「赤鬼」

当日券で拝見しました。14時開演の場合、10時から12時半までのあいだに整理番号配布、12時50分に当選番号発表(webで見られる)、13時から販売。キャンセル待ち番号の人は開演10分前に集合してキャンセルが出れば見られる、という販売形式。このご時世なので前日電話予約等よりも、当日確実に現場に来られるひと、かつ行列を作らせない形式…っていうことなのかな。正直めちゃくちゃラクなので今後もこの方式採用してほしい。整理番号もらったあとホテルで休んで、webで当選確認してから出かけられるってむちゃくちゃありがたい。

野田さん自身の演出による「赤鬼」は16年ぶりだそう。え?ホント?そんなに?ロンドン、タイ、韓国といろんなところで上演の話を聞いてたり他の人が手がけたものを見たりしていたせいか、そんなに久しぶりという感じがなかった。今回は野田さんが自らオーディションで選んだ「東京演劇道場」のメンバーが4チームに分かれて公演を行っています。私が拝見したのはCチーム。

四方囲みの舞台で、座席はちょうど椅子一つ分空くような形で設置。自由席でした。舞台と客席の間には透明のビニールカーテン。これ、最初に劇場に入った時は興を削がれるかなと思ったんですけど、開演してびっくり。思わず「え、消えた?」と思うほど目の前がクリア。対面の客席を見るとビニールに反射してるのがわかるのだけど、明かりが入ると目の前はまったくビニールの存在感がない。いやーおもしろい。これは感染防止としての役割もあるけど、なによりある種の劇的効果があるんですよ。これ蜷川さんが生きてたらこのビニールを使って遊びまくるんじゃないかと思いました。

今回の赤鬼はキャスト数としては日本版よりも圧倒的に多いタイバージョンを底本にしていて、それもどうしても見たかった理由のひとつだったんですが、なにしろキャストが多い!そして若い!ので、途中「オッケーいっかい落ち着こうか~!」と声をかけたくなるテンションの高まりに、いやこれビニールカーテンあってよかったなとちょっと我に返りました。キャスト全体に言えるんだけど、皆台詞として投げる球の球種がやっぱり限られてる。球種の少なさとテンションの高さって関係してると思ってて、球種が少ないからこそ芝居のアクセルとブレーキがもっぱら声の強弱に依るような部分があると思うんですよね。

しかし人数が多いからこそ見える風景も確実にあるし、というかこれで「島の人々」が自分の知らない言葉を喋り、赤鬼だけが理解できる言語を使って演じられたとしたら…まったく違った「赤鬼」の物語が見えてきたりするんだろうな。

そして何よりホンの強靭さ、それに唸りました。むちゃくちゃ強い。初演の1996年から構造をまったく変えていないのだけど、あの時代にも有効だったし、今なお有効だし、感染の二文字を誰もが頭に思い浮かべるこの時に、排除される「あの女」たちに今の私たちの現状を重ねてしまう。初演から24年の時を経ているからこそ、結局私たちはここからどこにもいけないのか、という暗澹とした、絶望にも似た思いがよぎる。しかしそれでも、赤鬼はやっぱり「向こう」を見せてくれる芝居で、だからこそずっと大好きだし、何度でも見たくなる作品なんだろうなと思いました。その向こうにあるのが何であっても。ひとが山に登るのは、見通せる向こうが欲しいからだ…。初演の時から大好きな台詞です。

スケジュールを見て、自分が見られるとしたらCチームだなと思い、顔ぶれを確認して、このメンバーだったらきっと川原田さんがミズカネをやるに違いない、と踏んでいたのですけど、あたりでしたね。いつも野田地図作品を見るたび、いい仕事なさってるなーと注目していたので、生き生きとミズカネを演じられるところを拝見できてうれしかったです。

「大地」

パルコ劇場リニューアルオープニングシリーズのうちの一作で、三谷幸喜さんの新作。これでもか!と音がしそうなほど豪華なキャストを揃え、チケットももちろん即完売…のところ、新型コロナウイルスの影響を受けいったんすべてを払い戻し、販売客席を半数以下として幕を開けたのが7月1日。

個人的に2月以来、半年ぶりの劇場でした。もっと感傷的になるかと思ったけど、そうでもなかった。緊張していたからかな。
以下、展開に関するネタバレがありますので、大阪公演をご覧になる方はお気をつけて。

舞台はとある共産主義国家、国の政策によって反政府主義のレッテルをはられた芸術家たちは強制収容所に送り込まれる。家畜の世話に明け暮れ、「最高指導者の偉大な考え」を刷り込まれるだけの毎日のなか、とある収容棟に偶然集まった「俳優」たちは演じることを取り上げられた日常とどう向かい合うのか、という物語。

手触りとしては同じくパルコ劇場でかかった三谷さんの「国民の映画」に似たところがあるなと思いました。芸術に対する国家の抑圧を描いていること、それに対する芸術家たる彼らの人間性、その矜持を描くと同時に、その当てにならなさを抉り出しているところが特に。ある意味ではこれ以上ないほど時宜を得た作品であるともいえて、思想や独裁主義からではなく、感染症という問題に端を発しているにせよ、かつてこれほどまでに「演ずること」が抑圧を受けた時代はこの数十年、いやもっと長い単位でなかったことかもしれません。劇中繰り返される「発声練習、スクワット、ホンがあるならそれを読むこと、それが今できる役者の仕事だ」という台詞に、家の中にとどめ置かれた日々を想い出さない観客はいないのではないでしょうか。

