「いきしたい」五反田団

五反田団の新作。コロナ禍のことではなく、個人的なことを書きたい、という作・演出の前田司郎さんの弁。ツイッターでフォロワーさんが激賛されていたのを見て、あわてて追加発売になったチケットを買いました。追加販売に救われたパターンですね。

舞台上で引越し荷物の片づけをしている男女。どこにでもある普通のやりとり…と思いきや、そこに男の死体が引きずられてくる。「どうすんだよ」「捨てないと」「どこへ?」「どこか…遠くにだろ」。男女の会話は続くが、転がっていく先は見えない。

1時間の3人芝居、濃密で、演劇の仕事、演劇にしかできない仕事をいっぱいに頬張ったような後味。すばらしかったです。観に行ってよかった。冒頭の男女のシーンで、確かに男が出ていくようなセリフがある(女が「実家に戻るの?」と聞く)のだけど、そこからどんどん話が転がり、かつまったく思った方向に進まないのに、ちゃんとぜんぶが繋がっている(のがわかる)のが、本当に巧み。加えて、あの会話のすばらしさ!女はかつて夫と死別したことがわかるのだけど、舞台上にいるのは死んだ夫の概念というテイの男と男女の3人で、「死んでるのにいるじゃん」「それも織り込み済みでつきあってたんでしょう」というこの台詞ひとつとっても、舞台上にある「ありえないこと」を具体的に指すおかしさもあれば、かつての夫の死をまだ心に抱えたままの女への「まだ(心に)いるじゃん」「(そういう過去も)織り込み済みで…」という、ドラマとして完全に成立する台詞にも読める。サブテキストとも違う、言葉の多重録音つーか、台詞はひとつなのに意味はいかようにも見えてくるというか、そういう面白さがちりばめられている作劇にちょっと震えちゃいましたね。

女が暗闇に誘われていくシーン、あれこそあの空間でないと感じとれない、繊細さに満ちた場面だったなあとおもう。まさに闇に溶けていく、溶暗という言葉がぴったりなあのトーンを落としていく照明。完全な暗転ではないから、より闇が真の闇に見える。そこから誘う声。そこへ引っ張る手。ああいう瞬間はきっと、どんなひとにもあるんだろう。その瞬間に闇のほうを見てしまう人もいれば、闇に気がつかない人もいるというだけで。でもそんなときに、その闇を照らしてくれるものと、人間はかならずどこかで出会っている。その日食べたカレーが美味しかったとか、そんなこと。この女にとっては、それは光るパンツだった。

息したい。遺棄死体。行きたい、逝きたい、生きたい、遺棄して、息したい。抜けた歯の思い出を海の底に返しながら、女は思い出の帰る縁の灯りを隠す。もう戻ってこないように。

最近続いた悲しいニュースのいくつかを思い出し、あのかすかに揺れながら現れるパンツの灯りを思い出し、こういう灯りをどうにかして消さずに、心の中に持っていられたら、みんなが持っていられたら、と、柄にもなくそんなことを思った。

開演前に前田さんからご挨拶があり、感染症対策として行っていることについて説明があったのがすごくよかった。60席販売されていた(当初の45席を制限緩和で増席)とのことだけど、楽屋の入り口とか、シャッターを半開きにするとか、換気扇とかを駆使して空気の流れを起こしていること、舞台ツラから最前列まで2mの距離があること、役者は基本的にツラで芝居はせず、ツラから1.8mぐらいの距離で芝居をすること等々。脚本は800円で販売していたが、お金のやりとりを最小限にするため200円のお釣りをあらかじめマステで止めて脚本と一緒に渡すなど、まさに「ぬかりなくやります」の言葉通りであった。換気のために音と光が気になったりするかなと思ったけど、まったく支障がなかった。あの闇の冷え冷えとした感触はまさにあの劇空間ならではで、そういう感触に首元まで浸かれたのも観劇の文字通り醍醐味でした。戯曲がとにかく素晴らしいので、ぜひ再演を検討していただいて、もっとたくさんの人がこの舞台を経験できるといいなと思います!

