「ナショナル・シアター・ライブ 夜中に犬に起こった奇妙な事件」


ナショナル・シアター・ライブはやっぱりうれしいやつだよ!2012年ロンドン初演、その年のオリビエ賞を席巻した舞台。評判は聞こえてきていて(ブロードウェイでは一昨年上演され、トニー賞受賞)、ぜひ見たいと思っていました。

アスペルガー症候群の少年、15才のクリストファーは父親とふたりでイギリスの郊外に暮らしている。ある日、彼はかわいがっていた近所の犬が殺されているのを見つけてしまう。彼はその犬を殺した犯人をつきとめようと調査を開始し、その一部始終をノートにつけていく。だがクリストファーの父親は余計なことに首を突っ込むのはやめろといい、そのノートを取り上げてしまう…

観客席はぐるりと舞台を取り囲むようなすり鉢状に作られていて、舞台一面がグリッドを引かれた黒板になっており、役者たちはその周囲に座り自らがありとあらゆる場面を作り出していく。そのうち、クリストファーが書いた「犬殺しの犯人をつきとめるための顛末」をクラスで劇にしていくというメタ構造も重なり、その構造のズレが思わぬところで笑いとドラマを生んでいく構成がすばらしいですし、物語の中心となる親子それぞれの葛藤の見せ方も抜群に効果的かつ品性と理性があるんですよね。クリストファーと「ずっと一緒にいる」ことを決して軽々しく描かず、それぞれに挫折と妥協がある。先生は先生だから、はからずも劇中で言うように「家族じゃない」から、ああして距離を保てているのだ。

グリッドを引かれた黒板をスクリーンにして地図、路地、家、さまざまな情報の洪水を映像として見せるところ、今回の上映では真上から撮られた映像もあって、その効果をより実感できた感じあったなー。白い長方形の箱が椅子、手荷物、階段とこれまたさまざまなものに見立てられていくところとか、芝居好きの心をくすぐりますよね。

この作品は2014年に日本でも鈴木裕美さんの演出で上演され、そちらも拝見しました(感想はこちら)。日本版ではあの演出をどうやっていたの?と気になる方もいるかもなので少しだけ。まず、日本版の上演劇場は世田谷パブリックシアター、がっつりプロセニアムな舞台なので、同じ構造というのはまあ、無理です。でどうしていたかというと、大きな(世田パブは天井が高いので、相当に大きい)黒板を背面にして、そこにさまざまな映像が映し出される。黒板の存在の大きさとマッチさせるため、最初から「クラスで行う劇」のメタ構造が提示されており、机と椅子が「見立て」の道具に変わる。地名も人名ももちろん変更され、主人公の少年は静岡県静岡市葵区から、母の住む西葛西までひとりで出かけることになる(この距離感の確かさ、ロンドン版を観た後だとなおさら絶妙なポジショニングだなあとうならされます)。

クリストファーが宇宙を語るシーンの美しさや、母の手紙のシーンの演出の巧みさ(あそこ胸が本当に痛い)、あと、ロンドンに着いたクリストファーを、先生の声とお父さんの声がたすけてくれるところでやっぱりぐっときちゃうし、なによりラストシーンが本当に、本当にすばらしい。日本版を見ていて、結末を知っていても、「僕には勇気があった、それってなんだってできるってことじゃない?」の台詞で泣いてしまう。あそこで先生がなにも答えないところが、この舞台の品性をよく表していると思います。

カーテンコール、あれ、私日本版を見た時、鈴木裕美さんがすごいサービスをしてくれたなー!って思ったんですけど(日本版では森田剛がここでだけアイドルの顔をチラ見せし、美しい数学の解を歌い踊ったのであった)、もともとの演出だったんですねー!裕美さんが、それらしいことをツイートされてはいたけど、いやあなんというすみずみまでいきわたった観客へのサービス精神なんでしょうか。それなりに重いものが手渡される舞台だけに、観客をある意味ふわっと浮き上がらせて劇場を去らせてくれる。

これも裕美さんが、日本版のパンフレットで、出演者が終始舞台のうえでスタンバイし、ありとあらゆる登場人物、ありとあらゆる場面を作り上げるこの演出は「演劇を愛している人間でなければ保たない」と仰っていたのも頷ける、演劇好きの心をくすぐらないではいられない舞台でした。