「ツインズ」

パルコに長塚圭史が帰ってきた!という煽り、キャストに古田新太吉田鋼太郎を迎えて、というとやはりかつての「ラストショウ」や「SISTERS」を彷彿とさせますし、制作側としてはもちろんそこは意図したところだったんだろうなーと思いますが、以前の長塚節全開かというとそこまででもなかったかなという印象。わかりにくい作品ではないけど、出来事ではなくヒントで物語を前に進めようとする構成は好みがわかれそうでもありますね。

この翌日に「消失」を観たんですが、あちらは再演とはいえ通底するディストピア感があるというか、どちらも「水道の水をコップで飲む」ことに行為以上の意味を持たせている世界で、そういう作品が書かれる、再演される時代の背景というものを痛感させられたところでした。

水道の水を飲む、ことに意味があるというのはつまり「汚染」という事態がその裏にあるということで、この世界ではおそらくはありとあらゆるものが、汚染の二文字にまみれている。はっきりした原因は語られない。この国の人間はどうにかして、生き残るためにこの国の外に出ようとしており、それには法外な金がかかる。原因は語られないまでも、提示されている世界はかなり明確です。けれどそこにまるで夢のような要素が入りこんでくるところがある。劇中でも「夢に食われる」という台詞がありますが、まさに「これは誰かが(たとえば死んでいくこの家の主が)見ている夢なのでは」と思わせる。まるで夢の中のような噛み合わない会話が自然につながっていく不自然さがところどころにあって、前段の世界観は確かに「かつてのパルコプロデュースでの長塚圭史」のテイストなんだけれども、後段の要素とうまく融合していたかというと難しいところかなあと。

古田新太の役が後半しぼんでしまう(ように見える)のはちょっと惜しかったですね。吉田鋼太郎はさすがに硬軟自在で見せる見せる。それこそ夢の中のような語りも、家族との侃々諤々なやりとりも聞かせきる腕の確かさ。葉山奨之さんて、たぶん初めて舞台で拝見したと思うんですけど、ダメだってわけじゃないのだが、意味の通らないやりとり、観念的な台詞の応酬になるとさすがに他の演者との地力の差が出るんですよね。そこは古田、吉田、中山といった面々はそれぞれの持ち味できっちり台詞をものにしていて見ごたえありました。中山さんの奇妙な明るさも、笑い事じゃない事態を踏まえてもなお変わらないその態度がだんだん底知れなくなってくるというあたりもうまい見せ方だったと思います。