「マティアス&マキシム」

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グザヴィエ・ドラン監督・脚本・主演。ドランの地元であるカナダのケベックを舞台にした作品。幼馴染のマティアスとマキシムは、友人宅のパーティーで、家主の妹の自主映画に強引に出演させられ、そこでキスシーンを演じることになる。

映画を見ているとき、たまらなく苦しくなる感覚があって、自分でもこの苦しさはなんなんだ、どこからきてるんだとむちゃくちゃ戸惑ったんですけど、それはたぶんこの映画がものすごく真摯に、精緻に、青年期にむきだしの他者と向き合っていくという意味での「恋」を描いていて、そして自分はそういったことからくるっと回れ右して生きてきたからなんではないかと思った。なんで回れ右してきたのかというと、しんどいからだ。もちろんそうやってきたことがだめだとか、後悔してるとかそういう話ではない。どんな人生でも現在地点に辿り着いているだけで満点だ。けれど、わたしがかつてそのしんどさから回れ右したことは事実で、この映画はそのしんどさから目をそらしていないということなのだ。自分で自分の行動をコントロールできなくなる、ありたい自分がわからなくなる、自分をさらけだすこわさ、それを否定されるかもしれないことのおそれ。人生における甘美で苦いあの飴を、わたしは欲しいと思わずにここまできたのか、欲しくないふりをしていたのか、そこに目を向けさせる力がこの映画にはあった。

パーティで大人気ないふるまいをして飛び出したマットが、道路の真ん中で立ち尽くすシーンがまさに象徴的で、あそこで「戻れ」とおもう私と、「行ってしまえ」と思う私がいた。戻れと思う自分はこの物語に足を突っ込んでいて、もう半分の私は物語に突っ込み切れずに逃げるマットを見て安心したかったのかもしれない。

予告編で見たシーンや台詞が一部本編ではなかったような気もしたけど、自信ない。マットのスピーチのとことか苦しさで気が遠くなりかけたし(そこまでか)。むちゃくちゃ揺さぶられたんだなー、と1日経ってしみじみ思う。揺さぶられたからいい、揺さぶられなかったらダメ、みたいな尺ではエンタメをはかっていないけれど、しかし「揺さぶられた」という事実は事実である。

スパッと音がするような幕切れで、そこがとてもよかった。あの一瞬でじゅうぶんだし、あの一瞬が彼らがこれからどう変わっても、どこかで彼ら自身を支えるのじゃないかと思う。そうあったらいいなと思う。マットとマックスを取り囲む友人たちのふるまいもすてきでした。様々な「母親」が描かれるなかで、父親の不在感ハンパねーなというのも思いました。マットがあの部屋で、マックスの手の甲にキスをする一瞬の官能は、本当に私を揺さぶりました。良い映画だったと思います。

「TENET テネット」

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クリストファー・ノーラン監督新作!というだけで「待ってました!」感が映画館に満ち溢れる、それだけで相当すごいことですよね。新型コロナウイルス感染症の影響をもろに受けてしまい、公開が延期になったりしながらも全米ならびに世界各地で劇場公開に踏み切ってくださってありがとうございます。エキスポのレーザーIMAXシアターで見てきましたよっと。以下ネタバレしているようなしてないようなですが、もう見に行くと決めている方はご覧になってからお読みになったほうが吉です!

ネタバレ見ないようにしよう…と自分が見るまでTLを薄目で眺めるようにしていたんですが、それでも飛び込んでくるのが「難解」「初見殺し」の文字。いやーこれぜんぜんついてけなかったらどうしよ…と戦々恐々としておりました。そして実際、冒頭から完全に振り落とされた。なぜって、これ物語のセオリーともいうべき因果関係の説明をほぼほぼすっ飛ばしているので「こいつは」「なぜ」「こんなことを?」という要素を画面で起こってることから拾い上げていくしかない。しかもめちゃ断片的。トドメがあのエントロピーの説明で、あの場面のとき「いやなるほどさっぱりわからん」の顔をしていたと思いますわたし。というか、この映画においてそういうセオリー通りのキャラクターの因果が明確に台詞で説明されたキャラクターってたぶんキャットしかいなくて、それなのにそのキャットがいちばん人物として記号的(書き割りつーか)に見えてくるのがおもしろいというか、不思議というか。

