「ストリッパー物語」

三浦さん×つかさん、という組み合わせの妙に惹かれて見てきました。いやーなんだか不思議な体験だった!終演後同じ回を見た観劇仲間の方と帰り道アツく語り合ってしまった(笑)

芝居の前半は、というか冒頭のでんでんさんの(ストリップ小屋の座長の)口上から、台詞はまんまつかさんなので、それが「つか節」でないことがすごい違和感でもう脳内での「つか芝居変換」が激しかったんですよね。特にここぞ、という長台詞、つかさんだったらもう熱量熱量、テンションテンションで来るだろうと思うあの畳み掛けを実に淡々と語られるとやっぱり頭の中で正解を求めてしまう感じがどうしてもありました。台詞も聞き取りにくい場面もあり、これで最後まで自分の集中力が保つのかなあと不安になったりも。

しかし二幕になってから俄然よくなったというか、あの冒頭の同時多発会話の見せ方はさすがだったし、どこで自分の頭が切り替わったのかはわからないんですけど、いつしかそのかつてのつかさん調に変換しなくなって見ている自分がいました。

そしてシゲさんの娘が訪れる場面。あそこで逃げ出すシゲさんのリアリティと、そこに残される明美と美智子のふたり。16歳の少女はそこでおそらく誰にも語ることのなかった夢を語る。2人が「踊り」を通じて束の間の連帯感を分かち合うシーンの美しさったらない。けれどそのあと、その踊りに誘われ美智子が自由に踊り出す。その瞬間、世界が彼女のものになる。

長いこと芝居を観ていれば、何度かこういう瞬間に立ち会います。つまり台詞だとか物語だとかを超えて、その役者の存在感がすべてを説得する瞬間を。終演後、当日もらったキャストの書かれた紙を真っ先に私は見ました、その女優の名前を知りたくて。本当に彼女はきらめいていた。そのあとの人生で、明美がすべてを賭けてしまう、彼女が喪ってしまったピュアネスが、かつてそうであったかもしれない自分への夢が、そしてもしかしたら持てたかもしれなかった娘への思いが、彼女に傾けられるのもしょうがない、と思わせてしまう力がそのシーンにはありました。門脇麦。この名前、覚えておくぜ。

つかさんの芝居を観たときに感じるあのなんともいえない高揚、わけのわからない興奮、そういうものがあったかといえばなかったです。でもなんか、蕎麦を食べに入ったのにまったく違うモノが出てきて、戸惑うけど食べてみたら結構これもいける、そういう感覚っていうんでしょうか。いや正直後半ちょっと涙ぐんでしまった私ですよ。あのつかさんの、極端とも言える、ことによってはどぎついだけとも聞こえる台詞を、あの熱量で浴びせられる以外の手法でもこれだけ心動かされるんだなー。ほんと新発見でした。またメインで「ケセラセラ」を使ってくるあたりのツボを心得た感じね!いやーよかったです。これはほんと若い世代だからこそだと思うので、こういうトライアルをもっと見てみたいなという気持ちにさせられました。