そういった時流を反映した(した、と思わせる)台詞だけではなく、「ダメなホン」への役者の諦観など、普遍的な台詞の面白さもふんだんにあり、三谷さんはこれを書きながら役者が実際に演じるところを想像してひとりほくそ笑んだのではないか…とおもうくらいです。

一幕の終盤では文字通りのハラスメントの末に、「人間の尊厳」のかわりに手に入れた卵を拒否し、みごとな「ディナー」を演じてみせる役者たちを見せる一方で、二幕のラストでは文字通り命がかかった局面で彼らの人間性が鳴りを潜めてしまうところを書ききるのが、少なからず「歴史」を前にしたときの三谷さんらしい展開、きれいごとだけを書くことをよしとしないところだなと思いました。

ところで、この舞台の二幕のとある展開は、その他のシーンと微妙にリアリティラインを異にするような部分があります。若いふたりの逢瀬の時間を捻出しようと登場人物たちが文字通り「ひと芝居打つ」わけですが、その切迫性(あの雁字搦めの収容所生活において、ここまでのことを起こす動機として十分なのかどうか)も含め、他のシーンとの重さの違いが如実なんですよね。しかしながら、これこそまさに芝居のマジックとでもいう面白さで、ここで若いドランスキーを足止めする辻萬長さんの、浅野和之さんの、山本耕史さんの、キャストそれぞれの「持てる武器」によって観客と劇空間がねじ伏せられていく、その愉悦。とくに辻萬長さんの「父としての語り」が白眉だと思うんですが、まったく相手の台詞を受けない、一方的な演技に相手が飲み込まれ、次に観客が飲み込まれ、最後には観客全員が声に出さずとも、ドランスキーに対して「言え!言っちゃえ!」と気持ちを一つにする。そこに放たれる「おとーーさーーん」だからこそ、客はそれを万雷の拍手と爆笑で迎えるわけです。これは演劇だからこそできる極上の嘘で、あのシーンではそういった綺羅星のごときキャストらが、その魅力を大玉百連発とばかりに打ち上げるんですから、盛り上がらないわけがない。

苦いラストを描きながら、あのときその人間性を放棄した役者の多くが二度と舞台にあがらなかったと語らせるところ、もしかしたら…と一縷の望みを持たせる台詞を言わせるところ、なにより最後に「あったかもしれない」愉快な旅公演の姿でしめるところは、三谷さんのやさしさなのかもしれないですね。

照明も舞台装置も小道具も、なにもかもいらないが、演じるうえでもっとも失ってはならないものは観客だったというその台詞を、三谷さんが初めから書いていたのか、いま、この時だから書いたのか、それはわかりませんが、森羅万象を乗り越えてこの客席に辿り着いたもののひとりとしては、沁みる台詞でした。

大泉さんの演じる役はいってみれば舞台監督的な立ち回りをする人物なんだけど、この役を大泉さんに振るあたり、本当に三谷さんは大泉さんが好きだし、自分のおもう芝居のトーンを実現してくれるということについて揺らがない信頼があるんだなあということを感じる2時間半でした。辻さん浅野さんの「腕に覚えあり」チームの芝居の確かさ!舌を巻きます。ほんとうにすごい。山本耕史さんがここぞとばかりに出すスターオーラ、それと相反する器の小ささ、それをちゃんと納得して見せられる芝居の確かさよ。竜星涼さん、我らがタカシフジイ、栗原さんに相島さんに小澤雄太さんにまりゑさん…全員がこの舞台に対して最高の仕事をしてくれていたと思います。

わたしが観たのは東京の楽前で、まさに完ぺきといっていい仕上がり、だから楽前が好きだよあたしゃ…としみじみ思いました。完全に熟れて、落ちるか落ちないかの境の果実のような芳醇さ。カーテンコールのあと幕が下りて、三谷さんのアナウンスがダブルのカーテンコールはないよ、浅野さんはもう寝ちゃったよと冗談めかしながら退場を促すのを聴いている観客はみな笑顔で、席を立ち、通路を歩きながら、ダブルのカーテンコールはないことを承知で、拍手で舞台を讃えていて、それを見ている劇場スタッフさんがマスクをしながらでも笑顔なのがわかって、私はいま劇場にいるんだな、ということをこのとき、痛烈に実感しました。6か月ぶりの劇場での観劇で、芝居を観始めてから30年以上、こんなに長いこと劇場に足を運ばなかったことはなかったけれど、自分が何を求めていたのか、自分が何を好きでいたのか、何を愛していたのかを思い出させてくれた2時間半でもありました。楽しかったです。来てよかったです。

「ドクター・ドリトル」

f:id:peat:20200726204840j:plain
タイトルロールをロバート・ダウニー・Jrがつとめ、動物たちの「声の出演」に文字通り「綺羅星のごとく」スターが集まった「ドリトル先生」の実写映画。監督はスティーヴン・ギャガン