そんなこんなで完全に振り落とされてたんですけど、不思議なことにあの「回転ドア」が出てきてから自分の中では俄然物語が飲み込みやすくなり、わかったわかった!わかんないけどわかった!という感覚になったのがむちゃくちゃ快感でした。順目と逆目の反転装置なんだな、と自分の中で言語化できたのがよかったのかもしれない。木目を時間とすると、順目に削れば時間の経過どおり、反転して逆目に削ればその逆で、ぜんぶが反転している。けれどどちらも1倍速でしか進まない。高速道路のシーンはすべての車が一方向に動くので、目で見てわかる順行と逆行という感じ。この間見た「幸せへのまわり道」で「理は言葉にできる。言葉にできることには対処できる」って台詞があって、むちゃくちゃ良い台詞だな!!!って思わずメモったんですけど、言語化するってこういう効果もあるんやなと全然関係ないことを考えました。とはいえ全然わかんないことの方が多いけどね!音は普通に聴けるの?ってのも思ったし、あれは?これは?って考え始めると「わかんないですー!」ってなるんだけどね!

あとはストーリーの理屈はどうあれ、瞬間瞬間ですごい絵面がドコドコ降ってくるので、もうそれを見ているだけでもかなりの物語的快感が得られるというのも大きかった。スタルスク12での「時間の前後での挟み撃ち作戦」とか、いやまじちょっと何言ってるかわかりません、なんだけどそれでも酔えるカタルシスがあります。でもここは逆順が入り乱れているので、この人物の動きは順?逆?と考える間もない、つー感じだったので、そういう意味でももう一回見たい。いや、これまさに物語の順行逆行よろしく、もういちどなぞることで補完できる情報がめっちゃあるんじゃないかって気がする。

主人公に名前が与えられず、劇中で主人公は俺だろ、の台詞が繰り返しあることも含めて、むちゃくちゃ大胆な作劇だし、いやほんとどういう頭でこんなこと思いつくんでしょう…という、最後は監督(と脚本家)への感嘆符のような気持でエンドロールを眺めておりました。ちなみにこのラテン語の回文のことは見終わった後に知ったんですけど、「ハー!」とまさにため息しかでないやつ。
ja.wikipedia.org


それにしても主人公(protagonist)とニールの関係の描き方はなんつーか、どエモいというか、いやもうエモとかを超えた何か…という感じがして、五体投地の気持ちになりましたね。ラストでさらに逆行し、あの鉄の扉の前に戻っていく、ニールにとってはこれが最終地点、ということもですが、どれだけの長い期間の逆行を耐えて彼がこの「最後の作戦」に至ったのか、ということを考えると気が遠くなる思いです。見た人の中ではニールはマックス(キャットの息子)なのではという仮説もあるそうですが、だとするとマックスが育って逆行に送り出せるようになるまで相当かかるし、相当かかるってことはその分逆行しないといけないし、それはちょっと辛すぎねえかー!という気持ちになってしまうのでその説をあまりとりたくないわたし。というか映画で描かれていないことはいないことなので(起きたことは起きたこと)、あとは見た人が好きに解釈すりゃあいいんじゃねえかな!

主演のジョン・デヴィッド・ワシントンもニールのロバート・パティンソンもむちゃくちゃかっこよくて、スパイ映画ならではのアクロバティックな作戦(逆バンジー!)があったりタイムリミットすれすれの脱出作戦があったり、まあ正直このふたりのバディぶりを見るだけでもじゅうぶんにお釣りがきますという感じ。ロバート・パティンソンバットマンすごく楽しみになったってたぶん世界中で言ってると思いますけど私も言います。それからケネス・ブラナーやっぱりむちゃくちゃ芝居がうまい。なんて憎らしい。

いやしかし、まさに映画館で見る甲斐のある作品でした。満足!

「幸せへのまわり道」

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アメリカで放送されていた子供向け長寿番組「Mister Rogers' Neighborhood」の司会者フレッド・ロジャースと、彼を実際に取材したジャーナリストを描いた映画。原作はまさにその記者の書いた記事という、「実話を基にした物語」。監督はマリエル・ヘラー。

原作が「記者から見たフレッド・ロジャース」なので、フレッドを演じるトム・ハンクスが主演というよりは、記者であるロイド・ヴォーゲル自身に焦点があたっています。ロイドは優秀な記者で(冒頭で彼が表彰されるシーンがある)、美しい妻があり、子どもも生まれたばかり。しかしロイドは父親との間に深刻な確執を抱えている。

