「消えていくなら朝」

  • 新国立劇場小劇場 D2列5番
  • 作 蓬莱竜太 演出 宮田慶子 

蓬莱竜太さん新作。宮田慶子芸術監督はこの作品を最後に芸術監督を退かれるとのこと。蓬莱さんで新国立、というと私のその年のベスト1である「エネミイ」が思い出され、中劇場と迷った挙句こちらを観劇。

観ながら途中で、あれ?これ…うちの話?と思ってしまう瞬間があったのだが、感想を検索していると、そういうふうに思った観客が少なくないようで、そこでまず唸った。「うちの家族変わってるだろ」「べつに。普通だよ」「普通?普通かな。こんなにきりきりしてるおれがおかしいだけかな」。そういうやりとりが劇中であるが、おそらくこの芝居を観て「この家族、変わってるな」と遠巻きに見るよりも、どこか自分の家族の事情というやつに近づけて観てしまうひとのほうが多いのではないかとおもう。それはまさしく蓬莱さんの筆の冴えにほかならない。

作品の主人公は18年ぶりに故郷に帰ってきた男で、かれは東京でどうやら劇作家といわれる仕事して、そこそこ成功といっていいものを手にしているようだ。自分が省みなかった、省みることが出来なかった家族との対話。兄と弟、弟と母、妹と父、兄と母…攻守が目まぐるしく入れ替わる会話劇で、そこでぶつけられる言葉はなかなかに痛烈だ。だが、シーンが変わると、先ほどまで文字通り「相手を泣かす」まで追い詰めたもの同士が普通に会話していたりする。家族というものの根強さ、根強いからこそのおそろしさ。

どんな家族であっても、「生活を共にする」ことを延々と続けていく以上、「あのとき、ほんとうは…」という部分が絶対にあるだろうと思う。私にもあるし、私の家族にもあるだろう。もしかしたらそのことを相手は覚えていないかもしれない。いやきっと覚えていない。それを飲み込んだまま、また次の朝を迎える。何度も。何度でも。「仲が良いように表面を取り繕っているだけだ」「それは、努力!」

宗教にはまって幼い子供たちを振り回した母、末娘に「理想の息子」を夢見て、それを自覚していない父、劇作家や女優という仕事を「売れてない」の尺で語ることしか知らない兄。一瞬観ているこちらも鼻白むが、主人公である弟が兄の仕事を「えらいと思うよ、毎日通勤電車乗ってさ、下げたくない頭下げてさ…」とのたまい、思わず「なんだよその言い方は。おれたちの人生は罰ゲームか!?」と言い返す兄にはほんっとその通りだ、と強く頷いてしまう。そしてその弟自身も、自分が交際している「若い女優の卵」のことを「苦労知らずのお嬢さん」という眼鏡でしか見ることが出来ない。妹が「25の誕生日からずっとそうだった」というその気持ち、わかる、人生のある瞬間に、とつぜん「私の人生はこれの繰り返しだ」と思ってしまうときって、あるのだ。ただ欲を言えば物語の中で、彼女にも今抱えているものを空しいと思いつつしがみつく、だけではない何かがあるともっとよかったかなと思う。まあ、いちばん自分と立場が近いからこそ、そんな風に思ってしまうのでしょうが。

たぶん、この芝居を観た後、感想を語り合うとしたら、それはまず自分の「家族」のことを語ってしまうことにつながるんじゃないかと思う。やはり素晴らしい筆の冴えだ。鈴木浩介さんと山中崇さんの兄弟ぶり、よかった。どちらかだけを露悪的に書かず、どちらにも自分に近しいものを見ることができる兄弟像だった。高橋長英さんと梅沢和代さんの夫婦、さすがのうまさ。やたら悲劇的にもならず、どこかからっと乾いた質感がこの座組全体にあって、それは観ているこちらをずいぶん助けてくれたと思います。