「わが町」SPAC

世界中で上演されていない国はない、といわれるほどの有名な戯曲ですが、初見です。機会があったら観たい、と強く思ったのは柴幸男さんの「わが星」の岸田戯曲賞の選評で、鴻上さんがこの「わが町」を引いてらっしゃったのを読んでからです。「刹那と永遠を一度に手の上に乗せようとすれば、そこに切なさが立ち上がります」という表現が妙に心に残りました。

大きな舞台にはなんのセットも、小道具もない。バトンにもなにも吊されていない。完全な素舞台です。そこに白を基調とした男女が椅子をもって現れる。彼らは役者だ。その「舞台」のうえでも役者である。舞台監督が口上を述べ、そして3幕の「グローバーズ・コーナズ」での物語が演じられる。

何も特別なことは起こらない、と口上で述べられた通り、一幕ではごくあたりまえの町の日常が活写される。新聞配達、牛乳売り、子供たちの騒ぐ声、豆のさやをむきながらのどうということはないいつもの話。二幕はいきなり結婚式の朝だ。家が隣同士のジョージとエミリはお互いがお互いにとって特別なひとであるということを信じて結婚という決断をする。若者の幸福な未来を誰もが信じている。だが、この二幕「恋と結婚」の冒頭で進行役はすでにこう語る。「このあとにもうひとつ幕がありますが、それが何かは皆さんもうおわかりでしょう。」三幕の視点はすでにグローバーズ・コーナーズにはない。それはグローバーズ・コーナーズを見つめる丘の上にある。先に旅立ったものが眠る丘に。

生きている間にすべての一瞬、一瞬を理解できるひとなんているんでしょうか、という問いかけが劇中にあるが、その答えは否である。その丘の上にやってくることになった彼女は、わたし何もかも覚えている、もう一度あの中に帰っていけるわ、と言う。彼女がもう一度覗き込む「その日」は彼女の12歳の誕生日だ。だが、先人たちが忠告したとおり、彼女はその日常に耐えられない。この一瞬、一瞬が、過ぎ去って二度と戻らないことを、彼女は「本当の意味で」わかってしまっているからだ。その一瞬、一瞬を消費していく日常に、彼女はもはや戻ることができない。そしてあの丘の上に戻っていく。

三幕の芝居を終えた舞台上の役者たちは、それぞれ荷物を抱えてまたどこかに消えていく。その刹那、彼ら彼女らが手にしたカメラのフラッシュが一斉に光る。生きている私たちが本当には決して理解できない一瞬を切り取って、舞台は終わる。

この戯曲が書かれたのは1930年代、描かれているのは今からほぼ100年前のアメリカ、ニューハンプシャーのとある町。しかし、これはまさに普遍と言っていい戯曲なのではないでしょうか。宗教観や結婚観などに馴染まないものがあったとしても、生きて、死ぬ、そのことから私たちが逃れられない限り、この戯曲は有効で在り続けるのではないかと思います。1幕の終盤、ジョージの妹レベッカの語る手紙の宛先「グローバーズ・コーナーズ、ニューハンプシャー北米大陸、北半球、地球、太陽系、宇宙、神の御前。」という言葉が示すように、この舞台にはとてつもなく大きなものと小さなものが、刹那と永遠が同居していたように思えました。正直、三幕の墓地での語らいから涙が止まらなかった。死が悲しいのでも、残されたものの哀しみを思ったわけでもなく、丘の上の彼らが語る光景のひとつひとつが、ただ切なく胸に迫ったのだと思います。

ジョージとエミリが賛美歌の練習を聴きながら月を見るシーン、奥様方の井戸端会議、そしてなんと言っても二幕のジューススタンドでの二人の会話!あそこでエミリが最初「ストロベリーソーダ」と言うのを、ジョージが「きみは僕と一緒にストロベリークリームソーダに付き合ってくれなきゃいけないよ」と言い、エミリが「それすごく高いのに」と呟くあのやりとりに凝縮されるふたりの感情の襞!進行役に言われるまでもなく自分の16歳だったとき、を考えないではいられなかったよ。神は細部に宿る、ではないけど、こういった細部があるからこそ、なんでもない日常というものをここまで光らせて見せることができるんだとおもう。

白を基調とした衣装にそれぞれのキャラクターがひとつだけ色地の布を持っていて、それで登場人物に「なる」趣向がよかったなー。冒頭のカゲアナの声が歪んで装置のバトンが激しく動くという演出もハッタリが効いていて個人的にはすごく好みでした。

「人生ってまったくひどいものね。そのくせ、すばらしかったわ。」戯曲の持つ力にも打たれたし、その戯曲に尽くす役者、演出家、スタッフの熱意にも打たれた舞台でした。観てよかったです。