「伝心~玉三郎かぶき女方考~」が尊いので見てくれ

NHK Eテレで現在不定期放送中の「にっぽんの芸能 伝心~玉三郎かぶき女方考」、今までに4回放送されているんだけど、いやもう放送される度にあまりの尊さ、有り難さに画面に向かって拝むしかない、そんな心境になる番組なんですよ。いやなんでもかんでも尊いで片付けるなよって向きもあろうかと思いますし、実際そういう紋切り型の言葉でこの番組の凄さは表現しきれないとも思う!思うけれども!それでもあえて「尊い…」と言わせてしまうこの威力がこの番組にはある!

第1回のときに紹介がありましたが、この番組は平成26年から「にっぽんの芸能」で取材を続けているもので、だいたいぜんぶで40回ぐらいを予定しているそう。40回ですよ!?今まで見てなかったひとでもこのあとから見れば9割見たことになるじゃないですか(当たり前ですけど毎回違うお役についての解説なので、前4回見てないからどうこうなんてことはまったくございません)。過去4回のラインナップは第1回が「京鹿子娘道成寺」、第2回「壇浦兜軍記 阿古屋」、第3回「伽羅先代萩 政岡」、第4回「仮名手本忠臣蔵 お軽」。いずれも女方の最高峰、難役、限られたものだけがゆるされた…等々の冠言葉がつくような作品がずらっと並んでおります。

この番組のすごいところは、その限られた者だけが体験する演技の世界で、玉三郎さんご自身が長年、何百回何千回と踏んできた板の上で学んだこと、気づかれたこと、考えたこと、つまりはそのお役を演じるうえでのエッセンスを、惜しげもなく披露されているというところです。あれですよ、秘伝の書とか一子相伝の巻物とか、そういうものをプリントして皆に配ってくれちゃうみたいなことですよ。え!?いいの!?そんなこと教えてもらっていいの!?そんな気持ちにもなろうってもんですよ。

ここで初回の玉三郎さんのお言葉を引用させていただきますね。

言葉だけでは伝わらない、書物だけでは伝わらない雰囲気やそして形などをしっかり見ていただくことができると思うのです。これは現代を生きる歌舞伎俳優たち、そしてまた私が会うことのないかもしれない世代の将来の歌舞伎俳優たちのためだけのものではありません。歌舞伎を愛する人たち、そしてひいては舞台芸術愛する人たちに多く見ていただければというのが私の願いでございます。舞台芸術をより楽しく見るための道しるべになればと考えております。

そこなんですよ(どこなんですよ)、ここで玉三郎さんが仰っている通りね、私はこれを歌舞伎が好き!という人以外にもぜひぜひ見て欲しいと思っているのだ。舞台芸術を愛するひとならきっとどこか感じるところがあると思うし、ないとしても絶対に楽しんでもらえると思うのだ。実際に歌舞伎を観に足を運ぶかどうかはさておいて、こんな第1級のガイドがタダで!「実質タダ」じゃない、文字通り無料で誰でも見ることができる、マジのマジで破格すぎる!と思うわけです。

私は亡くなった勘三郎さんをきっかけとして歌舞伎にもぽちぽち足を運ぶようになった人間ですけれども、でもなんつーか、系統立てて歌舞伎を観ていこうとか、学ぼうとか、勉強しようとか、そういう意識がほとんどなく、永遠のトーシローでございます、というような開き直ったようなところがあるわけですが(それの良し悪しはちと置いといてくだせえ)、でも歌舞伎に限らず「芝居」「舞台芸術」というものが、やっぱり好きだし、たぶんもうここまできたらこの情熱は人生の最終盤まで続くんじゃないかって気がしてるんです。

でも私だけじゃなくて、みんな大小はあれど「ひとが何かを演じる」ってことに、それが舞台でもテレビでも映画でも、なんらかの興味をもってるひとって少なくない、はずじゃないですか。だからこそこうして何百という作品が、物語が生まれては消えていくわけじゃないですか。その中で、歴史を超えて残ってきた強度のある物語を、鍛錬した役者が演じる、その時に何を考えるのかってことが、面白くないわけないとおもうんですよ。誰にとっても、この番組は大御馳走になる可能性のあるものだと思うんですよ。

もうね、見ていて、こ、こ、この名言を書き起こしたいぃぃぃぃ!!!という欲がこれほど止まらない番組はないです。ということで今までの放送分から、私が特に打たれた名言をいくつかピックアップ。

「重力に一生縛られていた人間が、重力から解放される瞬間を共有するということが「おどる」ということの大きな意味でもあるんじゃないでしょうか。何か重力を感じない夢幻的世界、あるいは非現実的な空間にお互い(演者と観客)が居合わせたという清涼感が舞踊には一番大切なような気がいたします」

