のこの表現の強さには若干の違和感をおぼえる。

「演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません」というのは、いかに野田さんがスポーツに興味がないかというのをある意味露呈しているといってよく、勝敗さえ決められれば成立するんだろといわんばかりの物言いは敵しか作らないのではないかと、それなりの野田シンパらしきことを長年している私でも思う。野球であれ、サッカーであれ、ラグビーであれ、その他多くのスポーツイベントを、観劇を自分の人生の生きる糧としているわたしのように心の縁にしているひとは沢山いて(というか、おそらく観劇人口よりもたくさんいて)、かつその興行収入が彼らと彼らを取り巻くスタッフの生活を支えているのである。

それに何より、実際にそれなりの規模の(ここの定義は人によって異なるだろうが)人数が一堂に会し、会話や飲食はしないまでも一つの空間に一定時間束縛される観劇という行為をやるべきなのかどうなのかという問題がある。だが、正直、この答えは私にはわからない。わからないし、きっとその人の持つ経験や知識、健康状態、精神状態によって求められるラインも異なり、それがいっそう事態を複雑にしているんだろうと思う。

だから野田さんのあの意見書に、賛同できない、という人がいてもぜんぜんおかしくない。

でも、わたしは、どこかで野田さんの言葉を待っていた。東日本大震災のあと、上演を再開したときの口上のように、野田さんが何を言うのか、何を言ってくれるのかをどこかで待っていた。私の手元にあったチケットのうちの1枚は東京芸術劇場のもので、その1枚の趨勢が決まるのがもっともおそかった。これが芸術監督の抵抗によるものだったのかどうかはわからない。ただ東京都歴史財団を運営母体としている以上、中止やむなしなのではないかという覚悟はうっすらとしていた。実際に、その1枚も中止となった。全公演が中止。ここまで稽古してきたキャスト・スタッフの日々は、観客の目にふれることなく消えた。

野田さんの意見書は間違っているだろうか?そうかもしれない。でも私は「やめるな」と言ってくれる野田さんを待っていたような気がする。やめるなと言ってほしかった。それが間違ったことでも、あなたからは、やめるなという言葉を聞きたかった。

でも、同時に、いつもこうして野田さんに言わせてばかりだなとも思ったのだった。彼はもうすでに功成り名を遂げたひとであり、文字通りいまだ現代演劇界のトップランナーであり、今後野田さんが作品を発表する場がなくなるということは考えにくいので、ここで沈黙をつらぬいたとしてもあまり累は及ばなかっただろう。実際、この意見書が芸術監督を務める東京芸術劇場からではなく、自身の主宰するNODA MAPから出されていることからも、これを出すのを良しとしないという意見が少なからずあったことが想像できる。

だからこの言葉は、野田さんは純粋に彼の後に続く若い世代に、そして演劇そのものに想いをかけて言っているのだと思う。あのひとはほんとうに演劇を愛していて、演劇の力を信じていて、だからこそ、自身の立場よりも、「やめるな」という言葉を残したかったのではないか。

エンタテイメントの息をミーと吸い、ハーと吐いて生きてきたわたしにとっては、何が正解かわからず、自分が正しいと思うことさえ毎時毎分毎秒揺れ動くようないまの状況は、正直つらい。命には代えられない。そのとおりだ。ひとの命より尊重されるものはない。たとえそれが演劇であれ、音楽であれ。ただ苦しい。「正しさ」とはまったくべつのところで、私はただ、苦しいのだ。

でも私はこの現実をやっていく。家にはトイレットペーパーがあと3ロール、ティッシュケースがあと2箱、マスクはない。満員電車に乗る。手を洗う。仕事をし、人と話す。手を洗う。うがいする。今日は牛乳を1パック買った。わたしはやっていく。この現実を。

そうしてかならず、劇場に還る。当たり前にチケット買い、当たり前に劇場に通っていた日々に、私は還る。

だからその日まで、演劇よ、どうかあなたも生き抜いて。

「FORTUNE」

脚本は「ハーパー・リーガン」「夜中に犬に起こった奇妙な事件」のサイモン・スティーヴンス、演出はショーン・ホームズ。なんとサイモン・スティーヴンスの新作を本国英国に先駆けて日本で上演!え!?すごいな!?主演は森田剛さんです。パルコ公式サイトにもあるとおり、「ファウスト」を現代ロンドンに置き換えた物語。だからタイトルも英語で「幸運」という意味の「FORTUNE」(ファウストラテン語の「幸運」)。