何かの感情に振り回されそうになったとき、なぜそうなっているかを考える、考えている間はその感情から自由だから、というとある演出家の言葉を私も信条としているわけですが、そういった「なにかに(怒りに)振り回されそうになること」と人間はどうやって向き合うのか、というある意味終わりのない問いを丹念に描いていて、すごくよかったです。本当、これは「男は黙って」みたいなタイプの男性にこそ見て欲しい。特にすごいと思ったのが、ロイドがピッツバーグまでフレッドを追いかけてきて、彼と食事をするシーン。一緒にやってみてくれ、とフレッドは言う(フレッドは絶対に指図をしない。提案する。そして必ず『やってみてくれてありがとう』という)。1分間だけ、何も言わず自分を愛しいつくしんでくれたひとのことを考えてくれ、と。レストランの喧騒が次第に遠ざかり(ここで、まるでレストランの客もそれにならうかのように見えるのむちゃくちゃうまい演出)、映画としてはかなり長い間、おそらく実際に1分間ちかく、無音のままフレッドとロイドの表情だけをカメラがとらえる。このシーンが素晴らしいのは、この沈黙が観客である我々にも投げかけられているということだ。演劇ではたまに使われる手法で、私は「縦方向のボール」とこれを呼んでいるのだが、観客が一緒に体感することで劇中の登場人物に一瞬同化する。あの時間に、観客自身が自分にとっての「自分を愛しいつくしんでくれたひと」のことを思い出さないでいるほうが難しい。だからこそ、あのシーンでロイドが何に解放されたかが、観客には手に取るようにわかる。

そのあとの奥さんとのシーンもよかった。自分の感情と向き合うって本当にしんどい作業だ。そのしんどい作業をいちばん大事な人の前でできるって、本当に勇気がある。奥さんがちゃんとそれを受け止めてくれるのもいい。ラストは大団円に向かっていくんだけど、ヴォーゲル家の団欒に招かれたフレッドが言う台詞がすごくよかった。あまりによすぎて、むちゃくちゃ心を打たれたので、映画館を出てスマホの電源を入れてまずその台詞をメモしてしまった。「われわれは死について話す時気詰まりを感じる。だが死は人間の理だ。理は言葉にできる。言葉にできるものには対処できる」。すごい、こんなに勇気をもらえることばは久しぶりだ。言葉はとくに凶器で、無力なものに感じるが、だが人間は「言葉にできるものには対処できる」のだ。そのことを忘れないでいたい。

かつてあったテレビ番組のフォーマットを使い、ミニチュアのセットやちょっとミュージカル仕立てのような場面があるのも面白かった。トム・ハンクス演じるフレッド・ロジャースは、不思議な間合いの人物で、ずけずけ、というのともまた違う速度でひとの心を掴んでしまう。決して聖人というわけではなく、それが番組収録後の最後のシーンに現れていたりするのも、つまるところ彼の妻が言うように「プラクティス」の結果なのだろう。地下鉄で移動するフレッドに、乗り合わせた乗客が番組のテーマソングを歌いかけ、大合唱になるシーンもすばらしかったです。とても良い映画だったので、ぜひ足を運んでみてください。

2020年8月の劇場(備忘録)

お友達とツイッターでやりとりしてたときに、「感染症対策としてこんなこともしてる、って話を具体的に出してもらう方が安心する、ガイドラインに沿ってます、ってだけじゃガイドラインの解釈がそれぞれすぎてあてにならない」ということを言われてはっとしたんですよね。確かに、いま各劇場でも当然感染症対策をとってて、とはいえ劇場の規模も公演の形態もさまざまである以上対策もさまざまで、実際に足を運んだ観客がどこに安心を感じ、どこに不安を感じたのか、みたいなことを残しておく方がいいのかもな、と思ったので、私が8月に足を運んだ劇場(と作品)についてまとめて書いておきます。思いつくままに書いていますし、いち観客として目にできたものに限られた感想であることを最初にお断りしておきます。

PARCO劇場(公演名:「大地」)

