「睾丸」ナイロン100℃

ケラさんが描く「革命の時代」の残り香。面白かったです!描かれるのは今から25年前の1993年。その1993年の世界に、25年前、まさに「学生運動華やかなりし」時代の影が思いがけなく顔を出す。

つかさんにも蜷川さんにも、そしてもちろん鴻上さんにも、あの時代に対する一筋縄ではいかない想いというようなものが作品の中に感じられたりするけれど、ケラさんにはそういう湿度がなく、どこか突き放したような目線で語られているのが新鮮でした。安井順平さん演じる七ツ森のあの薄っぺらさときたら。「総括」「自己批判」、んもう、それ言いたいだけちゃうんか!と言いたくなる25年前の彼らの姿。また、演劇を通して活動をしたいという流れで出てくる劇団名と芝居のタイトルがまた絶妙。ありそうすぎる。

観ていて気になった、というか自分が引っ張られてしまったのが、あの「台本」。25年前は確かに傑作だと思ったはずのそのホンを、書いた本人と演出家は「ほんとうにこんな話だったのか?」と首をひねるほど退屈極まりないものに感じる。一方、当時の主演女優の恋人は素晴らしいホンだといい、その主演女優自身もまだ台詞を覚えていると語ることから、そのホンのクオリティを疑ってないように見える。同じ戯曲のことを話しているとは到底思えないほど、両者の評価は食い違っている。私は最初、この台本はどこかで中身が入れ替わっているのではないか?と思い(日記をねつ造した七ツ森のエピソードがあったので、余計に)、ずっとその目線で見てしまったのだけど、しかしそのような種明しが勿論あるわけもない。それでハタと気がついたんです。「誰かが『傑作』と評したホンなら、それなりのものに違いない」と思い込んでいる自分に。同じものを見て傑作と評するひともいれば駄作と評するひともいる。当たり前のことなのに、「傑作」と「駄作」の箱はどこかで区分されて混じり合うことがないとうすらぼんやり思い込んでいる自分がいるっていうことに。

ケラさんのえらいところは、亜子がかんたんに七ツ森を赦したりしないところですね。彼から受けた扱いに対して、文字通り刃物をもって相手を追い詰める。いやーああいうシチュエーションでねえ、女がやっぱり七ツ森に惹かれてたみたいなアホな展開書いてくる作家結構いますよ。そして、何度も刃物を持ち出し、革命や世界を語っていたはずの25年前の彼らの横で、現実の世界が大きくうねり、綻びの種を蒔いているのに、革命の時代にとらわれた彼らは最後の最後まで気がつくことが出来ないというのもね、なんというかすごい脚本だなあ!と改めて思いました。

キャストは隅から隅まで言うことなくすばらしい。客演陣4人もまたぴったりはまってて3時間超の長尺をみっちり詰まった芝居で飽きさせない、飽きる隙を与えない濃密さ。安井順平さん、ほんとに求められるところを存分に発揮していたという感じ。

あと、第三舞台ファンとしてこれは書いておかないといけないのではないかと思いつつ、えーと1993年には第三舞台の公演は行われてないんですね。もうね、「アプル」「第三舞台」って単語が出た瞬間に「1992年の天使は瞳を閉じてインターナショナルバージョンかな」とかよぎるほどにはおたくなので。でも劇中で立石が言うのは芝居の時点よりもすこし前ということも考えると、実際の観劇は1992年の可能性もありますね。というか、ケラさんはもちろんちゃんとお調べになっていて、この台詞を出したのだと思うの。25年というスパンは変えられないので、そうすると一番近い公演がこのアプルの天使になるっていう。ここで、紀伊国屋ホールとか言わないでアプルと言っているのがもうね、おたく的にはさすが!と言いたい。第三舞台はほとんどアプルで公演をやっていないのでね!そして鴻上さんをチョイスしたのも、ちゃんと意図があるというか、あの世代においてもっともあの革命の時代への思い入れを隠そうとしない(デジャ・ヴュの秋田健太郎はもろに秋田明大と唐牛健太郎からとっているし、役名にハラハラとつけたり枚挙に暇がない)からこそなんだろうなっていう。かつての同志が集まって25年ぶりに芝居を打つ…ひゃーもう絶対好きそうなシチュエーションだしラジオで宣伝してくれそうっていうね!三宅さんの鴻上さんの物まねと唐突に始まるダンス、大笑いさせていただきました。

あとこれは第三舞台語りついでの蛇足の蛇足ですが、第三舞台の「ハッシャ・バイ」という作品では、有頂天の「BYE-BYE」が劇中で使用されているという、おふたりにはそんなつながりもあったりするんですよ!