ファウスト博士ならぬフォーチュンは映画監督という設定なので、いろんな映画絡みの単語が飛び交いますが、パディ・コンシダインの名前が連呼されるのちょっとドキドキしちゃったし、パディの顔がここで思い浮かぶのわりと得した気持ちだなと思いました。フォーチュンの前に現れる若く、美しく、才能のあるプロデューサー。フォーチュンと同じくチャップリンを愛する彼女。ふたりの距離を縮めようとするフォーチュン、けれど彼女にきっぱりと拒絶されてしまう。フォーチュンはその夜、「秘密のサイト」を訪れて、そこに現れるルーシーという悪魔と契約を交わしてしまう。

個人的には二幕が圧倒的に面白くて好きでした。二幕のフォーチュン、しどころしかないといった感じで役者の力量でぐんぐんもっていくのが気持ちよすぎる。あの箱の中の刑事たちとのシーンのキマりにキマったあの構図、独房のなかでの覚束なさ、時間を示す砂、最後の演出の圧巻ぶり、いやー満足度高い。あの独房のなかでのフォーチュンの独白がすごくよかった。世界を語る彼に胸掴まれるものがあった。本当に剛つんはああいう台詞で得も言われぬ抒情をたちのぼらせるからすげえよ…。

ろくろくクレジットを見ないで行ったので、演出家…誰だっけ?と観ながら考えてたんですけど、あのぱっきりした装置や無機物な感触、あと「部屋」の見せ方とかが「これ向こうの人っぽいな」と思ってたらやっぱりそうだった。ああいう演出する人私の通ってきた日本人演出の芝居ではあんまり見ない。でもって、キャストもあんまり把握してなかったんだけど、んまーー田畑智子さんがすごいことすごいこと。もってく!板の上での球種が豊富で見ごたえある。そしてすべての姿勢がキマってる。かっこいい!吉岡里帆さんは立ち姿って点でちょっとスッキリしないところがあるのが気になった。声はよく通って聞き取りやすくてよかったです。菅原永二さんや平田敦子さん、根岸季衣さんや市川しんぺーさんはさすがの安定感。

タイトルロールの森田剛は圧巻の仕事ぶり。剛つんて、それこそ舞台の上で球種が多い方じゃないと思うんだけど、とにかくここぞという大事な一点でむちゃくちゃ届く。その距離がハンパない。それは「いろんな球を投げれる」よりも実は難しいことのように思います。

「二月大歌舞伎 昼の部」

二月の昼の部は十三世片岡仁左衛門追善興行として、当代仁左衛門さまが菅丞相をおつとめになる菅原伝授手習鑑の半通し。なんと!わたくし、加茂堤から筆法伝授、道明寺まで、すべて初見でござる!観たことなかったんかい!なかったんだね!

久しぶりに全く見たことない演目のしかも通し(半分だけど)、ちゃんと予習していこ…話についていけるかな…とドキドキしておりましたが、全然大丈夫だった。大丈夫どころか、すごく面白かった!特に道明寺!!

まず加茂堤では勘九郎さんが桜丸を。桜丸、公務の途中なのに若い二人を引き合わせちゃうわ、若い二人にあてられてさかるわ(言い方)、なるほどこういうキャラクターなのね本来は、という得心感すごい。車引だとどうしても線の細いタイプがおやりになることが多いからさ~。孝太郎さんの八重も素敵でした、こんなおかしみのある場面だとは知らなかったな。

筆法伝授がこれまたむたくた面白くて、菅丞相からの筆法伝授を受けるのはおれにちがいない、とおごる左中弁希世と、勘当されてお顔を見ることもかなわなくなった源蔵がじきじきのお呼び出しに期待と不安がないまぜになった面持ちでやってくるのと、この対比がずーっと効いているうえに、伝授がかなったけれど勘当ゆるさぬ、となったときの源蔵のあの嘆き!源蔵にとっては伝授が叶う、それはすなわち勘当も解けるのではという期待があったからこそだったのに…!っていう。戸浪が園生の前の着物の影から見送るところも切ないし、なによりこれ、この段を知って寺子屋を観るのと知らないで観るのとは全然違うのでは!?と思うくらい、源蔵と戸浪の物語が凝縮されてますよね。この流れで寺子屋見たかったわー!