入場時に薬液を浸したマットで足裏の消毒あり。検温と手指消毒(係員が吹きかけてくれる)。看護師の待機もあったようです。トイレにも出口に足裏消毒マット。チケットのもぎりは自分で。客席は一席空けで最前列販売あり。フェイスガードはなし。役者側もフェイスガードなし、客席との間にビニールシートなどの遮蔽物なし。
事前の来場者登録か、劇場ホワイエ掲示のURコードから来場者登録をして、追跡が可能なようにしてました。客席のマスク着用率は100%(マスクしてないとそもそも入場できないので、これは当たり前ですが、中で外している人も見かけませんでした)。公演時間2時間強のところ、長めに25分の休憩時間があり、第1幕第2幕いずれも1時間強の長さ。休憩時間には扉を全開放。新しいパルコはホワイエの奥は屋外に通じているので、換気という面では安心感がありました。劇場スタッフは全員フェイスガード着用、ロビーならびに客席での会話を控えるよう常時アナウンスあり。

東京芸術劇場シアターイースト(公演名:「赤鬼」)

四方囲みのフラットな舞台で、全面にビニールシート。床までではなく、床上10センチくらいだったか。自由席。いちど座った席を変えないようにとの注意あり。客席は1席空けというより、椅子同士の間隔を開けている、という設置。両サイドは2列の設定で、そこは通路が狭そうだった。休憩時間はなく、上演時間は約90分。
入場時の検温をやったかどうかの記憶がちょっとない。当日券で見たので、当日券販売時か整理番号受領時に手首で非接触検温をされた気がする。当日券販売は当日整理番号をもらい、その中から完全抽選、当選番号発表はwebでも見られる(掲示もする)というスタイル。マスク着用率は100%。会話をお控えください、のアナウンスはあったが、あまり効果がなさそうだった(私が見た中で開演前の客同士の会話が最も多かったのはこの公演でした)。

歌舞伎座(公演名:「八月花形歌舞伎」)

各部を約1時間前後の作品にした4部制。1~4部それぞれで出演者・スタッフをかぶらないように振り分け、感染者が出ても他の部の公演が続けられるようにという徹底した体制。聞くところによれば役者のアンダーも決めていたようです。そこはさすが歌舞伎の強みが出たというところ。役者さんのブログなどから、同じ部に出ていても楽屋挨拶もなく、舞台上で顔を合わせるだけ…といったテイであったらしい。入場時に検温、手指消毒、チケットもぎり(自分で)。筋書の販売はなく、無料冊子を配布(置きチラシをとっていくスタイル)。客席は1席飛ばしで、空席に布が巻かれていた。通常、開演前にスタッフが携帯電話の電源オフなどの注意事項を口頭で言うが、ボードを掲げ、スタッフは無言、アナウンスのみ、しかしこの方が逆にひとの注意を惹いているのでは?という感じ(いつも客席をスタッフが回っていても、聴いていない人多数)。アナウンス内でCOCOAのDLについても案内あり。イヤホンガイドの貸し出しは中止。開場時間はいつもより早め。

サンケイホールブリーゼ(公演名:「三谷幸喜ショーガール」「大地」)

入場時にCOCOAの「陽性者との接触なし」の画面と、大阪府コロナ追跡システムへの登録と、チケット券面裏への氏名・電話番号の記載を確認される。推奨ではなく、この3点が揃わないと入れない。そのうえで検温と手指消毒、自分でチケットをもぎってようやく中へ。ショーガールのときは、同じフロアの小ホールを客の誘導に使い、そこでアプリのDLなどをさせていた。客席は一席飛ばしの販売。劇場が7階にあり、また劇場内にもエレベーターがあるが、使用は非推奨になっていて、具体的に歩行が困難な方などをスタッフが案内して乗せるなど限定されていた。普通に歩いて上がれるひとは乗れない(スタッフに止められる)。トイレの出口の前にスタッフがいて、アルコール消毒を必ずやる仕組み。休憩時間には扉は全開放。ロビーの飲食販売はなし。ロビーならびに客席での会話を控えるようアナウンスが常時あり。

個人的な感想など

2月以来の劇場になったわけですが、ひとつ思ったことは、この新型コロナウイルス感染症によるエンタメへの影響が出始めた当初、ライヴハウスクラスターが…という話が大きく取り上げられていた頃でもありますが、一部の演劇関係者が、ぎゅうぎゅうのスタンディングで、皆が大きな声を出すライヴはともかく、芝居は(客は)喋らないし、それほど飛沫感染のおそれがないのではないか…みたいなことを言っていた記憶があるんですけど、いや…そんなことねーな!?演劇、めっちゃ飛沫飛ぶな!?というのが6か月ぶりの劇場で思ったことでした。

