「the fighting men's chronicle エレファントカシマシ 劇場版」

エレカシの映画見てきました。ってもう一週間も前だった。1日限定のところと3日(4日?)限定のところとありましたけど、いずれにしても名古屋はチケットもはききっていて文字通り満席の映画館でした。

デビュー25周年のドキュメンタリ映画ということで、過去の(本当に初期の、もう映像がよれよれになっているようなやつ)ライブの映像やエレカシ愛する人たちのコメントを軸にしたパートと、宮本の耳の病気が発症したあとの昨年の野音から、復帰にむけてリハーサルを重ねる「今」のエレファントカシマシが軸になったパートが交錯するような構成。

ライブの映像のなかで印象的だったのは、レコード会社をクビになり事務所も解散し、状況的には言ってみればどん底にあったときのシェルターでのライブ。あれが初披露だったのでしょうか、それまでのフレンドリーさなんて欠片もない佇まいとのギャップもさりながら、そこで演奏していた生まれたての「悲しみの果て」。なんというか、曲自体が生き物のように感じられたなあ。

横山健さん、BRAHMANTOSHI-LOWさん、スピッツ草野マサムネさん、新井英樹さん、大根仁さん、マキタスポーツさん…などなど、たくさんの人がコメントを寄せて下さっていて、しかもそれぞれの「エレカシ」が揃いも揃ってアツい!本当に最初期のころからライブにかよっていた、という方が殆どということもあって、ココロのメモ帳に全部メモりきれてないのが残念無念です…。横山健さんの「ブルーハーツに希望をもらって、エレカシに絞め殺された」とか、大根さんの「ある時期までエレファントカシマシはボクの友人だった。他人じゃなかった。1人のファンとして向かい合うことができるまでにずいぶん時間がかかった」とかマサムネくんの「エレカシは日本のロックです、じゃなくて、日本のロックはエレカシです、と言いたくなるぐらい」とか、名言連発でした。TOSHI-LOWさんのコメントとかほんとすげーよかった。みんながそれぞれの青年のイノセンスを宮本やエレカシに重ね合わせていたというのがとてもよくわかる。

横山健さんが最後に、「これからもずっと悩んで、苦しんで…その姿をぼくたちに見せてもらいたいですね」といった時、ひとつひとつの言葉を噛みしめるように仰ってたのがすごく印象的でした。

エレファントカシマシ」のドキュメンタリなので、成ちゃんや石くんやトミのインタビューももちろんあり(でもほんとに口数少ない!)、4人で野音を訪れている風景とかもよかったなあ。宮本の耳の病気のことももちろん話には出てきて、去年野音でやったことで症状が悪化してしまったとか、専用のイヤモニをつけてのリハーサルとか、どきっとすることも沢山あったのだけど、しかしそれ以上に宮本があまりにも宮本で、その安心感の方が勝ったような気がします。ドラムの音は絞れないからと気にするトミに胸がきゅっとなったりするんだけど、対して宮本はあっけらかんとハイハットの音がまったく聞こえなくなって、それは結構ショックだったなー、今はもう慣れましたけど!と言い放つ。慣れた、ってことはまだ聞こえないってことなのか。また胸がきゅっとなる。でも宮本はやっぱり宮本なのだった。あまりにも。それがなによりすげえと思ったことだし、安心したことだったかもしれません。

それでここから先は映画に関係あるようなないような話です。こうやってこのバンドのリハーサルを見ていると、やっぱり不思議に思わないではいられないところがありました。それはものすごく簡単に言ってしまうと、どうしてこの宮本の強権発動をほかの3人は耐えていられるのだろうか、ということです。ってこういうことを書くと熱心なファンの方にそれがバンドとしての在り方だとか4人の絆だとか言われてしまうかもしれませんが、でも私はどこかで不思議だった。別に宮本が間違ってると言っているわけではありません。あれでうまくいっているのだから、あれが正解なんだろうと思う。でも、じゃあ、なぜ?

映画の中でも横山健さんが「僕が5人目のエレカシのメンバーとして加入してあんな風に言われたとしたら、1日でやめると思う」と冗談交じりに言っていたり、THE BACK HORNの山田くんと菅波くんも、あの風景もバンドの良さであるとしつつ「でもドラムセット蹴らなくてもいいよね」とこれも冗談交じりに優しく言ったのも別に特殊な感想ではなくて、そういうふうに思う人って結構いるんじゃないでしょうか。作詞も作曲も宮本がやっているから?いやいや、そんなバンド星の数ほどありますって。

しかし映画を見ていると、他の3人には「自分たちが我慢してる、耐えている」なんて感覚がないのがとてもよくわかります。宮本はリハでまさにあっけらかんと言い募ります。練習しなよ。練習してこいつったらしてくるもんだろ?あんたのベース兎の糞かと思ったよ。あーもーめんどくせえな。自分でやった方がカンタンなんじゃないか。そんなドラムで俺に歌えっつーの?ほんっと、おまえらの方がリハビリだよな。それを、カメラが入ってるからよりエキサイトしてるのではと気遣う監督に、成ちゃんはこれまたあっけらかんと、いやいつもあんなもんですよ。なんでもないことのように返す。トミは宮本は上手く叩いてとは一度も言わないという。宮本の言っていることが間違ってるとは思わないと。

間違ってないとしても、あんないい方されたら嫌にならないのかなあ。じゃあ自分でやってみろって言いたくならないのかなあ。ほんとうにただ単に、3人の心が海より深くて宮本を敬愛してるからってことなのかなあ。なんだかそれは私にはピンとこなかった。

というようなことを、つらつらと考えていて、でも実際例えばクラシックのオーケストラだったら、彼らがそのオケのメンバーだったら、あれぐらいの叱咤って普通だよな、と思い至ったのです。いやでもオケの指揮者はバンドのように対等なところからスタートしてないじゃん。仲間としてスタートしたのに…そこまで考えて、あれっ。いや、それエレカシだけじゃないな。劇団でもそうだ。同級生からスタートしても、演出家と役者という立場になった途端、ああいう叱咤を、いやもっともっとすごい罵倒をくらったりするのは普通のことじゃないか。そういう例を私は今まで何度も見てきたじゃないか。

ということに気がついた途端、わかったような気がした、というのは語弊があるので差し控えますが、私のなかで「得心」がいったとでもいうのでしょうか。あの宮本の厳しい言葉も、叱咤も、それでもまったく変わらない4人の空気も、なるほどと思うところがあったのです。宮本はバンドのボーカルだから出演者でもあるけれど、彼は作と演出を兼ねてる立場でもある。目の前にある楽曲が「どう鳴らされるべきか」を他の3人に伝えられるのは宮本しかいない。そして他の3人は何よりもプロだから、鳴らされるべき姿にむかっていっているだけなのだ。なにも特殊なことじゃない。そこに「同級生だから」「同じバンドのメンバーだから」なんて甘えがない、ただ真っ当なんだ。そりゃそうだよな。ただ我慢だけだったら、それでバンドが25年も30年も生きていられるわけない。真っ当すぎるほど真っ当だったからこそ、ここまでくることが出来たんだろう。

そりゃ、解散しないわけだよ、このバンド。

映画の最後は野音と来年新春のさいたまスーパーアリーナでのライブの告知でした。おかえりなさい、宮本浩次。おかえりなさい、エレファントカシマシ。孤高にして普遍的、過激にして包容力有り、最新にして懐かしい姿をまた、実際に拝見出来る日を楽しみにしております。