「て」ハイバイ

09年の再演の際に一度拝見しました。思えば初ハイバイでしたね。そのときも当日券で見たので、どこかで評判を聞きつけて足を運んだのだと思います。今回座席に座ってから、そういえば前も同じようなとこに座っちゃった、と客席から見える景色に見覚えがあったりしつつ。でも以前は180度のセット転回はなかったんじゃないかな。あれすごく効果的だった。

家族ってものはどんな人にとってもどこかやっかいなものだ、というのはある種の真実だと思うのだけど、たとえばそのやっかいさにレベルがあるとしたら、私の「家族」はきわめてその数値が低いんじゃないかなあと思います。おそろしく平凡でありきたりです。いつもお日さま家族とかいったらばかっぽく聞こえますけど、でもそんな感じです。ケンカがないわけではないし、家族ならではの困ったエピソードもないわけではないけど、でもたぶん、めちゃくちゃ平凡。

でもじゃあ平凡ってなんなのさとも思うわけです。家族ならではの困ったエピがないわけではないと書いたけど、それはでもまあ、今となっては笑える話だよと私は思っている。でもそれは、赤の他人から見たら「おいおい笑えるとかうそだろ」ってことでもあるかもしれない。それはわかんない。だって私は自分の家族を内側からしか見られないもの。

「て」で描かれる家族に多くの人が共振するのは、「世間にはそんなに不幸な家が多いから」*1でもなんでもなく、内側から見た家族を描いているからなのかなあと思った。そして内側から見た家族は、どんな家族であれ、その風景はもしかしたらさほど違わないのかもしれない。

しかし、2回目に見てもあの最初の長男と次男がおばあちゃんの家で一触即発になるところがこわい。ああいう会話の空気というか圧というか、まだ爆発してケンカになってくれたほうがまだしもだ!と逃げ出したい気持ちになります。あと、お母さんがあの日クラス会に行けるかもしれなかった、っていう設定をころっと忘れていて、お母さん側からの視点でそれが語られたときなんかもう切なすぎて身悶えた。そこからのリバーサイドホテルだもの。クラス会の話のあとだからこそ、「あり得たかもしれない光景」「あってほしいと願っている光景」のように見えて胸に迫るものがありました。

しかし、今回はなんつーか次男と次女の無邪気さにもイラッとくる自分がいたのは驚きでした。実はアフタートークで、「次女があそこまで歌を拒否する理由がわからない」という質問が出て、岩井さんが「こういう視点の質問は初めて」と仰ったんですよね*2。やっぱり長女の善意モンスターぶりの方に目が行くというか。「歌い手を殺す空気ができてるんだよ!」は余りにも名台詞だし大笑いしちゃうのですが、もはや私はあそこで「歌わない」ことを貫くことにシンパシーを感じられなくなってるのだなあとも思ったのです。

前半と後半で視点が入れ替わりますが、小さなことだけどすごい効果を生んでるよなあと思うのがお母さんが鳥の糞を拭く紙。前半で次男は「もっとちゃんとしたので拭いたら」と言う。その時点では観客も「うんうんそうだよ」と思ってる。でもその前に長男が「これで拭いたら、おばあちゃんの食事のやつだけど」と言っていると知るだけでその「ちゃんとしたの」という言葉がひどく無神経なもののように聞こえてくる。あの転換点ほんとスゴイ。

そして事実はひとつではないというか、人の数だけ事実ってあるんだなあとも。お母さんには教会に行く前から泣いている長男が見え、兄弟にはそうは見えない。でもどっちが間違ってるとかじゃないんですよね。

最後にたどたどしく賛美歌を歌う声が次第にひとつになってささやき声のように暗闇から聞こえる演出、とても好きでした。

*1:アフタートークで岩井さんが「すごく個人的なものを書いてしまったので不安だったけど思いの外好評で、なんでしょうね、世間にはそんなに不幸な家が多いのでしょうか」と冗談めかして仰ったのです

*2:ちなみに岩井さんは「これも実話なんで」と前置きのあと「やっぱりバンドやってるからこういうところではちょっと、的なことですかね」と仰ってました