「大逆走」

作中で登場人物が「意味を求めるな」といったような意味の台詞を何度か口にし、赤堀さん自身も今回は戯曲の完成度というところとは別で作りたいものがあったようですが、しかし「意味を求めるな」というほどにはそれぞれのエピソードが地に足が着きすぎており、浮遊力、理屈を超える力に欠けていたように思えたこと、ひいては場面場面の力、その一瞬を切り取るだけで意味や物語を超えたインパクトをこちらに投げかけてくれるような力にはもう一息足りない、と思うところが多かったというのが、率直な感想です。

私は普段から自認しているように、徹底した「物語派」の人間なので、そこを放棄してくるような展開だと困るなあと出だしは身構えたのですが、さっきもいったように物語のエピソード自体は割と「ベタ」な方向にあったと思います。トイレを境に世界が混沌としていくところ、吸い込まれる、という単語も相俟って右半球で風呂の栓を抜くと、じゃないけどメエルシュトレエム…みたいなことを思いました。まあでもあながちはずれた連想でもなかったのかな。なくしたと思ったものが見つかる世界でもあったわけだから。

さっき場面場面の力、という言葉を使いましたが、あらすじを丁寧に積み上げる、といったことに眼目を置いていない以上、たとえばクジラのシーン、たとえば主人公の父のかつての蛮行を語るシーン、そういったところで絵としてもその一瞬の登場人物達の昂ぶりにしても、そこにもっと強度がないとこれだけの長丁場を引っ張り続けるのは難しいのではという感じでした。終盤、池田成志さんがかの「ハムレット」のもっとも有名な台詞に始まる第三幕第一場を演じてみせるところがあり、そこはさすがに興奮しましたが、その興奮は「成志さんが本意気でこの長台詞をものすところなどそうそう見られない」という部分があった、つまりは個人的な思い入れによるところが大きかったのも否めません。そんな中で、趣里さんのあのダンスはやはり相当の強度をもってあの世界に君臨していたので、鍛えられた肉体の説得力よ…!と改めて実感しました。

そう、鍛えられた肉体、で思いましたが、劇中でかなり歌舞伎風の音を使ったり、梯子を使った立ち回りを見せたりというシーンがあったのですが、ああいうなんでもない動きほど、訓練されている、されていないが如実に出るよなあと思いました。いや、訓練されていればいいとは言いません。本物が見たかったら歌舞伎に行くしね。しかし、だからこそ「ちょっとやってみた」というような場面作りだけでは物足りなさを感じてしまうのも事実。何か一工夫、こういった舞台でやるからこそできるアレンジみたいなものが欲しかった気がします。

芝居の内容とはまったく関係ないので、以下はもう読んで頂かなくて大丈夫ですが、開演前からなかなかよい精神状態で臨めなかったのも個人的には大きかったかもしれません。座席はほぼ最後方の、センターブロックのど真ん中ですが、開演10分前に着席しようとして着席されている方に「すいません」と声をかけるも無視。足元には大きな荷物。スマホを触っている本人に、すいません、このままだと踏んでしまうので、どけてもらえませんか。そう声をかけるも、舌打ちと共にほんの気持ちだけ足元を開けられ、その横に座っている母親らしき人物は、前の座席に膝をつけるように足を組んでいて、もういちどすいません、通れないので、それでも組んだ足をほどこうとはしてくれず、いろんなところにぶつかり、踏みまくって通ると「痛い!」すいません。なんで謝ってんだわたし。てめえがその短い足をご丁寧に高々と組んでやがるのが悪ぃんだろと啖呵でもきればよかったのか。もう帰りたい。それがその時点での率直な気持ちでした。芝居の間、前後左右で4回携帯のバイブが鳴り響き、まあ、もう今日はこういう日なんだな、と最後の方は笑えてきました。フラットな気持ちで芝居を楽しむって、ほんとうになかなか、かんたんなようでむずかしいことだったんだなと改めておもった一日でした。