もともとが児童書なので、あえてそういうテイストを狙っているのかなとも思うのですが、筋立てがすごく紙芝居っぽかった。1枚1枚の絵力はすごいしめちゃ引っ張られるんだけど、次の絵までの繋ぎが逆にさらっとしすぎというか。エピソード、めくってまたエピソード、という感じ。物語のダイナミズムを楽しむという点ではちょっと食い足りなかったかなあ。

しかしRDJの「そこにいるだけで絵が持つ」力と、これでもかと出てくる動物たちのキューティぶり、スタビンズ少年の健気さ、機転の利きようも良く描かれていて、力業だけど、見せられちゃうな~!と思いました。敵役のマイケル・シーンさんもすごくよかった。

RDJの吹替えを長年つとめられてきた藤原啓治さんに敬意を表して吹替えで鑑賞したんですけど、いろんな動物がワーーーッ!と一気に喋るのでこれは吹き替えで正解だったかも。みなさんはまり役だったし、ダチョウのプリンプトンの八嶋さんが絶妙にいい味出してて内心拍手喝采でした。あと私はやっぱりシロクマが好き(笑)

「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」

f:id:peat:20200625010128j:plain
原題はLittle Womanと原作そのまま。しかし、これを最初に「若草物語」と翻訳したひとはすごいね。もはや、これ以外のタイトルは日本では考えられない。だから映画の邦題にも「若草物語」を引っ張るのは当然だし、しかしこの映画自体は「若草物語」そのままを実写にするというよりももっと大きな枠組があるし…ということでのこのタイトルなのかな。監督はグレタ・ガーウィグです。

若草物語」での出来事をジョーが振り返る過去の時系列と、今現在の「続・若草物語」の時系列が交互に描かれるんですが、その現在の時系列がラストでもうひとつ分岐し、ジョーが書いた物語としての展開と、それを書いた「ジョー=ルイーザ・メイ・オルコット」としての今、がさらに交錯するという構成。本を書き上げて、ジョーが映画のこちら側にむかって語り掛けるところが物語との分岐点かな。しかしぜんぜん複雑さを感じさせずすっきり見られるのは監督の手腕だな~と思いました。でもって、監督の見せたいものは、「自由な中年女になりたい」というかつての作者(作中ではジョー)の願いであり、それを若草物語は物語として見せつつも、「今」の映画にするためのこれがフックだったんだろうなと。

4人のキャストもイメージぴったりで、特にジョーのシアーシャ・ローナンとローリーのティモシー・シャラメの2人はぜんぶのカットにケミストリーがあふれとる!!!って感じでした。あのダンスのシーンの!!よさ!!!ほんと魅力爆発してたな…。ジョーじゃなくてローリーが相手のくれたおもちゃの指輪を大事にしているところが象徴的だけど、男女の役割をフラットに描こうとしてたし、だからこそあの終盤のジョーの「秘密の小箱」に忍ばせた手紙とのギャップ、その物語を突き放して見ている作者の目…という展開がすっと胸に落ちた感じがあったなー。エイミー役のフローレンス・ピューもすんばらしかった。彼女の低い声が映えるエイミーだった。女にとって結婚は経済と言い切るエイミーはジョーとは違う方向ではあっても自由な中年女を心に飼っているひとりなんだなあと思った。

原作の「若草物語」、もちろん読んだことがある、読んだことがあるどころではなくて、何度も何度も、繰り返し読んだ本でした。出てくるエピソードは全部覚えてたし、自分のイメージ通りだった部分もそうでない部分も楽しめました。しかし、それはそれとして、見ている間心のどこかでずっと考えていることがあった。私はこの4姉妹のなかで、ベスがいちばんのお気に入りでした。今で言えば「ベス推し」とでもいいましょうか。こうして「今」の映画になったこの物語を見る時、ベスの存在ってなんなのかな、ということを考えちゃったんですよね。若草物語自体は実体験をもとにしているとしても、古今東西の物語に「ベス的なもの」ってすごくたくさんあるじゃないですか。とある劇作家の言葉を借りれば「他人の人生を生き生きとさせるのに必要で、それでいてなんの実体も持たない存在」。子供の頃本を読んでいた時にはまったく感じなかったことだけど、今回の映画を見ているときに、それでベスという人は実際どこにいるんだろう?何を考え、何を嫌い、何を好きだったのか。ほんとうに皆が口をそろえて言う「天使」だったのか。そういったピュアネスを具現化したような存在を、若草物語に限らず長じてもなお贔屓にしてしまう自分のこの性質はどこからきているのか。ジョーはベスによって、もっといえばベスの死によって自分の人生の実体を手に入れる(と本作では描かれている)し、そこにこの映画の力点が置かれているいっぽう、グレタ・ガーウィグの興味はベスの上にはないのだなあということも感じたんですよね。

ジョーやエイミーが100年前に描かれた小説から現代へ飛び出してくるような息遣いを見せた、その輝きに惹かれつつも、「自由な中年女」になれなかったベスのことを考えてしまったあたり、幼少期に刷り込まれた物語の力は容易に消せないな…としみじみ思いました。

