端境のひと

第三舞台の制作をつとめられ、サードステージやヴィレッヂの社長を歴任された演劇プロデューサー、細川展裕さんが本を出版されました。

言うまでもなく、私が最初に認識した「演劇制作者」は細川さんでした。ビシッとしたスーツ姿を劇場入り口でよくお見かけしました。当時一緒に第三舞台の公演を見た母は「あの人(細川さん)がどの役者より男前」と言ってたほどで、それもわかる!たしかにむちゃくちゃダンディでした。

第三舞台ファンには周知の事実ですが、この本にあるとおり、細川さんは演劇畑から制作の仕事を始めた方ではありません。最初は一緒に芝居をやっていて、そのうちなんとなく毎回その人が制作的な仕事を仕切っていて、そのまま制作としておさまる…という轍を踏んだのではなく、大学を卒業してケンウッドに就職までされていたのに、鴻上さんの幼なじみであるというそのただ一点で鴻上さんに声をかけられ、会社をやめて第三舞台の制作を引き受けることになったんですよね。

演劇制作者が本を出版すること自体はさほど珍しくないというか、それこそ夢の遊眠社を支えた高萩宏さんの「僕と演劇と夢の遊眠社」だったり、大人計画社長である長坂まき子さんの「大人計画社長日記」だったりと細川さんに近しい世代の方でも「劇団あれやこれや」を書かれている方は沢山います。今回の細川さんの本、読んでいて思ったのは、細川さんはまず基本的に「ものを書く」という習慣そのものがない方なんだろうなってことです(笑)繰り返されるオヤジギャグ…というべきなのか死語というべきなのか…を読みながらか、かわいいひとだなあとによによしました。一生懸命書いた感がほんとうにすごい。盟友ともいうべき鴻上さんがあれだけコトバにモノ言わせる商売をしているのとは対照的です。でも、鴻上さんとの対談で語られている「なぜ鴻上さんが細川さんを制作に誘ったのか」という答えも、こういうところにあるような気がします。というか鴻上さんは本当に徹底して、理解しようとすることと崇めることはむしろ真逆のことで、自分を崇拝する人間に用はない、と思ってらっしゃることがよくわかります。

しかし、言うまでもなく、小劇場において前人未到の発展を遂げた東西ふたつの劇団の制作(それこそ、どちらも「もっともチケットが取れない劇団」と呼ばれたことがある)を担っていたのが同一人物なんですから、これは単なる運とかそういう話ではなく、第三舞台も新感線も、細川さんがいなければあそこまで規模を拡大することはできなかったんだろうと思います。ファンにとってそれがよかったかどうかはまた別です。しかし細川さんがいなければ確実に停滞した集団になっていただろうし、もしそうなっていたら、私はどこかの時点で第三舞台とも新感線とも離れることになったんではないかという気がしています。

巻末の細川さんのお仕事年表を見ると、当たり前なんですが「ほぼ見てる…」ってなりますし、本の中に出てくるさまざまな公演も自分の身におぼえのあることばかりなので、「そうそう、そうだったよね~」とか「なつかしい!!!」とか「えっあの時そんなことが?」の連打すぎていやはや読んでいる間ずっとニヤニヤしたやばいひとでした。第三舞台はあの絶頂期に「優先予約」なんてものを一切してくれず、ただアンケートを書いたお客さんに「OTTS」というダイレクトメールがくるだけだったんですが、この単語に思わず「OTTS~~~~~!!!!!おなつかしうございます!!!!」と叫びそうになりました。今でも全部とってあります…どれだけなめるように読んだことか…。あれ中島隆裕さんのアイデアだったんですね(今はイキウメの制作をされてらっしゃいますね)。いやもうひとつひとつ書いてたらこのエントリ終わりません。