そうそう、筆法伝授の途中の舞台転換面白かった。精進潔斎中の菅丞相のところに行く場面で、回り舞台のセットをそのまま歩いて続きの部屋に入るという。鳴子廻しというそうですね。スペクタクル!大劇場ならではの愉悦のある転換でした。

そして道明寺。近鉄南大阪線が身近なものとしては「土師の里」も「道明寺」も「はいはい駅名駅名」って感じなんですけど、いろいろとなるほどそういういわれがー!な部分も楽しかったですし、何よりドラマが濃厚!これめったにかからないの、そりゃ菅丞相をやれる役者がそうそういないとはいえ、も、もったいない…!という気がしてしまいます。いやだって道明寺がめったにかからないってことは覚寿チャンスもめったにないってことになるじゃないですか。覚寿、最高じゃないですか。娘の仇に気がついて、そこで騒がず、いやワシの手で、とかいって刀を受け取り、真の仇にぶっ刺すとかマジすごい。

奴宅内(勘九郎さん!)のおかしみある場面もありつつ、最後の苅屋姫と菅丞相の別れの場面の抑えに抑えた情の表現たるやですよ。仁左衛門さま、とにかく筆法伝授も含めて出てきたすべての場面で説得力が段違い。このひとのために梅王丸や源蔵やまわりのひとが動く、このひとのためにやらなければと思う、そのエナジーの根源にこのひとがいるのだ、というその存在感。ほんとね、拝みたくなります。マジのガチで拝みたくなります。

しかし繰り返しますけど、とにかくドラマとしてむたくた面白い。いつか昼夜通しやってほしい。丸一日この物語に喉まで浸かってみたいです!!!

「1917 命をかけた伝令」

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サム・メンデス監督作品。今年のアカデミー賞で撮影賞ほかを受賞。撮影はあのロジャー・ディーキンスだよ!14回目のノミネートでようやくオスカー受賞叶ったのも記憶に新しいところだけど、今までごめんやでといわんばかりの連続受賞マジでおめでとうございます!

第一次世界大戦下のヨーロッパ、西部戦線におけるドイツとの攻防。ドイツ軍の撤退を知ったデヴォンシャー連隊は追撃をかけるべく進軍する。しかし、それは連隊をおびき寄せる罠だった。デヴォンシャー連隊の総攻撃を停止させるべく、2名の歩兵が伝令となる。

物語の構成としては非常にシンプルで、伝令を受け取った地点Aから、それを伝える地点Bへの移動、それだけです。この、移動を一つの大きなストーリーテリングとするというのは、実は映像だからこそできるというか、映像に圧倒的な強みがありますよね。ロードムービーというジャンルがあるのもその証左だし、演劇でもそういう「移動」を見せるものがないわけじゃないけど、色合いはかなり違ったものだし。

なぜそう思ったかっていうと、この作品は一つのカメラでワンカットとして撮った形で映像が編集されていることが話題になってるんですが、もちろん実際のワンカットではない(物理的に考えてこの規模をマジのワンカットワンシーンで撮るのは無理)。実は三谷幸喜さんはその昔「ショートカット」というWOWOWのドラマで、マジのワンカットワンシーンをやったことがあるんですよね。言うまでもなく演劇って「究極の長回し」だから、舞台演出家でもあるサム・メンデスがそういった「究極の長回し」に類したことを映画でやり、でもその物語のフォーマットはもっとも映像に強みのある「移動」を描いているっていうのが非常に面白いなと。

カメラは常に伝令となったふたりの兵士に寄り添い、彼らの見たもの「しか」描かれないので、没入感がすごいです。ドイツは撤退したとの情報があるとはいえ、それがどの程度正確なものかわからないままあの無人地帯を進んでいく。ひとも動物も皆息絶えており、腐り、その形をとどめない。その容赦のない描写がまずすごい。ドイツ軍の塹壕でのワイヤートラップ、ヒィ!って思わず声が出たわ。中盤、意識を失ったスコが見る夜の教会の光と影の鮮烈さ!あの橋をわたるシーン、銃撃戦、その中の母子(ではないけど)との場面、となんだか夢を見ているような酩酊感があって、ホントあの世界に完全に持ってかれちゃってましたね。