はなれても はなれても

5月末から6月にかけて配信・放送されたWOWOW製作のリモートドラマ「2020年 五月の恋」、みなさまもうご覧になりましたか。WOWOWに加入していなくても、youtubeで期間限定無料配信中なので、誰でも、どこでも見ることができます。1話15分×4話なので、通勤時間でも、お昼休みでも、家事の合間でも、寝る前のひとときでも、パッと見られる。ほんとうにおすすめなので、この先私がうだうだ書くことを読むよりもまずドラマをご覧になっていただきたい。

さて、この2~3か月あまり、通常のドラマの撮影はおろか、「出歩くことが制限」される中で、作り手の方々も試行錯誤のあともあらわ、というような感じでいろんな企画がありました。リモートドラマもいろんなタイプのものが作られましたね。好きな役者さんだったり好きな脚本家さんが絡むものも多かったので、なるほどこういうアイデアもあるのか!だったり、対話で作劇していくにあたってのリモートの難しさを実感したり、いろいろありましたが、個人的にはこのWOWOWの「2020年 五月の恋」がその白眉と言う感じでした。

ここから先はドラマをすでに見ているという前提で話を進めますが、距離の離れたふたりの会話劇をドラマにする、という設定から、その「対話」をまず「電話」にさせた岡田惠和さんの脚本がすばらしい。離れていても対面できる「zoom」をはじめとする新しい機能を活用しようとする動きが目立つ中、いや、そもそも離れた二人が会話するなら電話でしょう、という原点回帰。そうなんだよ、そもそも離れた二人のコミュニケーションて電話か手紙だったじゃないですか。

で、さらには4話中3話まで、2人は顔を合わせない。電話をどちらがかけるか、というアクションも混みで、最初の間違い、次のお返し、最後は駆け引き、と3パターン見せるのもさすが。そして満を持して第4話でようやく、ふたりがお互いの顔を見る。そこで出る「やっぱりおれが、世界で一番好きな顔だよ」。この一言をパンチラインにできるのも、「顔を見る」という行為を4話までさせないからこそなんですよ。さらに言えば「今でもきれいだ」とか「変わらない」とかじゃなくて、「俺が世界で一番好きな顔」これだよ!!!そこからやたらメロウにならず、どんどん面白思い出話に転がっていくのもすばらしい。はーすばらしい。

カメラはそれぞれの登場人物の部屋に固定されていて、2方向からの映像を切り替えることしかできない。でも、これがよかったんですねえ。zoomなどを使った配信をたくさん見ているとどこか疲弊しちゃう自分がいるんですが、それってたぶん、ずっと表情だけが映ってることの弊害なんじゃないかと思うんですよ。視界を固定されているというか。人間の視線って実のところむちゃくちゃ自由なので、その自由の薄さに息苦しくなるとでもいうか。

このドラマもカメラは固定なんだけど、ずっと引きの映像なんですよね。基本的に全身が収まる距離で撮られている。でもってね、これ途中でユキコを演じる吉田羊さんが思わず高ぶって涙してしまう…というシーンがあるんだけど、そこでカメラが寄らないんですよ、当たり前だけど!泣いてる女優の顔をとにかくアップで撮ることを「品がない」つってた大女優さんがいましたけど、ほんと寄る必要って1ミリもないな…っていうことを改めて思いました。

ユキコさんはいわゆるエッセンシャルワーカーで、対するモトオはリモートワークで家にこもりきり。対面で仕事をしなければならないプレッシャーを職場で分かち合うなか、独身のユキコさんが家族持ちで家庭内での感染をおそれる仲間から言われる「ユキコさん大丈夫だね、うらやましい」のひとことを丹念に解きほぐしていくところ、本当に涙が出ました。いやわたしの職場でも、実際そういった「接触機会の多い現場」にはまず独身が立たされるという選択は当然にあって、しかもそれって「正しい」ことなんよね。感染を拡大させないためにはさ。でもその正しさからこぼれるものって絶対あるじゃないですか。

エッセンシャルワーカーのユキコさんを「ほんと、戦士だよ」とたたえるモトオと「それはみんなでしょ」と返すユキコさんの会話も、岡田さんがほんとうに「今書くべきことを、今書くべき人に」書いた、という思いがあふれているなあと思いました。

この企画の発起人は吉田羊さんで、羊さんは「12人の優しい日本人を読む会」に参加したことがきっかけで2時間の演劇が成立するなら連続ドラマだっていけるのでは!?と企画を動かしはじめたそう。脚本の岡田さんも「あっという間に」ホンを書き終わったらしく、いろんなひとの「今やりたい」ことの泉に水路を繋いだからこそのスピード感だったんだなと。大泉さんの登板は吉田羊さんたっての希望らしく、①映像だけど舞台のテンションで芝居ができる②間や呼吸を読むのうまい③重くなり過ぎずチャーミング、という要件を叶えるのは大泉洋しかいない!と完全に落としにかかってますよね。いやでも、さすがの呼吸、さすがのテンポ、エモーショナルな部分もファニーな部分もどっちも味わわせてくれて、おふたりの芝居のうまさと相性の良さを改めて実感いたしました。

7月5日には4話までをまとめて1本にし、さらに未公開映像を含めた「特別版」が放送されるそうです。こういう企画が出るってことは好評だったってことなのかなー。うれしいですね。そちらも楽しみに拝見したいと思います!

