「ファインディング・ネバーランド」

  • シアターオーブ 1階14列45番
  • 脚本 ジェームズ・グラハム 演出 ダイアン・パウル


もともとまったく観に行く予定にしていなかったんですが、観劇仲間の激賛が立て続けにあったのと、その激賛の温度からして「これは行っておいたほうがいいのでは…」という勘が働き、1週間前にチケットをおさえました。

行ってよかった!(床に大の字)

ピーターパンの物語自体はそれこそ子供の頃に触れた、と思うし、というかここで「思う」って単語をつけてしまうぐらいピーターパン自体にはまったく思い入れがなく、映画になったという「ネバーランド」も未見。「ファインディング・ネバーランド」のタイトルもTLでミュージカル好きのお友達のツイートで見た気はするけれど…というのがこの舞台を見る前の私の状態で、つまり思い入れも予備知識も限りなく低い!というものだったわけです。

物語は「ピーターパン」の作者であるJ.M.バリが、この物語を書くきっかけとなったある家族との出会いを中心に描かれており、その舞台が上演されるまでのサブストーリーがこれに寄り添っています。著名な劇作家であるバリは「何を書いても自分で自分の模倣をしてしまう」スランプに陥っていますが、現実を現実としてではなく、世界のいたるところに空想と妄想の世界を見いだす子供たちと触れることによって、かつて自分が書きたいと思っていた衝動を取り戻していくが…というストーリー。

いやー正直、自分でもどうかと思うほどに泣きました。芝居の感想で「泣けた!」みたいなことをいの一番に言うのがいいのか悪いのかわからないけれど、事実なのだからしょうがない。文字通り涙の海に沈められてしまい、それもほろっと涙がこぼれる、というようなものではなくて、そこが人前じゃなかったら声を出して泣き伏してしまいたいような感じでした。いや盛ってない。全然盛ってないです。でも悲しくて泣いたわけじゃない。本当に自分でもこの涙がどこからくるのかよくわからない。あえて言うならただひたすら「心を揺さぶられた」ということに尽きます。

さっきから感想を書こうとして、書きたいことはいろいろあふれてくるのに、文字にしたとたん「いやそういうことじゃない」「こんなことじゃないんだ」って思ってしまって全然書き進めることができない。あの舞台でもらったものを言葉にするのはほんとうにむずかしい!でも、どんなだめな文章でもあとになって読み返した時、ああそうだったな、あの時書いておいてよかったって思うことができる、はず、と信じて書き続けます。

「物語る」こと、そして「芝居を作る」ことが両輪となっている舞台なので、もう隅から隅まで自分のツボにクリティカルヒットしすぎて参りました。ディナーパーティでの空想の世界とあのダンスの楽しさに芝居好きの心がワクワクしたかとおもえば、子ども部屋でまだ寝たくない、とせがむマイケルや、一瞬ふわっと浮き上がる子供たちの姿に本の中の登場人物と握手をしていた自分の子ども時代がよみがえったり、かと思えばすべての道が閉ざされ(たかに思え)て自分らしく生きるということを投げ出そうとするバリに、心の中に住むもう一人のバリがフック船長の姿を借りて檄を飛ばしにくると、オトナな自分の心もボウボウメラメラ燃え盛ってしまうしっていうね!幼少時しぬほどマザーグースを読んだ身には歌詞に使われるだけで思わず心が沸き立つのに、それが「お芝居(play)って遊ぶ(play)こと」なんて歌の中で歌われるんだから、興奮するなって言われてもそりゃ無理!って話ですよ。

二幕では、観客を「おどろかせる」なんてもってほかだ、と言っていたフローマンがこの「ピーターパン」上演に心を砕いているのがいいし、座組が半信半疑ながらもだんだんと「演じる=遊ぶ」ことの原点に立ち返っていくのもすばらしかった。個人的に「迷子!すばらしいわ。生き地獄への道すがらの迷子かしらそれとも自分探しの途中?」「いや、ただの迷子」「いつ、どこで?どうやって?」「…迷子になったことある?」「いま 迷子です」のやりとりしぬほど好きです。役者が自己顕示欲と物語への忠誠心で揺れる感じもすごく面白く描かれてよかったなー。あの初日の舞台裏を見せるとこ、舞台裏とピーターたちの子ども部屋がシームレスに展開していくとこ、ひとつの「芝居」を作り上げるまでのあれやこれやのすべてが楽しくて愛おしかった。

