「こちら側」からのタモリ学

タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?

タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?

うちの実家には「タモリ」「タモリ2」のLPレコードがあった。あれを買ったのは(しかも「2」があったということは「1」を買ってさらに気に入ったということなのだと思うのだが)父だったのか、母だったのか、聞いたことがない。しかし、父が好んで聴いていたシナトラやペリー・コモ、ビング・クロスビーらのレコードに混じって、奇妙なアイパッチの男はいた。私のファーストインプレッション"タモリ"は、だから「片目を隠した奇妙な男」だった。

もうたくさんの方がこの本の感想を書いていらっしゃるとおもうけど、この本の章立てを見ればおわかりのとおり、この本は「タモリにとって○○とは」という視点だけで徹頭徹尾貫かれている。わたしにとってタモリとは、という誰でもが語りたくなってしまうテーマにただの一つの章も割いていない。それはいらない、と著者はあとがきで語っている。そうではなく、タモリという人物を今までの発言、エピソード、そういうものから彼の哲学を浮かび上がらせたかったと。

実際に本を読んでいると、ウワー知らなかった、ということもあれば、なるほどやっぱりそうだよね、と思うこと、ぼんやりと感じていたことが明確にテキストになっていてそうそうそうだよ、と思うこと、様々なタモリに関する「厖大な知識」を得ることができる。

たとえばタモリが、つかこうへい氏が福岡を「一番捨てやすい故郷」と評したことに深く共感していたなどという話は全く知らなかったし、そのつかさんの発言自体も知らなかった。けれど、いかにもつかこうへいの語る故郷だなあと思わせるものがある。この出典は1984年出版、村松友視の「こんな男に会ったかい」という対談集である。そう、参考文献一覧を見るだけでも相当に面白い。また、個人的に興味深かったのは「タモリにとって『言葉』とは何か」の章。そういえば奥田民生の名言の一つに「下品だ、言葉は。下品なんだよ」というのがあるが、瞬時にそのものの意味、存在を固定してしまう「言葉」というものに懐疑心を抱いているというのは、自分がそういう考えを持てるかどうかではなく、私にとってタモリという人物を信頼できる大きな一点だったのかもしれないなあと改めて思った。

私がこの本のもっとも好きなところは、あとがきやご自身のblogでも書かれているとおり、ここにあるすべてが「テレビのこちら側」にながれてきたものだけで構成されているという点である。本人へのインタビューや、周辺の人のインタビューや、あちら側、に足を踏み込まずとも、これだけ豊かなものがテレビのこちら側には流れてきているのだなあと思い知らされる。

しかし、徹頭徹尾「タモリにとって」として語られる本であったとしても、やっぱりこの本には、大きく「てれびのスキマ」さんが存在してるなあとおもう。当たり前のことですが。特にこれだけの厖大な情報量の中から、何を選び、何を選ばないか、そのこと自体、この本がタモリという人物を浮かび上がらせると同時に、著者であるてれびのスキマさんそのひとを浮かび上がらせることに他ならない。

人に自分の好きな何かを勧めたい、と思う時に私が唯一有効な手段だと思っているのは「天岩戸作戦」である。つまり、隠れてしまった天照大神をむりやり引っ張り出すのではなく、こちらはこちらで楽しく盛り上がり、向こうが興味を惹かれて扉を開けるのを待つ、という戦法だ。

てれびのスキマさんはテレビを楽しんでいる。その「楽しがり方」は多くの人の扉を開けてきたのではないかと推察する。恥ずかしながら私はほんの数年前まで、ありきたりな「最近のテレビはつまらない」どころか「私テレビ見ない人だから」みたいな台詞をいけしゃあしゃあというタイプの人間だった。けれど、てれびのスキマさんやその周囲の方の、「テレビ楽しい」というパワーには、私のしょうもない自意識の扉など思えば秒殺であったのだなあと思う。

この本にはその、テレビを何よりも楽しんでいる著者が、最大級の興味と愛情をもって調べ尽くした、「片目を隠した奇妙な男」が「日本のお昼の顔」となり、今に辿り着くまでの、ありとあらゆるものが詰まっています。