「髑髏城の七人 season月」(下弦・上弦)


2017年の内に見たいなと思っていましたが前半はチケット運に恵まれず、年明け早々に2日連続で見ました。観た席もほとんど同じ(1列違いの同番)で、キャスト総入れ替えとはいえ筋立ては同じなので、2作品まとめての感想ということで。

観た席がほぼ同じとはいえ、下弦は前列(と前々列)の人の頭がかぶって舞台の中央がほぼ見えないという事態になっており、端の席だったのでいろいろ身体を動かしてみたりもしましたがむなしい努力でしたね。座席に深くまっすぐ座ると正面は舞台の端っこ、というのも舞台に比べて客席がほとんど湾曲していないので舞台を見るにはどうしても体を傾けないといけないがそうすると前列の頭がかぶるというなかなかに修行な時間でした。

さて、上弦・下弦で過去作と大きく変更があったのは沙霧の役が「霧丸」という新しいキャラクターに生まれ変わった点、それから捨之介が「不殺」のキャラというか、天魔王を「倒す」ことを目的とせず「止める」ことを目的とするというところに変わった点でしょうか。再演を重ねるにつれ、沙霧という役の重さがどんどん失われているなと感じていましたが、今回霧丸というキャラになっても作劇の進行にほとんど何の影響もないのを見てますますそれを実感しました。というか、ここまでさんざんっぱら事態を強引にまとめてきてた台詞「女にはわかるものよ」は本当に何の意味もなさない台詞だったんだなーと。あと、もともと沙霧は熊木衆の仲間からひとり逃げることを託され、その手土産として絵図面を持ち、「駿府徳川家康のところに行け、家康なら調子のいい野郎だから適当にべんちゃらいっときゃなんとかなるって、そうじいちゃんが」というその構図がまったくないものとなっており、正直「霧丸それでお前…なにがしたいんや」感は否めなかったです。逃げたいのか?仇を討ちたいのか?討ちたいのだとして策を考えているのか?単なる無謀な突撃しか頭にないのか?かれの行動が場面場面でいいようにあっちに振られこっちに振られていた印象です。

その霧丸を諭して未来に生きることを諫言するのが捨之介で、それが今回のこのふたりの「絆」ってことになるわけですが、なかなかにその一点だけで説得力をもたせるのは至難の業だな〜という感じでした。そもそも捨が「天魔王を倒すんじゃない、止めるんだ」とか言い出して個人的にはうへぇ、となったクチです。ごめん、そういうどっちつかずのヒューマニズムこの芝居に求めてない。そもそもこうした「不殺」のヒーローをかっこよくみせるのはめちゃくちゃ難しい(し、そもそも他のシーンではバッサバサ斬っているので不殺ってわけでもない)。豊臣に降れってあそこで言います?いや降ったら百発百中死にますよね。ああいうのは「法の裁き」が曲がりなりにも機能している場合には有効なくどきかもしれませんが、「よりひどく死ね」と言ってるのと同じと思うが…って感じです。恨みをもって殺す、という行動をよしとしないという点を捨と霧丸の絆として描いちゃってるがゆえの歪みというか。

それからこれは今回の「月」に限らずですが、いつの頃からか「天魔王と蘭兵衛がめっちゃ強くて捨之介はふたりにはちょっと及ばない」という力関係になってるのがね…解せん。そこ変える必要なくないかーと言いたいですし髑髏城で捨がとらわれるのも、もともと沙霧につけられた傷というハンデがあって初めて負ける、という構図だったのではっていう。捨はいつだってのんしゃらんとしているけれど、本気になったら天魔王が束になってもかなわない(だから無敵の鎧を着ている)というのがやっぱり好きだし、それこそが私のおもう新感線活劇のセンターなんですよね。そういう点からすると、「おれにはみんながいる!」みたいなのもそれでは燃え上がらないだよわしの心は…という感じ。

