「八月納涼歌舞伎 第三部」


「野田版 桜の森の満開の下」。歌舞伎座にかかる「本日初日」の幕を見て、私が思ったのは勘三郎さん、とうとう来たよこの日が、ってことだった。野田秀樹の劇団時代の作品を歌舞伎にしたい、ということを口にし、その実現をきっと願っていたであろう人のことをどうしても考えたし、もともとこの作品に一方ならぬ思い入れがある私だが、その思い入れがこれほどまでに重く、センチメンタルなものになったのは、やはりそこに勘三郎さんのことがあったからだとおもう。

ずっとこの舞台の実現を夢に見て、見て、見すぎて、まるですでに上演を見たかのような気持ちになっていたけれど、それが「現実」となって、夢はやっぱり夢で、自分の頭の中で描いたものにすぎなくて、現実は自分の想像もできないところに翼を伸ばしていくものなのだということを実感したし、それを実感できたことがそれこそなんだか、夢のようでした。

幕が開いても最初は私の緊張もあり、ずっと肩に力が入ったままだったけど、七之助さんの第一声を聴いたときに、あっ大丈夫だ…とふっと気が緩み、そこでなぜだか泣けてしまった。夜長姫はその姿もだがそれと同じくらい、いや姿以上にその声の説得力がものをいうお役だと思うので、それが聴けたことで安心したのかもしれない。

歌舞伎にするにあたって台詞を七五のリズムに直したというのは事前のインタビューなどで知ってはいたけど、そこはさほど気にならなかった。戯曲の流れとしては基本的に変えておらず、それは予想していたが、あの当時の遊眠社は圧倒的に台詞が早く、そのスピードを維持させているのは少し予想外だった。耳男やマナコは序盤特にまくしたてる台詞が多く、初日はまだハンドルの制御にいっぱいいっぱいなところもあったが、猿弥さんも勘九郎さんも間を活かすのがうまい方なので、台詞の制御に慣れたらもっと味も面白みも出てくるだろうなあという感じがした。

キャストの中で、初日から驚くほどの完成度だなと思ったのはオオアマの染五郎さんとハンニャの巳之助さんである。ハンニャはエンマや青名人、赤名人らと前半はオニとして、後半は「歴史の花道に返り咲いた」豪族として姿を見せるが、巳之助さんの芝居勘の良さに改めて驚かされた。染五郎さんのオオアマ、いやいや本当に、どうしてこんなに「人の上に立つもの」が似合うんでしょうか。オオアマも前半と後半で違う顔を見せる役だけれど、特に後半がすばらしい。失くした耳をめぐる耳男とのやりとりはオオアマのまさに「しどころ」と言っていいと思うが、あの冷酷さ、傲然とひとに最後通牒をつきつける佇まい、非の打ち所がない。

一幕が終わった時点で、なんとなく周囲の観客の戸惑い、みたいなものも若干感じたりしたが、でも二幕を見れば大丈夫、と私は勝手に確信していたし、実際に二幕でこの舞台が見せるおそろしさと美しさは、28年前に観たときと変わらずに圧倒的だった。七之助さんの夜長姫は、毬谷友子がある意味極めた形を踏襲するのではなくて、七之助さんだからできる、歌舞伎役者だからできる、女形だからできる表現になっているのがとてもよかった。あの、「わたしはおまえと…もとい、おまえはわたしとでなきゃ生きていけないのよ」「だからお前が転がるなら、わたしもころがっていくよ」という夜長姫の耳男に見せる顔がなによりもかわいく、だからこそ、あのきりきり舞いのおそろしさが、その深淵の昏さがおそろしく思える夜長姫だった。

マナコの猿弥さんの遊び心やそのケレン味もふくめて、どんどん波に乗っていきそうな感じがある。細かいところでもぐいぐい芝居を詰めてきていて、俗物マナコのかわいさとかっこよさが共存していてよかった。マナコが言う、オニの息吹がかかるところがないと、この世はダメな気がする、という台詞は私がこの芝居でいちばん好きな台詞でもある。

これは非常に個人的な感覚だけれど、あの当時の野田秀樹の書いたものを、「理解」しようという気がそもそもないというか、あの人の書いたものを完全に理解するなんて、土台無理な話である、というところがある。だから、この桜の森の満開の下も、わかっているのかと言われれば、いいえと答えた方がいいのかもしれないと思う。でも久しぶりにこうして舞台で見て、これは目に見えないものをめぐる物語なんだなあということを改めて感じた。敗者となり、歴史の花道に戻らずに、つまり「書き残されずに」散ったものや、こわいけれども見つめてしまうものの正体や、芸術というもの…すきなものは、呪うか、殺すか、争うかしなくてはいけないのよ、というその台詞そのものが、この舞台であるように思えた。

勘九郎さん演じる耳男は、そのこわいけれども見つめてしまうものに魅入られ、けれどもやはり、永遠を下り続けていくことの怖さも感じてしまう。それは私たちの目線でもある。でも、それがわかっていても、どうしても惹かれてしまう。夜長姫が鬼面となってからの展開は、初演と本当にほぼ寸分違わない作りだが、ここはさすがに自家薬籠中のものというか、所作の素晴らしさは圧巻だった。夜長姫を喪う耳男の慟哭と、あの打掛と、舞い上がる花びら…あの瞬間にまた、私たちも自分の中の目に見えない何かを喪っていて、だからこそ、わけもわからずに涙が出てしまうんだろうとおもう。そういう喪失をあの温度で感じ続け、演じ続ける勘九郎さんの誠実さが、とてもよく出ていた耳男だった。

初日のカーテンコール、三度目かで、勘九郎さんが七之助さんにふと声をかけられ、客席に誰かを探すようなそぶりを見せた。ややあって、1階の後方にいた野田さんが、花道から、歌舞伎座の舞台に駆けていった。やはり勘三郎さんのことを思い出した。この後姿を見ているだろうか、と思った。私は見たよ、ずっと夢に見ていたこの日、この舞台、この光景を。夢をかなえてくださったこと、感謝します。夢が夢でなく現実になったこの日のことを、きっと、ずっと、忘れません。