そこにギョーカイはあるのかい

正直何から書いていいのかわからんというか、毎日毎日何かがある(誰かがなんか言う)のでそれに右往左往していて、右往左往した挙句疲れ果てもういいや寝よ…となる毎日。

でも何も書かずにためこんだままだと身体に悪いような気がしてくるのでいちおう、一人の演劇ファンとして思ったことを書きます。

平田オリザさんをはじめとする「興行に補償を」という主張が、いろんなところで取り上げられて、まあ炎上といっていい事態になっているのを遠くから眺めていたんですけど、その彼ら彼女らの主張に対してどうか、ってことを言いたいわけではないのです。とはいえ、野田さんのステートメントで引き合いに出された「スポーツ」を皮切りに、製造業とは違う、○○とは違う…という、「何かを引き合いに出して地雷を踏む」というのをなぜ毎回みんな丁寧に踏襲するのかなと心底思います。それ絶対やっちゃだめってばっちゃが言ってたやつ。表に(特にSNSに)出す前に誰かに見てもらったら…とも思うけれど、みんな間違いなく「書ける人」としてキャリアを積んできているのでそういうことは考えていないのだろうなあ。

オリザさんの言い分もいちおう全部目を通したし、なので本論というか「未曽有の事態を前に今までに補償スキームのなかったエンタメ業界にも独自のスキームが必要だ」っていう主張自体が突飛なものとは思わない。しかしいかんせん伝え方が…と私も思うし、一読した段階では、おまえ製造業なめてんのかとどうしても思っちゃうし、いったんそう思うともうそのあとの論旨なんて入ってきやしない。あと鴻上さんがSPAの連載で「好きなことを仕事にしているんだから我慢しろ」という主張について反論していたのも、これだけ鴻上さんで産湯を使った人間からしても「ちょっと待てい!」と思わざるを得なかった(「好きなことを仕事にしている」「していない」の分断を鴻上さん自ら作り出してる気がするし、そもそも我々仕事に「好き」かどうかってマターを持ち込んでないッス)。もちろん、だからといってどんな悪罵をぶつけてもよいというわけじゃないのは当たり前だ。さらにいえば、確かに感じよくない、印象良くない、上から目線、そうかもしれないけども、だから補償を受ける資格がないとも思わない。感じがいい人でなきゃ受けられない補償は補償じゃないと思うからだ。

しかし私がこの「コロナ禍」における演劇界について今思っていることは補償の是非というような話ではない。新型コロナウイルス感染症被害対策:舞台芸術を未来に繋ぐ基金=Mirai Performing Arts Fundの賛同人代表でもある板垣恭一さんのメッセージにあったこの部分に「確かにそうだな」と頷くところがあった。

それは演劇界ってのは、本当に存在しているのか?ということでした。例えば有事ではなく平時から僕らは「自助努力」してきたのかと。宋さんが発信していたように、保険制度を独自に持つとか、有事に対して業界で連携して社会貢献するなどの動きはあったのかと。僕たちは、それぞれが散発的に仕事をしてきただけで、互いに連携することでの「業界としての力」みたいなことにあまりにも無頓着であったのではないか。

国民に対する一律の給付金についてニュースが飛び交っていたころ、和牛の「お肉券」を発行することで畜産業界からの要望に応える…といった話が浮上していたのは記憶に新しいし、私のTLでも文字通り沸騰するようにその話題が出た。もちろん皆の主張は「今は肉じゃねえ!金だ!」だったわけだけれど、なぜああいうニュースが出るかというと、それはその業界団体が仕事をしているからに他ならない。高級和牛の需要が減り、畜産農家が困窮する、そのための施策を考えてくれ、と業界団体が発言し、それを政府に届かせるスキームを持っているからだ。畜産業に限らず、漁業も、農業も、個の力をひとつにして大きな声にする仕組みがなければ立ちいかなくなる、という事態が今までにもたくさんあり、それが今の発言力に繋がっている。ここで「いや私たちは最後で大丈夫ですよ、どうか他の人を助けてあげて下さい」とかいって業界団体が主張しなかったら、当然のようになにもしてもらえない。だから声をあげる。もちろん、なんでも業界団体の言うことを通せというわけじゃなく、今は肉じゃないんで、肉のことはあとで考えるから、まずお金ね、というようにそれらの主張を聴き、調整し、採用し、あるいは却下するのが政策の仕事だ。