「華やかな歌舞伎舞踊ですけれども、見た人の心の中には清姫の、あるいは人間のかなわぬ恨みというか人生が見えてくるんでしょう。その2つのどちらが重いかということは簡単には言えません。華やかな踊りを見せるだけでしたら簡単でしょうし、恨みを見せるだけでしたら簡単でしょう、それが編み込まれていって簡単に解説できないところにもっていくのが芸術というものなのではないでしょうか」

これが演劇の不思議なところで、演じている役者は消えていかなければならないけど、演じ手の魂だけは半透明に見えていかないと役の中に魂が入っていかないんです。でもお客様もそうでしょうね。阿古屋を観ているけれども、どこかその役者の魂と交感しているところが見えるから「誰々の阿古屋」ということにもなるんでしょうね。しかし、どこを基盤に楽器を鳴らしていくか、役に成っていくかということは、自分の人生を基盤にして役を立ち上げていくわけでしょ。だから自分をゼロにしては考えられないが、自分が見えなくなるところまではやっていかなくちゃいけない。

心が会話するところに、芝居だけでないものが通わなければ芝居を突き抜けることができない。ってことは人生を感じることができないってことです。まあ魂と言ってもいいでしょうし、心と言ってもいいでしょうし、また書かれた戯曲に生きた人間を植え付けることができないと言ったらいいでしょうか。

なんのために積み上げたかっていうと、60過ぎた女方が、二十歳前後の役をやるための積み上げなんです。仕草じゃなくて自分の中を一瞬若い女が通過するかっていうことを、開いてから引っ込むまでやってかなきゃいけない。もしかしたら10秒の積み上げは10年かもしれない。ウソがばれない1分間を過ごすには何十年か積み上げてきたのかもわからないんです。演技、あるいは細かいこと、積み上げたことが見えないところまでやらなければならないんです。

こうして改めて書き起こしてみると、玉三郎さんがいかに戯曲を深く読み込んで、その求められる歌舞伎の型にご自分が練り上げたものを流し込まれて役を作られているかというのがよくわかりますし、何度も言いますがそれをこうしてカラッとツルッとお話になってくださるっていうね…!やっぱり尊いとしか言えないじゃないですか。

私は過去の4回のなかで「阿古屋」の回が特に好きで何度も見返してるんですけども、そのなかで玉三郎さんが阿古屋の詞章の素晴らしさにふれ(本当に、文字通り声に出して読みたい日本語)、「馴れ初めから帯を解いて『終わりなければ始めもない』、時間を忘れるほどの二人の愛の時を過ごした、そしてあっと思ったら秋の風が吹いて引き離されてしまうところまで、5分も経たない内に語れてしまうこの文章の素晴らしさ。ここに追いつけるかしらと思いながらやってるんですけども」って仰ってるんですよね。この台詞に対する畏敬の念。阿古屋の文字通り第一人者中の第一人者がですよ、「詞章の素晴らしさに追いつけるかしら」と思いながらつとめていらっしゃるってもう…
すごない!?
すごない!?!?!?(語彙喪失)

蜷川幸雄さんがいつも藤原竜也さんに口癖のように言っていたという、「もっと自分を疑え」「このままでいいのか」って言葉をね、なんだか思い出してしまうわけです。目の前の台詞に対して常に謙虚であること、口で言うのは簡単ですけど、それをこの長きにわたって持ち続けていられるっていやもう、頭が下がりすぎて地中にめり込む勢いですよ。

世の中に俳優、役者は数あれど、歌舞伎役者ほど常に板の上に立ち続けているひとたちってそうはいないと思いますし、客の前だからこそ学べること、客の前でなければ学べないことがきっと地層のようにその身体に刻まれていってるんじゃないかと思うんですよね。その世界の文字通りトップランナーのおひとりが、後進に伝えるために、そして舞台をより楽しんでもらうために言葉を尽くしてくださっている。そして我々はそれをお茶の間に居ながらにして受け取ることができる。玉さますごいしテレビすごいしNHKすごいしEテレすごい。ぜひ何かの折に「おっこれなんか尊いとか連呼してたやつじゃん」って番組表で気がつかれたら、ぜひ一度ご覧になっていただきたい。興味のある、耳にしたことのある演目のときだけでも勿論ぜんぜん大丈夫。この真髄の髄をできるだけたくさんのひとに見てもらいたい、ってお前はいったいなんなんだよって感じですがそう思っちゃうので仕方ない。どうぞよろしくお願いいたします!