いだてんが駆け抜けるもの

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宮藤官九郎さん初の大河ドラマ「いだてん」、もちろん毎週楽しく拝見させて頂いております!日曜日にあまり予定を入れないように(とはいっても限界あるけど)してBSで見てからの本放送。放送後はついったで感想巡り。満喫とはこのことかというほどに満喫しております。しかし、私が好む大河ドラマはたいてい、視聴率のことですごくやいやい言われるので、私は慣れているんですが勘九郎さんと官九郎さんが気にやまないといいな…となどと叔母心(誰の叔母でもないが)が炸裂したりもしています。個人的には、サダヲさん主役のターンになったらちょっと回復するんじゃないかって気もするんですけどね。朝ドラの「ひよっこ」しかり、大河ドラマの主戦場たる視聴者はあのあたりの年代に独特の郷愁をいだいてそうだし、というこれは完全に希望的観測ですが。

と言いながらも、「大河ドラマらしくない」とか言われちゃうのもわからないでもないなって思うんです。むちゃくちゃ面白いドラマだけど、大河ドラマらしくはない。先日三谷幸喜さんがご自身の朝日新聞紙上の連載で宮藤さんに熱いエールを送ってらっしゃいましたが、「僕の観たい大河ドラマとはちょっと違うけど今一番注目しているドラマ」とも書かれていて、そりゃ生粋の大河ドラマヲタクの三谷さんだもんね!と思ったり。

じゃあなんで「大河ドラマらしくない」って感じてしまうのかって話なんですけど、先週の第9話「さらばシベリア鉄道」で四三が家族に絵葉書を送るシーンがありましたでしょ。それで放送が終わった後、そういえば1話で出てきた、五りんが志ん生に見せる絵葉書ってどんなんだっけ、と思って1話の録画を見返してみたんです。そしたらびっくりした。何にびっくりしたか?「このひとたち、何も知らない」ってことにびっくりしたんです。世の中にオリンピックというものがあること、スポーツというものがあること、そのスポーツによって何が養われるかということ、そういったものを、ここに出てくるひとたちのうち、誰ひとりとして知らない。たった9話の間で、ここまで意識が変容している、そのことにびっくりしたんです。

普通大河ドラマを観ていても、途中で第1話を見返して「うわっ、この人たち何もしらない」と思うことはまあないです。彼らが知らないのは自分をとりまく運命と時代の流れであって、意識の変容ではないからです。「うわっ、この人たち武士を知らない」「この人たち切腹を知らない」なんてことはないし、あったとしてもそんなことは描かない。描かれてこなかった。

主人公を取り巻く人間たちの運命と時代の流れを描くのが「大河ドラマらしい」とするのなら、「いだてん」は、今後必ず出てくるであろう、いわゆる大きな時代の流れのひとつである「戦争」が出てくるまでは、何よりも意識の変容を猛スピードで駆け抜けて描いていく作品になるんじゃないでしょうか。だとすれば、「大河ドラマらしくない」のは当たり前のことだし、それは「いだてん」という大河ドラマにとっては褒め言葉なんじゃないだろうかとさえ思います。

先日の追加キャスト発表で、人見絹枝さんのキャスティングも明らかになり、今後「女子スポーツ」という更なる意識の変容、改革にドラマの中でも乗り出すことが予想されます。今、日本に限らず世界的な潮流として、旧態依然とした意識から脱け出すことがエンタテイメントの世界でも求められる時代になってきていますよね。それに対する個々の意見はそれぞれあるでしょうが、しかしこの流れはたぶん止まらないでしょう。これはアメリカの心理学者スティーブン・ピンカーの言葉ですが、「人間は意識の方が先に変わるから、道徳が行動を追い越すと過去の基準に照らした以上に現代が野蛮に思える」という通り、変容した意識を逆行させることはできない。そしてそれと同じくらい、ドラマの中でもそうですが、「意識を変える」ということは誰にとっても難しい。当たり前に信じていたものの違う貌を見つけ、認めること。時代の流れではなく、意識と認識の流れを描く大河ドラマ。実のところ、宮藤さんは途方もないものに挑戦しているのかもしれません。