つまるところ、今の演劇界の弱さは、業界団体としての脆弱さと直結してるんじゃないかと思う。そういうことを意識してこなかった。むずかしいのは、だからこそ生まれた文化でもあるというところだ。私の観劇歴は長いとも短いとも言えない中途半端なものだし、体系的に演劇史を学んだわけでもないので、これは30年間観客席に座り続けた人間の感覚による頼りない発言にすぎないが、あるムーブメントについてそれを否定し、違うものを表現する、という大きな流れが演劇界の一部にはある。新劇からアングラ、アングラから小劇場、静かな演劇、そしてもちろん大きな資本の入った商業演劇伝統芸能…と演劇といっても一枚岩では決してない。しかも前の時代への否定が入っているぶん、余計に横のつながりが薄い。今となっては、そうしたジャンルも明確な線引きはなくなってきつつあるのかもしれないが、逆に言えば常に新しいものが台頭できたのには、大きな一つの業界を形成してこなかったからこその恩恵の部分もあるのじゃないかと思う。

とはいえ、いつかは限界が来たのかもしれない。それをこの新型コロナウイルスが早めただけとも思う。出演者がインフルエンザに罹患して公演休止…という事態がこの2~3年そう少なくない頻度で起こっており、感染症という突発事態に演劇界がどう対応すべきか、というのは遅かれ早かれ議論になっておかしくなかった。実のところ、みんな薄い刃の上を渡るように興行を打ち続けていて、それが一気に崩され、その下敷きになった演劇関係者が山のようにいるのだろう。だからこそ、じゃあ、これからどうするのか?ということを考えなきゃいけない。それは創り手だけではなく、観客にも課せられた課題だ。

もちろん観客は製作には関与しないが、これから演劇界がより強固な「業界」を形成していくべきなのか、セーフティネットを構築するべきなのか、そしてそれらの負担が「チケット代」として跳ね返ってきたときに、それを受容できるのか、というのは逃れられない問題なんじゃないかと思う。「パラサイト」でオスカーを受賞したポン・ジュノ監督が是枝裕和監督との対談の中で、「3、4年前から、韓国の映画産業が決めた労働時間に沿って制作してきました。昔のように徹夜での撮影が武勇伝になった時代は、完全に終わりました」と言っていたけれど、演劇界での労働条件というものにも、私はこれまで完全に無関心だった。よく海外公演のドキュメンタリなどで、海外のスタッフは労働時間が決められている(から、最後の追い込み作業の時間がない)というエピソードが語られ、それには徹夜突貫何するものぞ、な日本側を良しとするようなトーンがあったけれど、果たしてこれからもそれで良いのか?こうした事態においてスタッフのすみずみにまで補償をいきわたらせるには、ユニオンの存在が不可欠なのではないか?と思ったりもする。

さらには、これはまさに喫緊の課題というようなところだけれど、「コロナ後」の演劇をどうするのか、という問題がある。いまのこの状況は、永遠には続かない。いつかは終わる。それが半年後なのか1年後なのか10年後なのかは誰にもわからないし、どう終息を、というか折り合いをつけるかもわからないが、いつかは劇場が再開される日が来るだろう。その時に今までのままでいいのか、ということを考えなきゃいけないし、「コロナと折り合いをつけながら劇場を開ける」という、いわばプランBを演劇界が共有する必要があるだろうと思う。当日券の売り方、客入れの仕方、座席の配置、そもそもキャパとしてどの程度から再開していいのか、という問題もある。今までは原則応じられなかった「キャンセル対応」の是非の問題もある。緊急事態宣言前は各公演、各劇場が専門家会議の「提言」を参考に独自に対策をとっていたが、キャパ別にある程度のガイドラインを演劇界全体で共有する(当然そのプランを専門家に評価してもらう)必要もあるのではないか。

おまえが消えて喜ぶものにおまえのオールをまかせるな、というのは「宙船」の歌詞の一節だが、その喩えでいけば私は観客としてこの演劇界のオールを持つひとりだ。コロナ後の世界は今までと同じものではない、という言説には、もちろんそうだろうな、と思う。思いながら、でも私は劇場に行くだろうな、ということについて、まったく自分を疑っていない。どれだけ時間がたっても、私が恋しくおもう場所は劇場だからだ。だからこそ、劇場がふたたび開くときのことを真剣に考えたい。演劇界の方にも、いま真剣に考えているであろう「コロナ後」の劇場のことを、観客と積極的に共有してもらいたい。同じ船に乗る者同士、できることはきっとあるんじゃないかと思う。たどりつきたい場所は同じなのだから、きっと、できることがあるんじゃないか。そう思いたい。

12人の優しい日本人を読む会を見る会

GW突入と同時、4月29日にSNSで告知されたこのニュース。


文字通り、布団の中で惰眠を貪りまくっていた私は跳ね起きました。
えっちょっと待ってちょっと待って、TSBのメンバーはどれぐらい揃うの、ちょっと待ってちょっと待って…
…ほぼ全員揃っとるやないかーい!!!!!
相島さんの2号、善さんの7号はもちろん、西村さんの9号に野仲さんの11号に…
えええええええええ。
えええええええええええええええええええええ。

いやもうこればっかりはね、古参ウゼエと言われてもいい、この意味が!!!わかるか!?!?と道行く人に手あたり次第に詰め寄りたい(心の中で)ほど、すごいニュースですよ。「豪華な顔ぶれ」で済まされるアレじゃないのよ。社会通念上の「豪華」でいけばそりゃ2005年のパルコ版の方が豪華かもしれんよ、駄菓子菓子!「12人の優しい日本人」をやるという点において、正直これ以上の「豪華なキャスト」は存在しない!このカシオミニを賭けてもいい!!(直近の無料企画の影響が如実)