細川さんを訪ねて「関西で劇団をやっているものですが東京での動員を増やしたい」てやってきたのが当時ピスタチオに在籍していた佐々木蔵之介さんだったとか、「ビー・ヒア・ナウ」で役者が客だしやって大パニックになったのって千秋楽じゃなかったっけ?(その場にいた)とか、堺雅人さんが「スナフキンの手紙」のバラしを手伝っていたとか、その堺さんは蛮幽鬼のキャスティングで細川さんが「剣道2段です」って大ウソこいたけど実は体育2だったとか、最初のプロデュース公演「大恋愛」が生まれるきっかけとか、「忍法・俺も知らなかったんだよ」の炸裂とか、ぐるぐる劇場は4年プランで打診されてたけど2年が限界です!!!って断ったとか、天海さんに「オスカルみたいな感じで」と言ったらいい声で「私、オスカルやってないから!アンドレだから!」って言い放たれたとか、ワカのときのおぐりんまじ潰れる3秒前だったんだねとか、鋼鉄番長で降板したじゅんさんをお見舞いにいったら「(払戻公演の)お金はどうするんでしょうか?」って聞かれたとか(じゅんさん~~~~!涙)、サダヲちゃんが賞をもらったことのない細川さんに自筆で「阿部サダヲ演劇賞」と書いて賞状をあげたとか(サダヲ~~~~!涙)、マジで枚挙にいとまがないほど、あの人この人のあんな話こんな話の連打です。

2013年にいちど、御両親の介護ということで愛媛に帰られ、引退する…という話があったのに(「断色」の公演のときですね)、その後もお名前があるのを見て「?」とは思っていたのですが、なるほどそういうご事情だったのか…というのもこの本を読んでわかりました。本当に人生は設計図通りには動かないもんですね。

いのうえさんと古田さんとの鼎談では、古ちんが「ニョロ」と呼んでいる細川さん(ホント古田って自分しか呼ばないあだ名つけるの好きだね…)をいかに信頼してるかっていうのが感じられたり、その中の芝居の尺の問題で細川さんが「尺の問題は重要、お客さんは自分の社会生活の2時間・3時間を切り取って劇場にきているわけだから」古田「これがニョロの考え方です。社会生活の中で2時間切り取られる恐ろしさをわかってる」ってホンマええこと言う!!!!でもそういうキミんとこが今一番尺が長い!!!ってなったのは許していただきたい…(笑)

細川さんは一貫して、作品には一切口を出さない、それは鴻上さんなりいのうえさんなりが「おもしろいものをつくってくれる」という前提で仕事をしているから。口を出すのは尺のことだけ。その腹のくくり方はさすがだなと思いますし、文字通りド素人集団だった学生劇団を、お金をとれるプロに変えていく、そのために何が必要かということ常に考え、そして興行を打つ、チケットを売るということは、客との約束を売るということなんだということを真から理解されている。そういう人が学生劇団にもたらした変化による恩恵を、わたしは自分の人生でめいっぱい享受してきたんだなと改めて思いましたし、そういう意味では細川さんこそが私の人生を変えたひとなのかもしれません。

あと、ほんとこれはどうしても書いておきたいんだけど、細川さんはほんとーに鴻上さんのことがだいすきなんだなっておもいました。なんでひらがな?うん、そう、だいすきなんですよ。細川さんの書く「役者とはこういう生き物」の言葉のチョイスとか、まんま鴻上イズムやん!って思いますし、鴻上さんがロンドン行っちゃってる間「ポッカーンとしてた」って古田に言われちゃってるし、ほんとこういう、製作者と制作者の間にあるものも含めて、自分は第三舞台に入れ込んでいたんだなあと思います。第三舞台のDVD BOXが発売された時、副音声ゲストで細川さんがでたものがあるんですが、そのときに細川さんが言った「鴻上にはまた新作で、大いなる虚構を語ってもらいたい」って言葉は、今でも忘れられません。

わかるひとだけがわかればいい、というスタンスでもなく、儲かればいい、というスタンスでもなく、小劇場演劇と商業演劇の端境をずーっと走り続けていた、走り続けているひとだと思いますし、できればまだまだその恩恵にあずからせていただきたい所存です。私の演劇人生に太線でびっしりその年表が関与してくる方のものされた「演劇プロデューサーという仕事」、たいへん面白く楽しく拝読させていただきました。