今回上演時間がいちばん長くなってて、見ながら、ああこういうシーンを入れたから…なるほどここで…とか思ってたんですけど、そう思わせるってこと自体やっぱり組み込みがうまくいってないんだと思います。キャラが変わって新しくいれた場面があるのなら、削る場面だってあっていい。兵庫と極楽のラストのやりとりも、もういいんじゃねえか?という気になっちゃいました。というか今回、初演の極楽をやった羽野晶紀さんと再演とアオで極楽をやった高田聖子さんがそれぞれ極楽をつとめていて、だからなのかあの「お金出しても、お金出しても、あなたの想いは叶わない!」「空しくない!逆です」とかの台詞もあって、だったら最後も「ただし1回金1枚」ぐらいのアッサリさでよかったのではと思ってしまいます。

それぞれで印象に残ったキャストは下弦では天魔王をやった鈴木拡樹さん、上弦は兵庫をやった須賀健太くんでしょうか。鈴木拡樹さんはマントの捌きがとても美しく、俺様な陶酔ポーズ連打の天魔王をぎりぎりいやらしくなりすぎないような線で見せていたのが好印象。天魔王は上弦の太一くんもさすがに見事な立ち回りだし、特にこの作品においては一日の長ありといった風格はありますが、想像の域を超えてくるキャラ立てではなかったというか…蘭の印象が強すぎるのもあるかもしれませんが、まだ芝居の球種が限られるところがあるなあと。それは上弦の捨の福士くんも同様で、初舞台でセリフも聞き取りやすくサマになる立ち回りをしていて立派なものだと思いますが、ここぞというときの決め球に欠ける。大きな声を出して繊細な芝居をする、ってところがもうちょっと欲しかったです。下弦の捨の宮野さんはさすがにいろんなトーンをお持ちでそこは見ていて楽しかったですね。絵面としてとにかくめちゃくちゃかっこいい!と思わせてもらえる場面がちょい薄かったのは個人的に食い足りなかったかなあ。

蘭兵衛はここのところ、どうしても早乙女太一くんのやった蘭に引きずられたキャラ造形になりがちだったので、上弦の三浦さんがそれよりもむしろ線が太めなキャラで見せていた(というか、声がそういう声)のは面白かったしよい試みだなーと。兵庫の須賀健太くんはね、さすが、さすがにうまい。キャラとしては決して私の求める兵庫像のニンではありませんが、細やかにキャラクターを立ちあげていて説得力がありました。渡京はね、伊達さんもよかったんだけど、やっぱり粟根さんに一日の長どころではない安定感があり、このひとと聖子さんが揃った上弦はなんだかんだ安心して見ていられる感がありました。新感線文法を熟知しているというか、きっちり笑いを生み出す芝居をしてくれるというか。はのぴゃの極楽も勿論いろんな意味で感無量でしたけど、聖子さんはやっぱりさすがの貫禄でした。いっけいさん千葉さんの狸穴はどちらも安定した芝居ぶり(そういえば私の見た回でいっけいさん出の場面で転んでて心配したよ〜)、まことさんしんぺーさんの贋鉄斎は決してハミでることなく忠実にやりきってるなという印象。やっぱあれだけの出番であれだけ爆発させる古田とか成志せんぱいはどっかおかしいんですよ…(褒めてる)。

4時間が長いなと思わなかったといったらウソになりますし、シーズン花鳥風月見終えて、正直お腹いっぱいだという感じがあります。なんでそう思うかというと、やっぱり味付けがどんどん濃くなっていってるからなんじゃないのかなーと。本当に一度、どシンプルな骨格に戻してほしいような気もしますが、とはいえそれを必ずしも多くの人が望んでいるわけではないというのはさすがになんとなくわかります。こうして大きなプロジェクトで、たくさんのひとが楽しんでいて、この舞台で初めて新感線を知り…というひとも勿論いらっしゃるでしょうし、だとするとまあ一言でいえば、私にとってはもはやこの芝居はnot for meなんだな、ということなのかな。「髑髏城の七人」という作品自体には言うまでもなくものすごく思い入れがあるので、そう認めるのは寂しい気持ちもありますが。