そして、私がなによりもこの舞台でもっとも心揺さぶられたのは、いろんなものを失って、それでも創造の原点に、自分の中の衝動という原点に立ち返ったバリが、その力をくれたたったひとりの女性と、彼女が愛する子供たちに、とびっきりの物語を贈ったというところです。ピーターパンの物語を書いた、ということだけではなく、彼女らが立ち向かう現実に、物語の、ファンタジーの粉をふりかけてあげたこと。物語にどれだけ耽溺しても、空想の世界に遊んでも、現実は変わらないないし、いつだって残酷だし、愛するひとは皆去っていってしまう。でも物語はほんのすこしだけ、その現実の色を変えることができる。ティンカーベルの光を手にしたシルヴィアが、いつしかウェンディの姿になり、妖精の粉に包まれるその瞬間…まるで切なさと美しさを結晶にしたようでした。文字通り舞台における「魔法」そのものだったし、今思い返しても、涙が止まりません。

そしてこの美しい舞台を具現化する演出の見事さ、キャストの力量!一幕のラスト、公演のベンチがみるみるうちに船の帆先に姿を変え、帆船となり帆がいっぱいの風を受けるさま、ゴーストライトを挟んだジェームスとシルヴィアの影法師のダンス、テーブルや椅子がどんどん形を変えて違うものに見せていくおもしろさ!二幕のクライマックス、あのティンクが死んじゃう、妖精を信じるひとは手を叩いて!のあの演出も、もうねえあの流れできたら、そしてまっさきにおばあ様が「信じるわ!」って手を叩いてるの見たら、号泣しながら痛くなるほど手を叩くしかないし(おばあ様の歌うネバーランドのリプライズな…!)、ここにきてぐいぐい観客を巻き込んでいくのが本当にすごい。「ネバーランド」の美しい旋律が聞こえてくるだけでもう泣けてしまうし、でもってあのラストですよ。妖精の粉のなかで、シルヴィアのガウンだけが舞い続ける…もう、あの演出だけで5億点。5億点です。あれこそ演劇というものがもつ武器を結晶にしたようなシーンだとおもう。絶対に映像ではあれはできない。いや、やるのは簡単でしょう、でも簡単にできるからこそ、あれだけ多くの意味を持たせることはできない。観客はあの風に舞うガウンに何を見てもいい。妖精の姿を見てもいい、空を飛んでいるウェンディを見てもいい、逝ってしまった女性の想いを見てもいい…。まさに「観客の想像力がシーンを完成させる」のです。こんな演劇的愉悦があるでしょうか。

これ書きながらも正直どうかと思うほど泣いていて、今、ボックスティッシュがなくなりました(どうでもいい)。私は土曜日のマチネを見た後、その日のソワレと日曜のマチネにはべつの芝居を入れていたので、あああああもういっかい見たい!でも物理的に無理〜〜と諦めていたのですが、千穐楽当日のお友達のふとしたツイートであれ…ひょっとして…夕方も公演あるの!?ということに気がつき、気がついたもののいやそんな…初台で4時に終わって5時に渋谷とか…って頑張れば間に合うじゃん…いやいや7時半に終わって高松まで帰れな…いや…ギリ帰れる…!?と思ったときにはオーブに向かいそうになりました。やめました。よく考えて私!当日券は開演の1時間半前から発売だから!今行っても買えない!そんな観劇者の常識まで頭から抜け落ちるシマツでしたが、かくも無理矢理な強行軍を突破して大千穐楽も「観ちゃった(はあと)」んだからこのミュージカルの持つパワーおそるべしです。

がんばって感想を書いたけれど、自分でもいやになるぐらい、まっっったく魅力を伝えきれてないです。っていうかまだまだたくさん書きたいことがあると思うのにぜんぜん言葉にならない。指ぬきとどんぐりとかさー!大人になるって、分別を持つってことじゃなくって、誰かの痛む心をおもって指ぬきをあげたり、お返しにどんぐりをあげたりすることなんじゃないかいと思うんだ。いやもう、百聞は一見に如かず、再来年には日本版の上演が決定しています。すべてのクリエイター、すべてのオーディエンス、かつて子供だったすべてのひとにぜひ観ていただきたいミュージカルです。ほんとうに、最高の舞台でした!