半神の思い出

この間「半神」の感想に盛り込もうかな、と思いながら、いや今回の舞台にほとんど関係ないし…と削ったのですが、ヨコウチ会長のblogを読んで「そうそうそうそうそう!!!」って100回ぐらい膝叩きそうになったので膝が割れる前に自分でもちょこっと書いておこうかなと思い直した次第。

半神の思い出ってよりは、半神とひとりの役者さんの思い出って感じなんですけどね。

「半神」のすきな場面、すきな台詞はほんと挙げたらキリがないほどなのですが、しかしその中でもほんとうに忘れがたいのが、ラストで「先生」が双子の部屋を訪れる場面です。

「誰?」
「新しい家庭教師だよ」
「ふうん」
「今そこのらせん階段で、小さな棺とすれ違った。誰か死んだの?」
「先生、それはあたしの妹なの」
「妹?」
「いつもあたしの横に座っていたの」
「仲が良かったんだね」
「ううん…あたしたち、くっついていたの」
「くっついていた?」
「そう」
「そんな話誰も信じないよ」
「誰もがそう言うの。切り離されてからは」

私は遊眠社版の「半神」をビデオをしぬほど繰り返し見た、ということはもう何度も書いていることなんですけど、このシーンで、「先生」役の上杉祥三さんが見せる芝居は、私の野田芝居の理想の一角を確実に形成しています。そのあと、実際に舞台で「半神」を目にする幸運に何度か恵まれましたが、ことこのシーンについては、他の役者で上書きされるということがまったくない。わたしにとっての圧倒的な「正解」であり続けているんです。

このシーンでシュラひとりになった双子の部屋を訪れる先生が誰なのか、「新しい家庭教師」という彼はらせんの階段をすれ違った、現実の学問を志す彼なのか、自分のなかで数式のような答えを持っているわけではありません。でも、台詞の字面だけを読めば、「新しい家庭教師」である彼はかつての双子を知らないでいるかのように話しています。実際、ここの芝居のトーンをどちらに持っていくのかは、その時々の公演でかなり揺れがあるように記憶しています。

上杉さんの「先生」は、たとえば最後の「そんな話誰も信じないよ」と口にしながら、その言葉とはまったく逆の意味が、逆の意味だけが突き刺さってくるように演じている、すくなくとも私にはそう思えるんです。ほとんど抑揚のない、淡々とした台詞回しなのに、意味だけが数倍にも数層倍にもふくらんで見えてくる。そこから「霧笛」の長台詞がはじまり、あの独特の、奇妙な明るさをもった声が、観客をも深海から引き上げるような引力をもって響いてくる。

先日、「小指の思い出」を見た時に、感想には書かなかったことのうちのひとつは、「藤田さんは粕羽三月に思い入れがないんだなあ」ってことでした。粕羽八月と粕羽聖子を初演時に野田さんが一人二役で演じたというその「意味」にものすごく執着しているのはわかるんだけど、でもあの芝居で、世界をひっくり返す台詞はいつも粕羽三月から始まるじゃないか、なのに、なのに、と粕羽三月好きのわたしとしてはかなしく思ったものです。

夢の遊眠社で、常に野田さんや段田さんの対に立ち、世界を逆転させる位置を託されていた上杉さんは、解散後は野田さんの舞台に出演されていらっしゃいません。解散公演でもお姿を拝見することはできませんでした。もう一度ふたりが、という夢を見ているのかと問われれば、それは私のなかであまり大きなことではないと答えます。それよりもあの頃の、眠る時に見る夢のような舞台を創造した作家と、それを具現化した役者の幸福な時代を、いつまでも反芻していたいだけなのかもしれません。