客席の自分

ものすごく突然にどうでもいいことなのだけれど、自分が鴻上尚史(と第三舞台)の影響を抜きがたく受けているなあと些細なことで実感することがある。私はどんなでかい劇場のどんな遠い席でもぜったいにオペラグラスを使わないが、それは鴻上さんが「オペラグラスで見る芝居なんて、もう芝居じゃない気がして」と言ったことが根っこにあるんだろう。「第三舞台の本」で「何回も同じ芝居を観る人のことを悲しく思う」と書かれてたからなのか、私はいまだに「同じ芝居を複数回観る」ことに若干の抵抗と恥ずかしさがある。別にいーじゃないか、好きなんだもんと思うのだが、なんとなく「2回までなら見てもヨシ」みたいな勝手なルールがあって、3回以上見るのはこっそり、みたいな、そんなこともありました。今はだんだん開き直ってきつつあり、これから心の底から好きになれる芝居なんて、人生で何本当たるかわかんないもんね!とばかりにリピートに臆面なくなってきつつもありますが、それでも言葉の呪縛というのはおそろしいものだと思います。

なんていうか、私は鴻上さんに「客として仕込まれた」んだなあとしみじみと思う。

先日行われた「お父さんの恋」の東京公演で、カーテンコールの際横断幕(プラカード?)を出した人が居たらしい。私はえんぺの1行レビューでそれを知ったのだけど、知ったときは正直、引きました。でもちょっと考えてみたんです、なぜ横断幕はダメなのか?もちろん、それを高々と掲げて後方席のひとの視界を遮るとか、隣のひとに迷惑かけるとか、そういうのはルール違反だとしても、たとえば自分の胸の前でちょこんと持ってる分には構わないんじゃないか?迷惑にならないならいいんではないか?芝居の最中ならともかく、カーテンコールなのだし。
でも、いやなんですよねえ、やっぱり。他の人の迷惑になってなくても、そういうのは嫌だなあって思う自分が居るわけで。
で、ここがまた鴻上尚史の呪縛なんだなあと思うんだけど、客は客として格好良くあれ、みたいな気持ちが自分の中にあるんだと思う。自分が関係者でも友人でもなく「客」として客席にあるときだけ、舞台と私は一対一、イーブンな関係だというような思い込みっつーか。プラカードを出したり、うちわを持ってきたり、「○○さーーん!」と叫んだりする行為*1は、自分が「客」から「一個人」に抜け出そうとする行為に見えてしまうんですよね。でもって、それは私にとってはどうにも「カッコワルイ」ことに見えて仕方がない。

ま、そんなのおめーの知ったこっちゃねえよ、と言われるかもしれないけれどね。

*1:ライブではそれは気にならないあたりも、鴻上尚史の呪縛なのかも