キャストの要所要所に綺羅星のごとく英国俳優陣を配しており、指令を託すコリン・ファース、現場指揮者のアンドリュー・スコット、途中でスコフィールドを助けるマーク・ストロング、指令を伝える先はベネディクト・カンバーバッチで、しかも最後にリチャード・マッデンまで出てくるという。英国俳優双六でもありましたな。

トムの運命も、まさかあんなことで…っていうあっけなさで、それがリアルで、ウィリアム・スコフィールドが(彼の名前、最後のシーンで名乗って初めてわかるよね。トム・ブレイクは最初に呼ばれるけど。トムは「スコ」としか呼ばないし)助からない、と静かに告げるのも含めてどうしようもなくやるせなかった。そういえば、この物語は最初と最後が同じ、私の大好きなループする構図ですね。木の下で居眠りをしていたスコフィールドが起こされるところから始まり、また彼が木の下で目を閉じるまで。ご覧になる時は、ぜひ大画面で没入感を味わっていただきたい作品です。

「二月大歌舞伎 夜の部」

今月は十三世片岡仁左衛門追善ということで、夜の部は「八陣守護城」の佐藤正清を我當さんが、「道行故郷の初雪」の梅川を秀太郎さんがおつとめになっていらっしゃいます。そのほか、羽衣に文七元結という演目立て。

「羽衣」は玉三郎さんの天女に勘九郎さんの伯竜。何を隠そう(隠してない)あの有名な羽衣伝説の三保の松原の目と鼻の先に住んでたことがありますのでアタクシ。その風景を思い出しながら観たりして。大好きなおふたりの舞踊、堪能させていただきました。あの天女の花道の引っ込みのとき、伯竜がセリで下がって対比として天女が空を飛ぶように見える…っていうアイデアがすごいし、また玉三郎さまがマジで全然歩いている感ないので余計花道からすっと浮かんでいるように思えました。

「人情噺文七元結」。いっやーーーーーすばらしかった。すばらしかったね。なんかちょっと夜の部、時節柄なのか空席が目立つのが残念だったんですけど、この文七元結はもう、ぜひとも見てほしい。もちろん私は勘三郎さんラヴの人なので、勘三郎さんの長兵衛が大好きなんですけど、でも菊五郎さんの長兵衛はなんつーのか…年輪というか、どこか硬質なところがあって、それがまた一層、よかったんです。あの文七と行き交う場面も、湿っぽさはないのに、命には代えられねえ…とひとりごちる部分でぐっと情がわきたって見える。

また雀右衛門さんのお兼が最高だった!雀右衛門さんのああいうお役見たことないけど絶妙な間合い、控えめだけれどだからこそ際立つおかしみ、もう絶賛。あの「この人にやったんだッ」のとことかさ、菊五郎さんもいいし受ける雀右衛門さんもいいしで、ほんとにいいもん見たなあ~って気持ちに。文七をおやりになっていたのは梅枝さんで、これは前から思ってたんですけど、梅枝さんはほんっとーに声が良い。姿かたちはもちろんですけど、あの声のよさったらない。梅枝さんと菊五郎さんのやりとりもよかった。良き時間を過ごせました~

「ザ・ピーナッツバター・ファルコン」

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タイラー・ニルソンとマイケル・シュワルツの長編監督デビュー作。主演はシャイア・ラブーフシャイア・ラブーフはこれまでもいろいろ迷惑行為をやらかしては話題になっているんですけど、今作は撮影中に起こした事件で逮捕され、作品の公開自体が危ぶまれた…といういわくつき。しかし、なんとかここ日本でも公開してもらえました!

