「七月大歌舞伎 夜の部」

  • 松竹座 3階左列11番

夜の部、舞踊は「舌出三番叟」。鴈治郎さんと壱太郎くん。三番叟、いろんなパターンを見たと思ってもまだまだ知らない三番叟が出てくる!ところで、何年か前に猿之助さん(当時亀治郎さん)と染五郎さんでやった「寿式三番叟」がすごく好きで、また見たいなと思いながらなかなか機会がない。

「盟三五大切」。仁左衛門さまの薩摩源五兵衛です。盟三五大切は以前コクーン歌舞伎で拝見したことがありますが、仁左衛門さまで拝見するのは初めて。いやー、すごかったですね。語彙力!どこ!って感じですが、すごかったしか言えないですよ。芸の力というもので人間、あそこまでいけるのだという、そのきわを垣間見させていただいたような感じですよ。

仁左衛門さまの源五兵衛は入れあげた小万の話をするときはどこか呑気なというか、人の良さがうかがえるのだけど、おじ上から百両の金をもらって、いざ敵討ちに同道せん、という話の時にはぴりっとした話しぶりに変わる。小万の身請けの話を聞いても、そこには手を付けず帰ろうとする。だが好きな女が命を捨てるという事態を見過ごすことができなかった。そもそもが百両だまし取るための芝居だと気がつく前から、すでに源五兵衛はどこかで絶望している。「好きな女を連れ帰れる」とただ浮ついているわけではない。そこで明かされることの顛末…。「好きな女に騙された」ことだけではなく、「自分の生きる希望を絶たれた」ことが源五兵衛の絶望をより深くする。「人ではない」といいながら、自分がその人ではないものになっていってしまう。

五人切の場でのあの丸窓に映る影、ぬっと足を踏み込むその姿の、絵としての完璧な美しさもすごいし、鬼か修羅かというような佇まいもすごいですが、やはりなんといっても小万殺しの場面の凄さが忘れられません。赤子を貫く刀に母の手を添えさせる残虐さ、小万の首を落とす時の、地の底から響くような声。そして、落とした首を抱え、篠突く雨の中に佇む源五兵衛…。あの、降り出した雨のなか、懐の首を濡れないようにぐっと深く抱える仕草、首に添えられた手の表情、傘をひろげ、見上げるその視線の先。まったく台詞のないシーンですが、全観客が毛筋一つもうごかすことがためらわれる、というような緊迫感でしたし、効果音の雨の音が最初効果音に思えず、本当に今あの舞台には雨が降っているのではないかと錯覚すらさせるような。これは源五兵衛と小万の道行きなのだと思いましたし、人ではないものになってようやく、すべてをかけた女と落ちていくことが出来た男の哀しさで胸がつまりました。

時蔵さんの小万、染五郎さんの三五郎もとてもよかったです。三五郎、だめな奴だけど、個人的にそういう役をやっているいい男が大好きです。松也くんの六七八衛門も、声の掠れはちょっと気になったけど、純朴で源五兵衛に一途に尽くす姿がはまってました。いやはや、それにしても仁左衛門さまの素晴らしさたるや。何回言っても言い足りない、すごかったです!ほんとうに!