特に、芸劇の「赤鬼」はキャストが多く、舞台が狭く(いや普段よりは広いが、キャストが密集しがち)、しかもガンガンに声を張る、いっぺんに喋る、という状態であったため、これはビニールシートの設置めちゃ正解だなと思いました。私は在宅勤務ができない職種なので、緊急事態宣言下であるか否かを問わず、ずーっと公共交通機関で通勤し、今もそれが続いていて、かつ職場でもまあまあ人と接触するので、ほかの人よりはコロナに対し鈍感に生きている自覚がありますが、それでもこの「いっぺんに至近距離で喋られる」というものへの抵抗は少なからずあるなと。

あと、できれば自由席というのも今は避けたいなと思ったところ。この演目がいちばん「客席での開演前のおしゃべり」が多かったのは、並んで観る連れ同士が、間隔は空いていても遮蔽物がない(1席空けている、という目に見えるものがない)ので、ついつい声をかけてしまう、かつ距離があるのでまあまあのボリュームが出る、ということになっているのでは?と。座らせなくても空席がある方が客席に「喋らない」というプレッシャーを与えるのは効果があるのかもしれないです。

空席の効果という意味では、歌舞伎座の座席に布を巻いて物理的に使用できないようにする、というのはよかったです。というのは、ブリーゼでも「使用できないよ」の張り紙はしてあったのですが、それを無視して「いいよね」と隣に座る連れ同士がいたのを現認してしまったので(係員に指導されてましたが)。

歌舞伎座はそこまで舞台ツラに出るわけではないので気になりませんでしたが、そこの距離が狭い劇場は最前列の販売はちょっと要検討なのかもなというのも思いました。ふつうに台詞言ってても、めっちゃ飛沫飛びますもんね(ライトに当たって見えるほど)。歌舞伎座が花脇を売ってないのも納得。

入場時のアルコール消毒とチケットを客自身にもぎらせる、というのはスタンダード化してるところありますが、これ客としてはいつも手順がおぼつかなくてあたふたする。できればアルコール消毒をして、手が乾いたタイミングでチケットを出し…といきたいところですが、入場時の列にならぶときは「チケットはお手元に」なので、そのお手元にある状態でどう手指消毒を受ければ一番スムーズなのか?要検討です。首から下げるストラップみたいなやつでもつけようかしら(そこまでか)。

換気の面では、1時間強で外に出られる歌舞伎座、外気にふれられるパルコに特に安心感がありました。それで思いましたけど、長い芝居への抵抗もちょっとあるよなと。せめて1時間ちょいで休憩、さらに1時間、ぐらいでどうにかまとめてほしい。第1幕だけで1時間45分とか言われると(コヤの広さにもよりますが)ちょっと今二の足を踏むかもしれない。

今回は個人的には東京への遠征で、まさに県をまたぐ不要不急の外出ど真ん中ではあったんですけど、いろいろ考えたうえで最終的に行くことを決めました。行くことを決めたからにはやれることは全部やらないかん、と1週間前からCOCOAのダウンロード、毎朝の検温を欠かさずやるようにし、ホテルは劇場のすぐ裏手にとって劇場とホテルの往復しかしない態勢をとりました。それで帰ってきたら全身丸洗いして洋服も全部着替えて次。荷物は小さくして常に膝の上におけるように、外食は基本的にしない、する場合でも一定の距離が確実に取れる店に限る、などなど。しかし、もともとひとりで遠征するのが常なので、誰にも会わず喋らず劇場とホテルの往復…通常営業やん!とも思いましたね。私は酒も飲まないので外食しないのまったく苦にならないし。

とりあえず、今のところ最後の観劇から2週間が経過したので、劇場での感染(するのもさせるのも)は回避できたのかなというところですが、大事なのはこれが結局のところ運にすぎないってことを忘れないことかなと。万事手を尽くしても、感染するときはする。あと、エンタメのためとか、劇場に足を運んで買い支えてあげたいとか、そういう大義名分はなしでいこうや、というのも「行く」と決めた時に思いました。100%自分の欲のためだけに行く、そこから目をそらすなよ、という気持ち。