そして本日!前半14時から、後半18時からのライヴ配信。当初は一発勝負でこれっきりのご予定だったようですが、その時間帯に見られない…!という声も多かったのでしょう、5月いっぱいアーカイヴ*1を残してくださるという太っ腹ぶり。私はといえば今日は14時までに洗濯掃除もろもろ済ませ、1時間前にはPCの前にスタンバイ。こういう同時性が要求される娯楽の味、久しぶりだな~と思いながら。

冒頭に今回の企画の発起人である近藤芳正さんからの挨拶があり、こんな時だから、12人読みたいねって声があって立ち上げた、三谷さんにも快諾してもらって、機械に慣れないオジサンたちばかりなのでぐだぐだになるかもしれないけれど「とにかく最後までやる」(ショウ・マスト・ゴー・オンですな)のが今回のコンセプト、とのこと。そこに髭もじゃの三谷さんが登場して「できるかぎり劇団のメンバーを集めた」(ううう、うれしい)「ぐだぐだになるかもとか言ったけど、僕らの代表作なんだからちゃんとやれ」などと檄をとばしたりしてて面白かった。

さて、ようやく肝心の感想になるわけなんだけど…いやはや、すばらしかったね。それに尽きるんじゃないですか。あのメンバーがリモートでこの傑作戯曲を読む、という情報から想像したものをはるかに超えたものを提示された驚き、それによってもたらされた劇的興奮がすさまじかったです。まず、何より今回の企画の最大の成功要因は「演出を入れた」ってことにあると私は思う。どれだけこの布陣が芝居巧者揃いでも、演出がなければここまでの劇的興奮を得ることはできなかったんじゃないか。でもって、その演出家に若手の三谷フォロワーというか、ちゃんと新しい才能を引っ張ってくる近藤さんの慧眼たるや。初日はzoomに入るのですら1時間以上かかったというオリジナルメンバーたちが「リモート演劇を成立させる」にあたって、今回のニューフェイスさんたちが果たした力は大きかったんじゃないかと思います。

タイトル、暗闇での裁判長の言葉、退室してください…からそれぞれのメンバーがzoomの画面にオンラインで登場するあの瞬間!あそこからもう芝居だったよね。最初は確かに探り探りだったけれど、間合いを掴んでいくにつれ芝居の呼吸が合っていき、合っていくにつれそれぞれのテンションが高まり、というまさにいつも私たちが劇場で目撃してきた化学反応がちゃんと画面を通じても観ることができるんだな、というのも発見だった。

漫画雑誌、出前のコーヒー、投票用紙、ペン、地図…と小道具が出てくる場面は、それぞれが画面越しにやりとりしたり、実際に私物のカップを使っていたりしたのも、演出として非常にいいアイデアに満ちてて、またその呼吸も稽古あってゆえのことだろうな…と思うと、ほんと、役者って技術だよな!ってことを実感しました。不思議なことに、あの12分割された画面の向こうにさ、陪審員たちが集まる会議室が見えてくるんだよね。それを演技と演出でなさしめてるわけですよ。私たちに「想像」させてくれてる、目に見えないものを「見せて」くれてるわけですよ。それが、今回のこの「12人の優しい日本人を読む会」がただの「読む会」じゃなく、一本の芝居を観たような感覚をこちらに与えてくれてる要因なんじゃないかと思う。

しかしそれにしても、この戯曲そのもののすごさよね。これ三谷さん29歳の時に書いてるんですよ。おそろしすぎる。時事ネタがあって、それを変えないでいても、まったく強度を失わない構造。2時間強の芝居で、12人全員にフォーカスがあたる作劇。フォーカスがあたるだけじゃなく、単純な善人も悪人もいないというところまで書ききる筆力。すさまじいよ。もっといえば、日本に裁判員裁判制度がある今だからこそっていう面もあるわけで、ほんとうに、おそれいる。

せっかくなので、それぞれのキャストについて一言ずつ。
1号甲本さん。うまい。いやのっけからなんだって感じですが、常に落ち着きがあり、話が1号のところへ戻るとこっちも一瞬ホッとできる存在でありつつ、2幕で内情を吐露する際のあのトーン。「こわいな」ってあのときの、あれ、はー!(語彙どこいった)
2号相島さん。いやもうこれ相島さんが2号なのか2号が相島さんなのかってレベル。なんつーか、不動の2号。あの「話し合いましょう!」はこの人にしか出せないトーンでは。二幕で一転追い込まれてからの芝居の繊細さね…いやーほんといいもの見ました…。
3号小林さん。リモートで見ているから、こっちは普通に声を出せるのが通常の観劇とは違うんだけど、「栗をむいています」「じゃあ私そろそろ」「今のはけんかだよぉ~」など、ほんといいだけ笑い転げた。絶妙すぎでしょ。でもそんな彼が最後にしっかり議論に参加する展開がほんとにいい。
4号阿南さん。声を荒げたりするわけじゃない(女性に向かって怒鳴るな!っていうとこだけだよね、それがまたいい)けど、絶対に折れないマンのこの微妙な揺れをね、ほんと見事に体現してくださってる。あの決を採る場面で最後まで無罪の主張を曲げないのは私がこの芝居で1,2を争う好きなシーン!

