「アジアの女」

震災に遭ったあとの東京が舞台。物資は困窮し、体制は崩壊し、「震災」と銘打ってはいるもののそのシュチュエーションはまるっきり「戦後」といった方が相応しい、といったような空気が漂っています。

「何かを圧倒的に失う」という点で、戦争と天災というのは似通うところもあるでしょうが、長塚さんは「震災」に寄せて書いていないような気がしました。なんで震災なのか、ということより、なんで「戦後」にしなかったのか、というのはちょっと気になります。

もうひとつ気になった点。あの新しくできた「恋人」のことを語る麻希子は果たして「よくなっている」のでしょうか。ステージサイドの席に座ったので、あの場面で富田さんの表情を全く見ていないのですが、かつて「誰かに思い入れ過ぎる」と語った麻希子がその男性のことを語る口調が、まさに「思い入れ過ぎて」しまっているように思え、またそこで語られる「先生」の理想というものが、これまた非常に薄っぺらくしか聞こえてこない。麻希子のフィルターが余計そうさせてしまっているような印象を受けます。だってぜんぜん、自分の言葉で喋ってないじゃないですか、あのシーンでの彼女は。展開的に言っても(その後晃朗が地下への穴を塞いでしまうところからも)麻希子は「再生」したと読むべきなのでしょうが、どうもそういう風には見ることが出来なかったんだよなあ。

先生や麻希子の語るあまりにも美しい「民族の協調」というもの、そしてなんだか本当にいきなりな感じの否めない「アジア」というタイトル。ここは非常に引っかかってしまったところでした。

結局は麻希子は撃たれて死に、美しい言葉で語られた理想は死ぬわけですけども、千や万の言葉よりも、麻希子が水をあげ続けたあの菜園だけが、現実と闘い、喪失に対して勝ちうる唯一の手段であると私は思います。そういった強さだけが、何かを越えることが出来るんだろうと思う。だから、ラストに向けての展開には非常に納得がいってるのですけれども。

物語をもたない作家が、最初で最後の「物語」を生み出していくシーンはすばらしかった。

役者さん、皆好演でした。岩松さんの存在感はすごい。峯村リエさんいつもながらにお見事。ハズレないな〜この人って。近藤さん、富田さんの誠実な演技も印象的。

見終わったあと、ふと吉本ばななの「キッチン」という小説の中の一節を思い出した。


本当にひとり立ちしたい人は、なにかを育てるといいのよね。子供とかさ、鉢植えとかね。そうすると、自分の限界がわかるのよ。そこからがはじまりなのよ。