「東大寺歌舞伎」

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  • 東大寺大仏殿前特設ステージ 中央ブロック7列26番

東大寺世界遺産登録20周年記念ということで、大仏殿前の特設ステージでの公演です。野外、ということで最初は迷ったんですけど、勘九郎さんの連獅子かぁ…観たいよなぁ…と思い切ってチケット取りました。ビビりなので、雨が降っても大丈夫なように近場にホテルをとって体制だけは万全にしていましたが、中村屋さんの御人徳でしょうか、連休前に続いた秋の長雨もぴたりとやみ、当日は文字通り最高の天候に恵まれました。しかも、あとで知ったんですけど翌24日が中秋の名月だったんですね。なにもかもすばらしかったです。ほんとうに、ほんとうに、心の底から、行ってよかったです。

特設ステージということで座席の配置がいまいちわからず不安もあったんですが(ちゃんと見えるかな?という意味で)、東大寺歌舞伎チケット持ってたらそのまま参拝もさせていただけたので、お昼間に参拝して今日の舞台の成功を祈願しつつ、自分の席位置あたりを鵜の目鷹の目で探しつつ(煩悩まみれだなオイ)、なんだかよさげだ!という感触を得て夜の開演を待ちました。七之助さんの「藤娘」のあと、舞台転換の時間があり、勘九郎さんと虎之介さんの「連獅子」という演目立て。

こういった野外の特設舞台で歌舞伎を拝見するのは初めての経験だったんですけど、やっぱり独特の雰囲気がありましたし、いつも拝見する舞台よりもかなり高めに舞台が設えられているということもあり、この役者の目線の違いもかなり心象を左右した気がします。なんというか、自分たちと「地続きのものでない」感覚がありました。

勘九郎さんは大河ドラマの撮影で長期間歌舞伎の舞台を休まれているうえ、役柄の関係でかなり体重を落として撮影に臨まれていると漏れ聞くので、久々の舞台でしかも連獅子の親獅子、どんなふうなのかな、とかなり緊張しましたが(なぜお前が)、いやーもう、狂言師右近の最初の出から突き抜けるようなカッコよさ、凛々しさ、動きの確かさ隅々まで神経のいきわたった手の動きの美しさ。いくつか集音マイクが設置されていましたので、所作台を踏む音もいつものスパン!というキレのある音ではないのですが、文字通りあたりに太く鳴り響く音が何度も味わえて、もうずーっとこの人の踊りを観ていたい!!!という例の発作が開始5分ぐらいで頻発していたのでそうとうやばかったです。いややばかった。それなりに長い間勘九郎さんの芝居を拝見していますが、ここまでやばいのなかなかないです。ちなみにこのあともこんな感じの語彙力を喪った感想が延々続く可能性があるのでこのあたりで回れ右しても大丈夫です。

途中、仔獅子が木の影で休み、親獅子がその姿を探すところで、ちょうど東大寺の鐘がつかれ、演出?と思ったら(冷静になって!そんなわけない)毎日夜8時に撞かれてるんですね。なんという奇跡的なタイミング。国宝の名鐘の音を聞きながら「連獅子」を観るなんてなかなかできる体験ではないです。

座席がちょうど花横に当たるような位置だったので、左近が蝶々を追って花道をはいったあと、その背中をじっと見つめる勘九郎さんの表情が良く見えて、それがほんとうになんともいえない、慈愛と、もっとなにかいろんな情愛の塊のようなものをしのばせた顔で、いやもうあの一瞬、涙がでました。

狂言亀蔵さんと小三郎さん。亀蔵さんの安定感!ゆるぎない!すごく安心して見ていられましたし、小三郎さんもきっと心強かったのではないでしょうか。客席の反応もよく、さきほどまでのビリビリと張りつめた空気が一瞬ほどける効果があってよかったです。個人的なことを言えば、それまで勘九郎さんのかっこよさにあてられすぎて息も絶え絶えだったので(いやリアルで酸素!くれ!って感じだった)、ふたりのほんわかした空気にずいぶん助けられました。間狂言って大事ね…。

