いつでもそこが桜の森の満開の下

坂口安吾の「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」を下敷きに野田秀樹が書いた、夢の遊眠社「贋作・桜の森の満開の下」は、1989年2月に初演された。東京は日本青年館、関西公演は京都南座で行われた。わたしは、この時の南座の公演を観に行った。初めて見る野田秀樹、初めて見る遊眠社、初めて行く南座。もう28年前のことだが、不思議なことに、あの揚幕のしゃりん、という音を今でもまざまざと思い出すことができるような気がする。その音に続いて聴こえてくる、「みみおーーーーーーーーーー」という毬谷友子の声とともに。

夢の遊眠社では1992年に早くも再演となり、東京は同じく日本青年館、大阪は今はもうすでになくなってしまった、道頓堀の中座で上演された。夢の遊眠社解散後も、野田地図の製作協力という形で2001年に上演されている。劇場は新国立劇場中劇場。初演・再演で夜長姫と耳男をつとめた野田秀樹毬谷友子に代わり、堤真一深津絵里がその役を演じた。

南座の初演、中座の再演、そして新国立で生まれ変わった贋作・桜。それをすべて見ることができたのはほんとうに幸福なことだったと思う。私はこの舞台で初めて「舞台の美しさ」を知った。南座での終演後、どうやったらこれを明日も見ることができるのか?(残りは千秋楽しかなく、とうぜんチケットは完売していた)と熱に浮かされたように話したりもした。ほんとうに私にとって忘れがたい、人生のオールタイムベストのうちのひとつだ。

勘三郎さんは同年代の作家が書く、今の歌舞伎を創り出すことを常に考えていて、その筆頭にあったのは同い年だった野田さんのことだったのではないかと思う。野田さんに書いてほしい、という勘三郎さんの熱意は相当なもので、勘三郎さんが野田さんのワークショップに参加したりしていたし、野田さんもそれに応えて最初は「カノン」を歌舞伎でやるつもりで書き始めたのに、どうしても話が予想した方に転がらず、勘三郎さんもこれほんとに歌舞伎にする気あるのか?と野田さんに詰め寄ったという話もあったと記憶している。その後、二人はご存知の通り、歌舞伎座で「野田版・研辰の討たれ」という作品をものし、その後も鼠小僧、愛陀姫と歌舞伎座での上演を続けていくことになった。

夢の遊眠社時代に上演した「贋作・桜の森の満開の下」を歌舞伎にしよう、歌舞伎にしたい、という話は、野田さんと勘三郎さんがタッグを組み始めた当初から何度も名前があがっていた。耳男の役はまさに勘三郎さんのニンといってよく、夜長姫のあの邪と聖を行き来するような変わり身は歌舞伎の女形にハマる造形のように思えた。そしてなにより、作品としての完成度が桁違いだった。実際に、もうほとんど、決まりかけていたのだとおもう。勘三郎さんがそのものずばりなことをぽろっとお話になったこともあった。でも、何かの事情で、いろいろな事情で、それは実現しなかった。2005年の松竹座での研辰千秋楽、カーテンコールで舞台に野田さんが呼ばれ、勘三郎さんとおふたりで挨拶をなさった。勘三郎さんがそのとき、「これからもいろいろやっていきたいとおもっています、雪も降らせたいし、桜も降らせたいし。」と仰ったこと、それを聞いて飛び上がるほど喜んだことを昨日のことのように思い出す。神さまにでも仏さまにでもお祈りするよ!と思った。でも、届かなかった。届かないまま、勘三郎さんは逝ってしまった。

今年の初めに上演された野田地図「足跡姫」は野田さんが勘三郎さんへのオマージュとして書いた作品だが、冒頭のシーンを見た瞬間、私はあっと声をあげそうになった。桜。桜の森の満開の下じゃないかこれは。

君のような者は残るだろうが、それは君ではない。野田さんは勘三郎さんへの弔辞でそう書いた。だからこれはつまり、勘三郎さんと叶えることのできなかった舞台を重ね合わせているのではないか、ということは、野田さんはふたたび誰かと「桜の森」をやる気はないのではないか。いやそうではなく、だからこそ、新しく「桜の森」に挑めるのではないか。勘三郎さんにも野田さんにも思い入れのある芝居仲間と、何度もそんな話をした。

わたしはやってほしかった。もう、夢に見て、夢に見すぎて、その芝居を見たような気さえしているが、でも、ずっと実現してほしいと思い続けてきた。勘三郎さんは逝ってしまったけれど、勘九郎さんと、七之助さんで、あたらしい耳男と夜長姫をやってほしいと思い続けてきた。歌舞伎座の舞台で、揚幕がしゃりんと鳴り、七之助さんの夜長姫が駆けだしてくるところを見たかった。今日でなくちゃいけないのかい、今日でなくちゃいけないんだ。そのやりとりを見たかった。勘九郎さんの耳男が語る、どこへでも参れるおまじないを聞きたかった。

それがとうとう、現実になる。歌舞伎座に、あの桜の花が咲き開く。
この気持ちをなんと言葉にしていいかわからない。

これは私の勝手な憶測で、なんの確証もないが、この八月の納涼で「桜」が実現したのは、染五郎さんのお力添えがあったのではないかという気がしている。染五郎さんは、勘三郎さんが「桜」をやりたいと言っていたころから、出演者としてお名前があがっていたこともあるし、染五郎さんご贔屓であるお芝居仲間が、2年ほど前に染五郎さんがこの作品について、思い出深い作品で、これを見て役者をやめるのをやめようと思った、とお話されていたことを教えてくださっていたからだ。そして、染五郎さんは来年、幸四郎を襲名される。これが染五郎として最後の納涼、だからということなのか、納涼の一部から三部まで、文字通り大車輪のご活躍である。普段から仲良しの猿之助さんがお付き合いなさるのも、そういう染五郎さんのご希望があったのではないか、だとしたら、この第三部も、そういうお口添えがあったのではないかという気がしてしょうがない。本当に足を向けて寝られない。七月もお忙しいのに、もはや染五郎さんのお身体だけが心配である。

世の中にはいろんなエンターテイメントがあり、映画でも音楽でも、ひとを楽しませるものはたくさんある。でも私はその中でも、どうにもやはり演劇というものにつかまっているし、きっとそういう人生を送り続けるんだろうと思う。私は演劇に絶望しない。絶望しないというのは、99本つまらない芝居を見ても、次の1本が最高の舞台かもしれないと信じることができるということだ。そして「贋作・桜の森の満開の下」はその私の、演劇への信頼の限りなく根っこに近い所を今に至るまで支え続けてくれている。歌舞伎座でその芝居を見たい。ずっと願っていた。ずっと夢に見てた。ほんとうに、ずっと、夢に見ていた。

それがとうとう、現実になる。