「半神」

野田秀樹の作品のなかで何がいちばん好き?と聞かれたら、七転八倒したあげくこの「半神」か「贋作・櫻」をえらぶ(どちらかはその時の気分で)わたくし。野田さんが韓国の役者さんたちとがっつり組んで作り上げた「半神」、観てきました。字幕ではなくイヤホンガイドというのがどんなものかとおそるおそるのところもありつつですが、しかしあれだ、キモの台詞はほとんど覚えているのでむしろイヤホンガイドなくても大丈夫だった(ときどき外して観てみたりもした)。

自分の母国語ではないところで演じられる舞台、というので思い出すのは、第三舞台がロンドン公演をやったときに鴻上さんが言っていた「小手先が通じないから、どんどん深化していく。ピュアな芝居に仕上がっている」と言っていたことで、これはわりとどんな舞台でもあてはまることなのかなあと思っている。「夏祭浪花鑑」をNYで観た時もそう思ったんだよなー。

今回の舞台も、役者の皆さんがどんどんピュアに、一心に届け、届けとボールを投げているような佇まいを感じて、それがとてもよかった。この「半神」という芝居は、言ってみれば人間の「ただ寂しさ」、理由なんてない、人間が生まれたときから持っている生き物としての寂しさが、どこからきたのか、を紐解いてみせる神話のようなものだと私は思っていて、その根源的なさびしさがきちんと立ち上がって見えたのがすごい。イヤホンガイドという、まさに言葉のガイドはあるにせよ、役者の肉体がなければ辿り着けないところにちゃんと連れていってもらえたなーとおもう。

かなり細かい所まで、最初の戯曲に(遊眠社版に)忠実にやっていたような気がします。両親がお風呂場のドアをめぐって「七万円でマリアは買えません!」「マリアで七万円だって買えないんだ!」は「80万ウォン」なのね、とか(笑)リリアン姫や火曜サスペンスもそのまま残ってたものなあ!

観ていて、あっこれは今までなかった演出…と思ったのは、マリアとシュラにおやすみを言って先生が去るところ、マリアの額にかなり親愛のこもったキスを送って、そのあとシュラが先生とぎゅーっとハグしたあと、シュラはおでこにキスを待ってるんだけど、先生はシュラにはキスしない。そこからの「ひとりになりたいの」「ついに愛されることを覚えたぞ、シャムの双子が!」と繋がるので、ここを今までこんなに明確に描いたことなかったなーと思ってどきどきした。あの台詞好きなんですよね、「みんなひとりになれば訪うて誰もいないベッドの上で、首から真珠の孤独をぶらさげてみとれているんだわ…!」

とか言って、すきなシーンや台詞をあげていたら文字数がいくつあっても足りないのだった。この戯曲は萩尾望都さんと野田さんの共著(たしか、前半部分は萩尾さんが書いて、後半を野田さんに託したのではなかったかと記憶)ですが、天才ふたりが揃うとこうまですごいものができあがるのか…と思わざるを得ません。老数学者と先生がらせん階段ですれ違うところ、ほんと何回見ても好きすぎる。現実の学問と神様の学問、あの二人は永遠に低血圧のなかで、らせん方程式の解をめぐってらせんの階段をすれ違い続けるのだ。

老数学者をやった役者さんや、スフィンクス、そしてもちろん先生役にも、なんというか歴代この役を演じてきたひとの面影みたいなものがあって、あー野田さんのキャスティングだなーと思ったところも多々ありました。マリアとシュラのお二人がいずれもすばらしく、あのふたりの途切れ途切れの「さよなら」に泣かずにいられようかっていう。いやもう相当早い段階から相当泣いてたんですけどね!ええ!!もうだってあの手術の前の、きみを信じ切っているよ妹は、でシュラがマリアをぎゅーっと抱くとこでまず決壊してるし、老数学者の「高血圧のおじいちゃんによろしく」でも泣いちゃう俺だし、極めつけの「孤独はひとになる子にあげよう」からの「霧笛」の台詞にしてやられないわけなんかないのだった。改めて、自分がいかにこの戯曲が好きかを実感させてくれた感じです。掛け値なしの名作!