両親に見捨てられ、州の施設で要介護の老人たちと暮らすダウン症の青年ザックはプロレスラーに憧れている。古いプロレスのレッスンビデオを、それこそテープが擦り切れるくらい見ている。彼は文字通り着の身着のままで施設を抜け出し、その途上でひとりの男と出会う。その男は地元でどうしようもないトラブルを起こし、人目を避けてフロリダへの旅をする途中だった。「お尋ねもの」同志の、奇妙な南への旅がはじまる。

物語の要素としてはマンチェスター・バイ・ザ・シーやチョコレートドーナツと類似する部分がありますが、今作は全体にファニーな雰囲気が常にあって、それはザックが憧れているのがプロレスラーで、それはプロレスラーそのものがただ強い、ただ怖いだけじゃなく、どこかファニーな空気、愛される存在としての何かがあるからかもしれないなと思いました。「友達は自分で選べる家族」。いいセリフだな。老人ホームでのザックの「友達」もかっこよかった。タイラーはザックと出会ったその時から、必要があれば彼を助けるけれど、庇護する視線になっていないのが印象的だった。あんなに荒くれてやってはいけないことに手を出してしまうけど、ピーナッツバターを買った店の店主にショットガンのことを言われると、ちゃんと謝って見えないようにするのも、タイラーって人間の品をよく表していてよかったです。

ソルトウォーター・レッドネックの住んでいる場所を探し当てたときのタイラー、ザックの夢を壊したくない一心なのがむちゃくちゃ切なかったなー(だからこそそのあとの登場シーンでこっちまで浮かれちゃう)。タイラー、兄のことが彼のむちゃくちゃ重い軛になっていて、それが回想シーンで観客には示されるんだけど、私はもう初手から彼がおにいちゃんの帽子をボロボロになってもかぶり続けてるところでだめだったね…しかもおにいちゃん役がジョン・バーンサルだもん。良おにいちゃん案件すぎる!

それにしても、シャイア・ラブーフはやっぱり素晴らしい。いろいろと問題があってもこうして彼に活躍の場があるのは、もちろん恵まれた立場と環境にある(どれだけ才能があっても、一発で干される人だっている)というのもあるけど、どうしてもこの人とやりたいと思わせる演じ手としての力があるからなんだろうな。

この作品が主演俳優の迷惑行為でお蔵入りかも、となったとき、今作で共演しているダウン症のザック・ゴッサーゲンに「君はすでにスターだけど、ぼくにはこの映画がチャンスなんだ。なのにそれを台無しにした」と言われ、その言葉をきっかけにシャイアは更生を誓ってアルコール依存症の治療に取り組んだそうです。未来は決めれる。前にすすめ。良い映画でした。

「パラサイト 半地下の家族」

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ポン・ジュノ監督・脚本。おーもしろかったです!2019年カンヌ国際映画祭最高賞パルムドール受賞。間もなく発表されるアカデミー賞にも作品・監督賞ともにノミネートされております。

半地下の狭い家で暮らす無職の父と母、浪人中の兄と妹。兄の友人(大学生)から紹介された豪邸での家庭教師の仕事。その蟻の一穴から「その家」に次第に侵食していく。すべては計画通りだった。はずだった。

「パラサイト(寄生虫)」というタイトルから、金持ち家族の方に「何か」があるのかなという予想をしていたんですけど、ぜんぜん違ったし、違ったところからの展開がツイストが効きすぎててほんと目が離せなかったですね。あの隠し扉を開けるところから始まる、形勢逆転、逆転、また逆転。そうそう、北朝鮮国営放送ギャグってやっぱ、あるんだな…というのもしみじみしました。そりゃ、あるよね。やるよね(余談ですが大人計画所属の池津祥子さんはこの道でかなりの腕前)。

貧富格差を容赦なく描きながら、こうした時にありがちな「貧しきもの」の方に正義の天秤が傾きすぎるということがない、そのバランス感覚のまま最後まで走りきっているのがすごいなと思いました。あと物語の展開、構図が私のツボだった…。計画は立てない、計画を立てるから計画にないことが起きる、というあの避難所での会話を踏まえての「僕には計画があります。…その日までお元気で」。し、しびれるぅ~~~~!!!!!

印象に残ったのはあの雨の日、豪邸を抜け出した彼らが下へ、下へと降りていくあの遠景のショット。ショットがどれだけ切り替わっても、彼らは降りていく。下へ、下へ、もっと下へ。あの半地下の家へ。

「金持ちだけどいい人だ」「間違えちゃだめ。金持ちだからいい人なのよ。金はひねくれたシャツのしわをのばすアイロン」。いいセリフ。彼らは無能なわけでも怠惰なわけでもなかった。でも半地下に暮らし、その半地下の匂いが染みついている。その「匂い」を契機にして一線を超えた瞬間のソン・ガンホさんの演技が目に焼き付いております。