役者の仕事

言葉を発するときには、その瞬間心に浮かんだことを言うように言え。
そうでない時は私が止める。
お前の言っていることが信じられない時も止める。
何を言っているかわからない時も止める。
その年に獲れた林檎を初めて味わうように言葉を味わっていない時も止める。
肩が上がってきたら止めるし、少年らしさを失ったら止める。
簡単じゃないだろう、君は泣き出すかもしれない、そうしたらまた最初からだ。
そうすればうまくなる。朝から晩まで稽古をする、
寝ても夢に見て、起きているときは頭から離れなくなる、
するとついに、ジョンがドレスを着せてくれる日がくる、
君はうまくなっている。それを約束できるのは世界中で私ひとりだ。
「クレシダ」より

昨年のわたしのベスト1「クレシダ」がNHKBSで放送。ありがたい。ありがたい。平幹二朗さんの最後の舞台となってしまったこの作品、思えばこの世界を旅立ってしまったひとからかけられる言葉でもあったのだった。深夜の放送なので、録画されているかどうかを確認したら寝よう…と思っていたのに結局最後まで見てしまった。そうなるんじゃないかという気はしていた。

冒頭のインタビューで、演出家の森さんが、この舞台のクライマックスといってよい、スティーブンとシャンクが「トロイラスとクレシダ」のセリフを返すところ、「あの平さんに対峙するのは相当エネルギーのいる仕事」だと語っていたが、その言葉の通り、ここの平さんの芝居はまさに圧巻といってよく、それにくらいついていく浅利くんも見事だ。形をとりあえずやってみて、皆がやっていないならする意味がないと切り捨てようとするスティーブンにシャンクが言う、「皆がやっていないのは、その意味を理解するものがいなくなったからだ」って台詞、どきっとする。歌舞伎を見るようになって感じることのひとつは、「型」というものの強さであって、それは当然ながら意味があってその型というものが出来上がってきているのだけど、意味を理解しなければそれは「上っ面」と捉えられかねない諸刃の剣でもある。そして、今は歌舞伎だけではなく芝居の世界全体で、なんというかその「型」というようなものよりも、自然に湧き上がってきたものこそが尊いみたいな風潮があるような気がするのだ。

でもそれってほんとにそうなんだろうか?本当に心底、毎日違うものが湧き上がってくるのならともかく、アドリブや日替わりが珍重されるような空気に傾いているような気がしてならない。

平さんがクレシダのセリフを諳んじてみせる場面、台詞が立ち上がってくるとはよくある言い回しだが、あの比喩に比喩を重ねたようなセリフすべてに意味があることがわかるし、砂漠が水を吸い込む如くぐんぐんと自分の中に台詞が入っていく快感を味わうことができる。聞き終わったスティーブンが思わず拍手してしまうのももっともだ。そして、「それを理解できるものがいなくなったからだ」という台詞が、なんだか現実とリンクしているような気がしてきてしまう。

冒頭に引用したシャンクの台詞。これこそが、役者の仕事というものだろうとおもう。よく、「あんなに長い台詞よく覚えられますね」なんてあさっての誉め言葉をいう人がいるし、それはそれで悪いとは言わないが、でも覚えることが役者の仕事なんじゃない。あえて言うけど、覚えるだけなら私にだってできるよ。役者の仕事とは、まさにこの作業をずっと繰り返すことにある。簡単じゃない。簡単じゃない。君が泣き出せばもう一度最初からなのだ。その年に獲れた林檎を初めて味わうように、百万遍も同じセリフを繰り返すのだ。そこまでやっても、同じ舞台は二度とない。機械のように芝居が再生産されることはない。それが演劇のこわさで、おもしろさで、せつなさで、すばらしさなんだろうとおもう。

転居を伴う異動があって、3月はなんだかもうやること、のタスクが多すぎて芝居の感想もまったく書けず、それも書きたいけど時間がない、というような感じじゃなくて、自分がパソコンに向かってテキストを打つ、ってことがもはや遠い世界に感じられる、みたいな心境になってしまっていて、これはちょっとやばいんじゃないかなんて気が、こっそりしていた。4月になって、環境が変わって、時間は前よりたくさんあるのに「エンターテイメントを楽しむ」みたいな方向に気持ちがいかない。いかないというよりも、前はどうやって楽しんでいたのかがわからなくなってる感じがしていた。でも、「クレシダ」の映像を観て、平さんの芝居を観ていたら、なんというかへんな表現だけど、死んでいた情緒がみるみる甦ってくるような感覚になった。シャンクの語る「役者の仕事」の台詞に涙しながら、自分がどうやって芝居を、娯楽を、楽しんでいたかをもりもりと取り戻すような感覚があった。ためこんで放置していた芝居と映画の感想を、3日間で一気にぜんぶ書いた。ソロモンよ、わたしはもどってきた、なんて言いたくなってしまうぐらい、きぶんがいい。

また何かいろいろ疲れて、情緒が死にかけていたら、クレシダの平さんを思い返そう。そんな風におもった。ひとりの人間の情緒に息を吹き込み、水をやり、花を咲かせる。役者の仕事とは、そういうものなんじゃないかとおもう。そういうものであってほしい、そうおもう。