「小指の思い出」

マームとジプシーは見たことないので藤田演出も初見でした。いろんなところに書かれている紹介とか読んでいて、リフレインを多用、みたいな部分が印象に残っていたので、そもそもの戯曲も大胆にカットアップするのかなと想像していたのですが、意外なほど戯曲はそのまんまでしたね。

しかし、自分がこうも「小指の思い出」の台詞を覚えていたことも意外でした。マイクをつけていたのは初日からなのかな。台詞が聞こえづらい、という感想をいくつか目にしていたのですが、声と声、声と音をわざと重ねているところ意外は基本的に聞き取れた感じでした。というか、聞き取れていなくても勝手に頭がつなげてくれて、やっぱあんだけビデオを繰り返し繰り返し見ただけあるな…と。

粕羽聖子という役を飴屋さんと青柳さんが二人で演じる、というよりは、初演時に一人二役だった粕羽聖子と粕羽八月を「ひとり」に戻すことのほうが眼目として大きかったのかなーという気がします。あのラストの粕羽聖子の長台詞を途中ですでに飴屋さんに言わせてしまうところはすごく驚いたんですけど、あの車の上での、どこかエロスさえ感じさせるシーンの中ですから、相当なインパクトがありました。あそこで終わってもいいかもとすら思えるほど。なので、ラストの執行を見守る登場人物達と粕羽聖子、という絵面は、野田秀樹が決して描かないだろうと思われる直裁さもあって新鮮ではありましたが、シーンのインパクトとしては飴屋さんのほうがより記憶に残った感じがします。青柳さんは中盤の長台詞(心臓がふたつあるのがわかった、のとこ)のほうがよかったかな、最後はちょっとエモーショナルにすぎるきらいがありました。

あ、でも最後の「音が見える?」のところであの大きなノイズが聞こえてくるとこはちょっとぞっとするほどよかったですね。ほんとに「音を見」させてやろうというような。

松重さんの当たり屋文左衛門よかったなー!あの役を遊眠社でやっていたのは段田さんですが、どこか彷彿とさせる佇まいのクールさ、スピードを殺さない確かな台詞回し、さすが、さすがです。あの小指の指紋の語りとかうっとりした。

ここから、しょうもない話をします。

マームとジプシーを観ていないので、藤田さんの作品がいつもそうなのか、それとも他人の戯曲を演出するという初めての試みだからなのかは判断がつきませんが、すくなくとも藤田さんにとって「小指の思い出」を演出するうえで、「笑い」は重要なファクターではなかったんだなあということを観ながら思いました。

すでにこの芝居を観た人の中でも、ほんとに面白いほど評価は分かれていて、それはすごく健康的なことだなあとも思うんですが、「難解だった」「わからなかった」という声がすごく多く感じられたんですよね。それがダメなわけじゃなくて、実際私もこの作品を「わかって」いるのかと言われたら全然わかってないです。胸を張って言えます。難解だけど、すごかった、わからなかったけれど、おもしろかった、それで全然いい。

でもまず「難解」という言葉が出てくるということは、やっぱりそういう作劇だからだというのもある。藤田さんはもとの戯曲の台詞をおどろくほど変えていない。歯磨き粉の名前まで変えていないのだ。「小指の思い出」という30年以上前に書かれた戯曲と現在の表層をすり合わせることを、まったくといっていいほどしなかった。

小指の思い出は確かに詩的で、美しい作品だが、もっと軽やかで楽しい作品でもあったと思う。すくなくとも、2時間の間ひとつの笑いも起こらない舞台ではないと思う。笑いのための笑いを狙って描かれていたものではなくても、たとえば歯磨き粉、ハからヒフへの言葉遊び、当たり屋専門学院、それらは最初私たちの心を軽くしてくれたものだったのだ。

誤解のないように、というか、誤解を受けてももちろん構わないが、それがダメだというわけではない。でも私は、そういう芝居が好きだし、笑いというものを意識した作劇を愛する。笑いは観客の心を開かせる。軽くする。そうして小指の指紋を凧糸にして舞いあがっていくように、観客の心も高く飛ぶ。だからこそ見えてくるのだ、中世の衣をかぶった現実の町が、萌葱色した三月に帰っていく少年の切なさと決意が、母を焼く薪を無邪気に運ぶ妄想の少年の哀しさが、妄想の少年を愛した女の絶望と希望が。

芝居を見ながら、私の心は離陸することに失敗してしまったなとぼんやり思った。離陸に失敗したのは私がかつての作品に思い入れという重力で引っ張られてしまったからというのもあるだろう。藤田さんの演出によるこの芝居をまったく楽しまなかったわけではないけれど、自分は地面にとどまったまま、頭上を指をくわえて見上げているような感覚がどこかに残ってしまったなと思う。