このあと、舞台を照らす照明がぐっと落とされ、背後の廬舎那仏がいっそう大きく浮かび上がり、月明かりのなかで響く虫の声、風の音、木々のざわめき、ささやくような笛…決して無音ではないのに、これ以上の静寂はない、というほどのしん、とした空気。あの一瞬は忘れがたい。その中に現れた親獅子と仔獅子が、文字通り伝説の神の使いに見えた一瞬でした。

舞台の広さもいつもと違うし、獅子の台が設えられてから感覚が違うところもあったかもしれませんが(勘九郎さんが牡丹の枝にぶつかる場面も)、それをものともしない気迫のこもった踊り、見事の一語です。虎之介さん、後半やはり疲労があったか、片足でふんばりきれないところもあったりしたんだけど、それがまた親獅子に必死にくらいつく仔獅子そのものにも見えたりして、ぐっときてしまった。最後の毛振りも文字通りその必死さがよく出てました。でもって勘九郎さん、途中まではなんというか、節度ある毛振りだったんですけど、最後に「はい、ここでリミッター解除しまーす」みたいな瞬間があって、そこからがなんかもう、尋常じゃなかった。どうなってんのあのひとの首とか腰とか下半身とか。速さもだけど、なによりその速さに身体がまったくもってかれてない。そらおそろしい。おそろしすぎて身を乗り出すんじゃなくてのけぞりそうになったっていう。いやもうすごいというよりなんかこわいものみた!!!って感じでしたよ…。

幕がないから、最後どうするのかな、と思ったら獅子の台についたまま、溶暗していく暗転で終幕でした。この溶暗していくのがまた、背後の大仏殿のあかりとのバランスが美しくて、か、か、かんぺきかよ~~~!!と心の大喝采が出たわたしです。

その暗転での終幕が最高だったので、そのまま終演でもよかったぐらいなんですが、さすがに明かりがついてカーテンコール?らしき場面がありました。そりゃそうだよねあのままじゃハケられないよねみんな暗くて。虎之介さんが恐縮しきりでわたわたしてたのかわいかった。勘九郎さん、さっきまでの人外ぶりから一転して中村屋のお兄ちゃんの顔でした。虎之介さんに中央で挨拶するよう促すところとか、ぱっとふりかえって大仏さまに拍手を、と促すところとか、そしてふり返ってきちんと手を合わせてらっしゃるところとか。

帰路に就くと、頭上に月があかるく輝いていて、ほんとうに…夢のような時間だったな、と思いました。

贔屓の引き倒しのようなことをいうと、私は勘九郎さんの踊りにはどこか神性なところがあると思っていて、この世ならざるものに捧げられているもの、という純度の高い美しさを感じられるところが本当に大好きなのですが、洋の東西問わず、舞踊の起源ってそういうものなんじゃないかと思うんですよね。ほんとうにすばらしいときの勘九郎さんには、その捧げるものになっているような、透明ないれものになっているような、美しさがある。この日は、東大寺大仏殿という、長い長い時間を超えてたくさんのひとが信じてきたもの、その眼前での踊りということもあり、まさしく私の大好きな、そして尊敬してやまない勘九郎さんの踊る姿を観ることができて、ファンとしてこれ以上の幸せはなかったです。

私が最後に連獅子をみたときの勘九郎さんはまだ勘太郎さんで、仔獅子で、勘三郎さんが親獅子で、七之助さんと三人の連獅子は、ファンにも愛され、演者にも愛された演目で、きっと、これからずっと観ることができるんだろうと信じて疑っていませんでした。突然取り上げられたように勘九郎さんの仔獅子とお別れしたから、切ない気持ちになったりするのかななんて思ってたんですけど、でもこの日の勘九郎さんを観たら、もうその大きさが仔獅子の器からはたぶんあふれてしまってただろうなと思いましたし、そういう過程に立ち会えるのも、歌舞伎ファンの楽しみのひとつなんだなということを実感した気がします。まさに一期一会の、得難い観劇体験でした。すばらしかった。勘九郎さんのファンになれて幸せです。