「わが星」ままごと

  • 三鷹市芸術文化センター星のホール 全席自由
  • 作・演出 柴幸男

再再演。再演を2011年の5月に千種小劇場で見たことは、あの年に起こったさまざまな出来事もひっくるめて忘れがたい体験のひとつです。全席自由で、だけど最後列を選んで座ったのは、あのときとできるだけ同じような目線で見たいと思った自分がいたからで、ことほどさように自分の中で「もういちど」と思っていた部分が強かったのだなあと思い知らされます。

なにも知らずに見たときとは違って、この星が生まれてから消えるまでの引っ張ったり縮めたりした時間に起こることをわかってみているのだけど、でもやはりあの最後に襲う殆ど衝動と言い換えてもいいような「たださびしさ」は変わらないのだなと実感しました。そりゃそうだよな、ひとはみんな生まれて死ぬ、そのことは最初からわかってることだけれど、だからってそのひとの一生がおもしろくない、なんてことになるわけないのと同じだよな。

ちいちゃんと月ちゃんの複雑な「ままごと」、おふたりの子供特有のリアクションと物言いのリアルさ、にやにやしつつ楽しんじゃうなー。わたしはやっぱりあのタイムカプセルに入れた月ちゃんの手紙にどうしても弱くて、ほんとしゃくりあげるぐらい泣いてしまうんだけど、再演の「わが星」を見て以降いくつか柴さんの作品を拝見しても、この「幼年期の一瞬どこかで人生が交錯した友だち」というのは柴さんの作品にかなりの頻度でモチーフとして使われているんですよね。そしてそこに必ず自分がぐっと入れ込んでしまうのは、小さい頃に転校というものを体験した(しかもそれにすごく影響された自覚がある)ことと無関係じゃないのかもなあ。

たとえば、もうこの作品を観た後は「アポロ」は特別なお菓子にしか見えないわけで、そういうふうに自分のなかの何かを塗り替える、っていうのは力のある作品にしかできないことだよなあと思います。

それにしても、再見して改めて思う、脚本の完成度の高さ。創り手はこれからも沢山の芝居を書き、上演していくでしょうし、観客は観客で勿論沢山の芝居を観て、そしてその度に記憶はどんどん流れていくけれど、そしてそれはとても健全なことだけれど、まれにいつまでも記憶の最前列に座り続ける作品というのがあって、この「わが星」も、そういう1本なのだと思います。