5号吉田羊さん。台詞をほぼ完ぺきに入れてきてはったのでは…?この5号は実は唯一毎回キャストが違うんだけど、羊さんどんぴしゃだったなあ。5号は9号と対峙する場面が多いので、9号との相性も結構大事なんだけど、そのパワーバランスもよかった。
6号近藤さん。今回は動きがないので終盤そこまで目立たなかったけど、この6号はわりと最後「ともだちいない」感じになる役なんですよね。序盤もね!ほんっと腹立つし!またそう思わせる近藤さんのうまさね!いやはや絶妙なバランサーぶりを堪能させていただきました。
7号善さん。6号と7号は問題児(笑)。それをまたちゃんと面白く、しかも品を失わずにやれるのが善さんの善さんたる所以。言ってること感情論むき出しでむちゃくちゃにもほどがあるのに、ひとを引っ張る力がある。最後に2号に声をかけるのがこの7号っていうのがほんっとイイ。
8号妻鹿ありかさん。今回近藤さんがお声がけして参加してくださったとのことなんですけど、違和感なしなしすぎて驚いたし、どこか斉藤清子さんの雰囲気はあるし、いやすごいぴったりなひと連れてきたな!と思ってビックリしました。むーざい最高。

9号西村さん。いやーこの9号をね、見たくて見たくて。もう、見たくて見たくて夢に見るほどでしたよ。むちゃくちゃ冷静かつ論理的かとおもえば、単に5号に対するあてこすり目的だったみたいな稚気もあって、そのどの場面でも説得力がすごいし、この台詞を西村が言えば面白くなる、っていう三谷さんの信頼が見えるようでしたよ。
10号宮地さん。鉄板!と言いたくなるほど鉄板の演技。すごい。この頼りになる感、ハンパじゃない。相島さんと宮地さんがいればどれだけグダっても元に戻してくれるのでは…みたいな感じがあった。目から鼻に抜けないタイプだけれど、見るべきところは見ているってキャラをしっかり立たせてて、出るべきところですっと出る職人技。
11号野仲さん。11号は2幕が本領発揮、怒涛の反証をしていくカタルシスがある役で、見ていてもよしきたー!って思うし、そこからぐいぐい寄り切ってくる野仲さんの押しの強さを堪能できて大満足。序盤、台詞が飛んだとき素早くあとをひきとって繋げたのナイスプレイでしたね!
12号渡部朋彦さん。この方も妻鹿さんと同じくPrayers Studio所属で近藤さんがお声がけされたとのこと。いやこの12号って、伊藤俊人さんがずっと演じてた役なんですよね。で伊藤さんの役ってわりと回していかなきゃいけない役が多いんですよ。この12号も主張はしつつも有罪無罪入れ替わるキャラで、そこがいい加減じゃないように見えなきゃいけない。渡部さんマジで絶妙な存在感で、この難役をきっちりこなしてて舌を巻きました。

そして守衛の小原さん!ちゃんと守衛の衣装だったの愛しすぎませんか。あと声が、声が、よすぎる。三谷さんのピザ屋…あのときの12人の顔、マジ最高だった。あそこアーカイブで見てスクショしたい。楽しそうでなによりでしたよ。

zoomの退室が、舞台のうえで去っていく順番に画面から消えていくのも、よかったし、そこで最後まで涙を流す2号に、10号がかける笑顔もよかったし、はーすばらしかったな…と思っていたらまた1号から順に画面に現れて、一礼して、あっこれカーテンコールだ、と思った瞬間にどわっと涙があふれてきてしまった。自分がこんなにも観劇に飢えてたんだなってことを思ったし、またあそこに戻りたいなって思ったし…本当になんというか、体験、これは体験だった。画面を通じてではあったけど、私の求める観劇体験の頬に束の間触れさせてもらえた気がしました。

発起人になってくださった近藤さんにありがとうと言いたいし、上演許可を出さないことで有名な三谷さんが快諾しかつ出演してくださったのも劇団の…いやもう絆って言っちゃう、ここは言わせて、絆ありきだろうし、その呼びかけに東京サンシャインボーイズの面々が答えてくれたことがうれしいし、ね、これみんながいましっかり第一線で活躍しているからこそだもんね。三谷さんが伊藤さんの名前を出してくださったのも、うれしかった。

冒頭の近藤さんと三谷さんによる前説?のときに、三谷さんがこう言ってた。「なんでこんなめんどくさいことを?でもおもしろいものってたいがいめんどくさいからね」。ほんとね。演劇なんて、そういう意味じゃたいがいめんどくさいものの極みよね。やる方も見る方も手間がかかるったらない。でも、そのめんどくさいものをみんな愛してんだよなあ。そのめんどくささを乗り越えて、飛び切り面白いものを画面の向こうから届けてくださって、ありがとう。ほんとうに、この日のこと、忘れません。