客席の50%制限が取れる時がまたひとつの分岐点になりそうですが、しばらくは自分の体調、同居家族、仕事、もろもろのリスクと顔を突き合わせつつ、自分で決めていくしかなくて、決めた以上それにともなう責任ある行動を取れよということが続くんだろうなと思います。でも客側がそういうことをちゃんと考えるのそれほど悪いことばっかりでもないと思う。「興行」として成立するラインまでキャパが増える、客足が伸びる、までにはまだ時間がかかるかもしれないけど、責任ある行動を取れという部分はそれこそ「喉元過ぎれば熱さを忘れる」にならないようにしたいと思っています。

「ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー」

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高校は勉学と自己研鑽の場であって、それに邁進するのみである、それを蔑んで笑う者たちはいつか自分の足元にひれ伏すのだ…と信じていた女子高生が、卒業前夜にその価値観をひっくり返されたらいったいどうするのか?邦題のとおり、「卒業前夜のパーティデビュー」を描いた作品です。監督はオリヴィア・ワイルド

むちゃくちゃ個人的な話で恐縮ですけど、ってこれ私の感想だからすべてが個人的な話に決まっているのだが、モリーがトイレの中で自分の陰口をたたいているクラスメイトと居合わせて、そこで「せいぜい<サービス>してなさい、私はイェールに進学して勝ち組人生を送るのよ」みたいな啖呵をきるところ、正直むちゃくちゃ冷や汗が出ました。そこで彼ら彼女らもそれぞれアイビーリーグへの進学を決めていて、決めていない子は一流企業への就職を決めていて、返す刀で一刀両断にされるところ、倍掛けで冷や汗が出ました。「自分はあんなバカどもとはちがう」という傲慢さ、その傲慢さの根拠のなさ…腕に覚えありじゃなくて身に覚えありすぎた。私もねー!そういう高校生だった。本当に恥ずかしくて顔から火が出るかとおもった、あのシーン。ちょっと人よりたくさん本を読んでいるというだけの普通極まりない女子高生だったのに、ミーと息を吸いハーと息を吐く彼ら彼女らをバカにしていた。バカにしていたから友だちもできなかった!いやー!自分で書いてて耐えられない。

モリー(とエイミー)は自分のその価値観を、この卒業前の不思議な一夜でさまざまなひと、ものと照らし合わせるわけだけれど、この映画の脚本って、むちゃくちゃ狭い世界を描いているようでいて一種のロードムービーですよね。目的のパーティ会場になかなかたどりつかず、そこで出会う人に影響されていくのが面白い。そしてこの時代において枯渇して立ち往生するのはお金ではなくてスマホの充電なのだった!リアル!

羽目を外すとか箍が外れるとか言うけれど、私は自分自身の経験からこれらを「バカになる」と表現してて、それは「他者からどう見られているか」ということを放り投げて、自意識を放り投げてふるまえるか、ってことでもあるんだけど、モリーとエイミーにとってはまさに「バカになる」一夜だったんだなと思う。自意識を放り投げて他者と向かい合えば傷つくに決まってるんだけど、それを超えてなお手を取るからこそ最後のシーンが爽快なんだよね。

モリーとエイミーが自分たちをアゲてアゲて承認しあっていくのがよかった。その中で自分たちを「多面体だ」といっていたけれど、どんなひともそうなんだよね。多面体でない人間なんていない。モリーのあの最後のスピーチはそれを心から「わかった」ひとの言葉だから胸を打つのだ。自分と違う考え方の人間と、相容れないのは仕方ない、でも違うからって相手を「ものをわかってない」と断じることの危険さよ。やってますよね、SNSでも。わたしも、あなたも、やってるんじゃないか?自分は違う?本当にそう?

