「エネミイ」

前々日にtwitterで鴻上さんが「名作」とツイートされているのを見てざわざわと煽られてしまい、その5分後にもうチケット取ってました。たまたま土曜のマチネのスケジュールが空いていたのです。こういう動きだけは速い。
以下ネタバレです。バレは見たくないけどという方、とにかく全力でおすすめします。是非劇場に足を運んでください。

平凡な・・・とはちょっと言い難い、かなりハイソな、と思える家庭が舞台。テレビゲームに夢中の弟、婚活に余念のない姉、そして両親。そこに突然40年前の「革命の季節」が違う顔をして入り込んでくる。

あらすじを読んだときに、鴻上さんがこの作品を賞賛したのは、この革命の季節を描いていることと無関係ではないだろうと思いました。鴻上さんは自分でも何度も、「あの季節」を演劇でとらえ直す、という試みをやってきた人だったからです。でも見終わって思いました。それだけではなかった、いやむしろ、それはまったく関係なかったのかもしれないと。

父親の「同志」だったと名乗る男ふたり。40年ぶりの再会を約束してきた、という彼らは慇懃無礼に、もしくは傍若無人に振る舞い、「その家の事情」というやつにまさに土足で踏み込んでいるようにみえる。そして土足で踏み込まれていくことで、彼らの家族の「事情」というやつがみえてくる。

ここまでは、言ってはなんだが、そんなに珍しい筋書きだとは思わない。異物が混じり合うことによって起こる化学反応を描く、そんな戯曲はいくらでもあるだろう。かつての革命家だった彼らが今は農家をやっている、そこにある真の姿とはなんなのか、40年前に再会を約束したという父親と彼らの関係はどうなのか、かつて「同志」だった父親が袂を分かったあと、何をしてここまで上り詰めたのか、そういったエピソードももちろん重要なものには違いない。けれど、私の心を強く打ったのは、そういった「革命の季節」を語る彼らの言葉ではなかった。

弟の玲二は、今はコンビニのアルバイトをしながら、ネットゲームに興じている。彼には友人がいて、その友人を介してネットゲームで得たアイテムを現金に換えている。物語が進むにつれて、彼はかつて勤めていた会社からクビになったことがわかる。彼は今31歳だ。大人達が、どんなに煽っても、きみに足りないものはこれこれだ、と突きつけても、一種嘲りとも思える言葉を投げられても、かれは何も言わない。怒ることもしない。ただ、「はあ、まあ」「そうですか」「そうですね」「どうだろう」と受容とも拒絶ともとれる言葉を繰り返すだけだ。それは典型的な「イマドキの若者」の姿に見える。やる気がない。覇気がない。夢がない。かれはただいつも「コンビニのシフトを作らなきゃ」という。そして黄色いファイルから、なんだかわからない紙を出して、いつもそれを眺めている。

だが、物語のクライマックス、ここまで常にボールを受けっぱなしだった玲二が、いや、受けてすらいない、ただ避けていただけかもしれない、その彼が、たった一度だけボールを投げる。渾身のボールを。それがどんな言葉だったかは、ここでは書くまい。ただ、「何かを成す」というのはこういうことをいうのだと私は思う。世界を変えることではなく、瀟洒な家を建てることではなく、何かと闘うということはこういうことなんだと私は思った。すばらしいシーンだった。すばらしい言葉だった。

その玲二役をやったのは高橋一生くんだが、彼は芝居のなかで99パーセント、ずっとボールを受け続けなければならない。感情をプールしてプールして、あの一瞬に繋げなければならない。それが唐突なものに見えてしまったら、それでこの芝居の根っこは崩れてしまうだろう。彼はそれをやりとげていた。まったくもって見事だった。役者の仕事、というものを見させてもらったな、と思う。

「そのままじゃだめだ」「このままじゃだめだ」そんなふうに思ったり、言ったり、言われたりすることが、誰にでもあるだろう。そういうひとにこそ見て欲しい。演劇の持つ力を、どうか体感してみてほしいと心から思う。