「紫式部ダイアリー」

のっけからこんなことを書くのもあれですけど、三谷さんはやっぱり女性を書くのが苦手(下手)だなあと思う。出てくるのはどこかお母さんか女の子なんだよなあ。この芝居で出てくるのは清少納言紫式部のふたりだけ、そのふたりが語らっている、とあるホテルのバーの片隅で。彼女らは女の子でもお母さんでもない。結局のところ、あのふたりは三谷さんの手には負えなかったのだなという印象。

そもそも、彼女らが内心相手に対して思っていることが「美しいうえに才能がある」「美しくないがゆえに真に才能を認められてる」ところへの嫉妬というのがどうにも鼻白んでしまう。そんなうすっぺらいですか。こういうことを書くと嫌がられるだろうが、一世を風靡したエッセイストと小説家がまず「美醜」にこだわると思うほうがどうかしているし、同じことを男性作家でも書くのかねと言いたい。持てるものと持たざるもの、もっと言えば持てるものともっと持てるものの相克を、三谷さんは「コンフィダント」という作品で見事に描ききっているのに、対象が女性になると、これなのか、という点ではがっかりしたと言わざるを得ません。

紫式部が「若い女」であるがゆえの付加価値に苦しむのだとすれば、その付加価値を与えている世界から解放してやってこそだし、そもそもその前に「自分の才能の枯渇などありえない」と大見得を切るのに、若さと美しさが消えること(正確には、消えたあとの自分の扱い)に怯えるというのはどうにもすっきりしません。清少納言にしても、なぜあれだけ「文学賞の講評」とやらにこだわるのかがよくわからない。最初に話が終わったのかと思いきや、最後にもう一回話が戻って、えっ結局講評をやりたいがためのお付き合いだったの、と見ているこちらがびっくりしたぐらいだ。

それでも、平安時代を代表、いや歴史を代表する女流作家ふたりが、もしもこんな風に語り合う場があったとしたら、という設定の魅力がもっと活かされていれば作品として楽しめたでしょうが、それぞれのキーワードこそ折に触れ出てはくるものの、その設定の寄せ方が中途半端で笑いにもつながらない。

紫式部清少納言に「人生はもっと暗い、どろどろとしたものでできている、枕草子は読んでいて楽しいが、大事なのはその先なんじゃないか、着眼点はすばらしいが、その先を描かないからあの作品は軽いのだ」と言い、それに対し「その先を描くことがそれほど大事だとは思わない、軽く、楽しい読み物でいい、そう書いた」と返すところは、三谷さんの自分の作品への姿勢を彷彿とさせるところもあって非常にいいシーンでしたが、できればもっとこういった抉ったやりとりこそを見たかったし、しかしそれを描くには、今回の三谷さんはちょっと書き飛ばしている感が強かったです。

清少納言が最後に、「彼ら(読者)はバカじゃない。案外真実を見抜いている。何がほんもので、何がほんものでないかを。それが信じられないというのなら、あなたは1000年後の読者に向かって書きなさい」と諭すところは斉藤由貴さんの芝居も絶品でよかった。長澤まさみさんもとてもキュートだったです。