しかしそれにしても、アメリカ映画における「スピーチ」の重要性たるや…だし、あの「大人の居ぬ間に羽目を外す高校生のパーティー」、よく出てくるけど、出てくるたびにスケールが違いすぎて驚くし、アメリカで高校生やるのも大変だ…としみじみ思いました。

これは完全に蛇足だけれど、私の暗黒高校時代に終止符を打つきっかけになったのは、高校2年生のときに出会った第三舞台への熱狂だったわけです。世界は広く、自分は小さく、この世は知らないことだらけ。そう、エンタテイメントは人生を変えます、まったくのところ。

「三谷幸喜のショーガール(Social Distancing Version)」

土曜日の朝、例によってベッドの中でうだうだしていたら、ツイッターのTLにブリーゼで今日「大地」2公演のあと「ショーガール」を公演する、とあって、あ~今日からなのか…って調べたら土日のみの公演で、さらにチケット見てみたら当日引換券が売っていた…というわけでその場でポチり、急遽日曜日に出かけてきました。本人の体調との折り合いなどなど、「出かける」ためにクリアしないといけない要件が多い中、今後はこうした「直前に決めて見られる」ことが多くなってくるかもしれないな。

劇場の中に入ってまず「うおっ」っと思ったのが、「大地」のセットをそのまんま、本当に、そのまんま(ベッドも!)流用してることでした。演劇ってすごいね!独裁主義者下での強制収容所を現していたものが、設定と照明と役者の芝居で高級ホテルの一室になにもしなくても見えてくるこの楽しさ!演劇とは見立ての芸術、まさに!といったところ。

第一部は「告白」がテーマのお芝居+歌。開演前に演者同士が接近しすぎないよう「ソーシャルディスタンス」をネタに一曲歌う余裕もあったりして。芸達者なおふたりだし、まったく立場の違う二人が会話しながら一本のストーリーを編んでいく…っていうのも、これ三谷さんお得意のシチュエーションだし、かと思えばかなりビターに終わったのでわっ、そうなの?と思ったり、意外性もあり楽しかったです。

第二部はシルビア・グラブさんと川平慈英さんがこれでもか!と「告白」をテーマにスタンダードナンバーを歌いまくるショータイム!いっやーーー楽しかった!!!音楽の!!力!!!といつもよりエクスクラメーションマーク多めでお送りしちゃうほどに楽しかった。音楽の高揚感ってやっぱりどこか特別のものがありますね。シルビアさんがエアギターをかき鳴らすWALK THIS WAY最高だったな。歌い継がれるナンバーの力強さにも改めて感じ入りました。あとこの流れでいけば絶対やってくれる気がする…!と思った「君の瞳に恋してる」!この曲の多幸感すごい。興奮で胸がつまるなんて本当に久しぶりの感覚だった。

ラストナンバー、おふたりがこの曲だけ手を取って(それまでお互いが2メートル以内に近づくと警報が鳴るというネタが仕込まれている。それでも近づきたいときはアクリル板が登場するという念の入れよう)踊るのも、たったそれだけのことなのに心が沸き立つ感じがあった。そのあとふたりで向かい合ってアルコール消毒をし合うのも、時流取り込むやん~~!感すごかった。ここに来れば憂さも晴れる、それが劇場、それが希望…。そして電光掲示板に映し出される「NO STAGE , NO LIFE」の文字。音楽で心が解放されてたってのも相俟って、ほんと涙が噴き出ました。

わたしの観た回が大千秋楽ということで、本当にお疲れ様でしたと言いたいです。たいへんな状況の中、大阪公演を敢行してくださってありがとう…。観に行ってよかった。

それにしても、三谷さんはタフだな。状況が変われば、その状況に合わせて書き直す。何度でも書き直す。かつて連続テレビドラマの脚本で体験した各方面からの横槍を「ラヂオの時間」という名作舞台に昇華させただけのことはあります。いつも仰ってますもんね、障害があればあるほど、制約があればあるほど燃えるたちだって。このタフさ、強靭さは三谷さんが柔軟だからこその強さで、本当に「笑の大学」の椿そのものじゃないかと思ったり。作品は直す、演出もし直す、脚本にも手を入れる。そこはいくらでも譲る。それができるのは、三谷さんが「役者がいて劇場があって台本があれば、そしてそこに観客がいれば、幕を開け続ける」って信念があって、だからこそできることなんだろうと思います。

一席飛ばしの客席は、観る側としては確かに快適なのは否定しない。でもこの日はいっぱいの客席で迎えてあげたかった、満場の拍手で讃えてあげたかったなって心から思ったし、そういう日が1日でも早く戻ってくることを祈らずにはいられませんでした。