走れば間に合う、そう思って走れ

観劇を趣味にしていると、いや、観劇に限ったことではないかもしれないが、基本的に「劇場」で「ナマ」で観ることが主軸となる観劇には、多くの場合、「私はあの作品に、あの役者に、あの時代に間に合わなかった」というような後悔がつきものだったりする。私にももちろんそういうものがたくさんある。青い鳥時代の木野花さん、花組芝居時代の篠井さん、もっといえば第三舞台の岩谷さん、往年のつか戦士たちによる紀伊国屋ホールでの「熱海」。とはいえ、間に合わなかったものの数を数えていて目の前にあることを見失うことは文字通り本末転倒だ。そうして間に合っても間に合わなくても、結局わたしたちは劇場に通う。

今年の夏の新感線の公演がまたもやステージアラウンドシアターで、メタルマクベスを3バージョンのキャストで連続上演するというニュースが今朝のわたしのTLを占拠した。disc1と称された座組のトップクレジット、起き抜けの私は携帯を見てひゃーと声をあげた。橋本さとし橋本さとしが、新感線に還ってくる。

21年ぶりの新感線出演だそうだ。ということは、もはやさとしさんが居たころの新感線を知らないひとのほうが多くても不思議ではない。

へんな話だが、わたしはどこか「劇団新感線の橋本さとし」に「間に合わなかった」というような、うっすらとした後悔にも似た気持ちがどこかにあった。いや、もちろん、私はさとしさんが新感線に在籍していたころの舞台を見たことがある。何度も。だから物理的に間に合っているかいないかで言えば、完全に間に合った観客だ。でも、逆にいえば、ただ見ていただけともいえるのだった。その頃の新感線は、わたしにとって決してフェイバリットな劇団ではなかった。役者として古田さんのことは好きで、また見たいと思えていても、新感線自体にそれほど惹かれていたわけではなかった。それでも公演に足を運んでいるのは、その頃のわたしが「手あたり次第何でも見る」時期にあったからというだけだった。

だが、新感線はある時期から、打つ玉がとにかく規格外によく飛ぶ(方向はさておき)というような時代が到来して、それはその後96年の野獣郎見参、97年の髑髏城の七人、98年のSUSANOHと、「やりたいこと」と「みたいもの」が何もかもすべて音をたててはまっていくような時期を迎えることになる。しかし、橋本さとしさんは、そのさなかに劇団を離れた。その決断じたいがどうこうということではないし、そもそも、その後のさとしさんのたどった道をみれば、一種のサクセスストーリーですらあると思う。誰でもが帝劇のセンターを張れるようになれるわけではない。

しかし、私にとっては、自分が全力で新感線を追いかけ始めた時期と、さとしさんが劇団を離れた時期が、完全にクロスすることになってしまったのだった。その後もたくさんの舞台で、さとしさんをお見かけしている。じゅんさんと久しぶりに共演した「噂の男」、扇町OMS閉館のときの「オロチロックショー」、新感線を観に行くたびに、さとしさんを客演に呼んで欲しいとアンケートに書き続けた。30周年では出るのではないか、35周年で通りすがるのではないか…とあわい期待をどこかで持っていた。今の新感線にさとしさんが出たらどんな芝居を見られるのだろう。その芝居を見たい。今度は間に合いたい。

捨ててしまったものもどってこないけれどなくしたものなら急にかえってくることあるんだぜ。と、わたしの好きなアーティストが歌っているけれど、そう、一度交差して離れていった線はふたたび交錯することになった。ぐるぐる回る劇場で、あの橋本さとしが、新感線のセンターに立つ。かつて噂の男で共演した山内圭哉さんがさとしさんを評したことばが好きだ。「プレイスタイルでいったら完全なパワープレイヤーですよね。それが年々パワーアップしていることがまずすごいし、稽古でもとにかく迷わず思い切ってやることで、誰よりも早く正解にたどりつくみたいなところがある。」

あの劇場のことをわたしはまだ好きになれないし、これからも好きになれないかもしれないが、でもそう、近鉄劇場がなくなったとき、ハードの喪失を嘆くな、ソフトの喪失を嘆けと誰かが言っていた。ハードだってソフトの一部じゃないかとおもうけれど、でもそれでも、その言葉には一理があるのかもしれない。ハコはどうあれ、橋本さとしが新感線に還ってくる。私は間に合ったのだ。ながいこと何かをすきでいるのはなかなかしんどいこともあるが、こういう想いが報われることもある。わたしのほかにも、たくさんの報われた思いがあったのではないかとおもう。どこかにいるであろうそのひとたちと、ひそやかな祝杯をあげたい。おかえりなさい。