「野田版・桜の森の満開の下」

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今のところに転居してからシネマ歌舞伎とかNTLとか変則上映には縁遠くなってしまったな~と残念がっていたのですが、桜となると諦めて指をくわえちゃいられないよ!なんつって、同県内でやってくれるだけでもありがたい。ありがたい。

いろんな劇場で「贋作・桜の森の満開の下」の舞台を観てきたし、遊眠社版のDVD(最初はVHS)は数えきれないぐらい再生しているし、昨年行われた野田地図版も先日放送されたばかり。いろんなフォーマットでこの作品を見てきたけれど、思えば大スクリーンで見る、というのは初めての経験でした。

WOWOWのドキュメンタリで野田さんが仰ってましたが、休憩時間が入ることによって観客が一気に二幕で集中しだす、っていうのはわかるな、と改めて映像で見ても思いました。やっぱり前半の、おもちゃ箱をひっくり返したような展開を休憩時間でクールダウンして観客に飲み込ませる、って作業は非常に有用なんだなと。そしてこの作品の第二幕は掛け値なしにすばらしい。もはや体感15分ぐらいしかない。

寄りの表情が見られることが嬉しいシーンもあれば、いやここはもうちょっと引きの映像がいいのに、と思うところもあり、まあこういうのは実際の舞台が映像化されたときにつきものの感想ですね。オオアマの「耳男お前がオニになれ」は染さまのアップでたのむよ!とか、あの最後の殺しの場面はもっと引きで見たいよ!とかいろいろありましたが、逆に言うとそういった「舞台を観たものだけの記憶」が残っていくのはいいことなのかもしんない。映像ってやっぱり強烈だから、自分の記憶が知らないまに上書きされちゃうこともあるわけで、それは永久の楽しみを手に入れる代わりになくすものもあるってことで…あれ?なんだか贋作・桜の作品そのものにも似ていますねこれ。

夜長姫と耳男の終盤のやりとり、今日でなくちゃいけないのかい、今日でなくちゃいけないんだ…そのとき、おぶっていたのは私?からの七之助さん、もはや面をつけていなくても、スッと顔や身体、すべてのものの色が変わって「この世ならざるもの」に変化しているのが感じられる、それが舞台のマジックではなく、こうしたスクリーンを通してなお感じられるというのが、ほとほとすごい。何だったら、面をつけなくてもよいのではないかとすら思うほどです。そしてあの殺しの場面の夜長姫と耳男の動きは、初演から大まかなところは変わっていませんが、間違いなくその様式美ともいうべき美しさは歌舞伎版が群を抜いていると思います。歌舞伎って、どうしてあんなにも「殺し」の場面が美しいのだろう。ひとの極限を描くことに長けた表現方法なんだなあってことを、またここでもしみじみと感じたりしておりました。

この作品は、実際の舞台を観ていても、メディア化された映像を観ていても、たとえばうるっと涙をこぼす、というような日もあれば、もしそこに誰もいなければ、突っ伏してごうごうと声をあげて泣いてしまいたい、という衝き上げるような衝動に駆られる日もあって、ほとんど慟哭に近いその衝動がどこからくるのか、これだけ何度も何度も何度もこの作品を反芻していても、正直なところ自分にはわからない。でも、わからないってすごいですよね。30年という時間、この作品のことを考えていて、何度も触れて、それでもわからない。わからないのに、愛おしくてしょうがない。なにがそんなに悲しいのか、と聞かれたら、人間に生まれたこと、としか答えようのないような根源的な悲しさが、この作品を見ていると私を襲ってくる。なにか大事なものを喪って、それに気がつかずに日々を過ごしているけれども、でもこの作品を見ている間はそのなくしたものが…オニが、自分のそばにいるような気がしてくる。

しかし見れば見るほどこれ以上ない、というような布陣での上演だったな~。勘九郎さんと七之助さんは言わずもがな、染五郎さん(あえて当時のお名前で)のオオアマ、本当にすばらしい。こんなにも上からものを言わせて説得力と魅力が爆発する人そうそういない。「このなくした耳から俺を名人と呼ぶ声が聴こえてくるのでしょ?」「あ?」この「あ?」だけで白飯3杯いける勢いですよ。猿弥さんのマナコも、マナコにぜったいに必要な愛嬌があふれまくっていて、だからこそ最後の哀しさが際立って。梅枝さんの早寝姫も大好き(いささかも気が引けませぬ!の間、絶妙すぎる)、ハンニャの巳之助さんも魅力炸裂してたなあ…本当にいい座組だった。

贋作・桜の歌舞伎版への思い入れは、私にとってはイコール亡くなった勘三郎さんへの思い入れでもあったわけだけれど、こうして勘九郎さんと七之助さんに耳男と夜長姫を演じてもらえて、思ってた以上の芝居を見せてもらえて、なんだか凝り固まっていたこの作品へのほとんど怨念といってもいいような執念が浄化した気がします。ラストシーンの耳男の、勘九郎さんのあの慟哭と、あの桜の木の下にただひとり座っている姿を見ていると、最後にはそういった過去の何もかもが消えて、ただこの作品そのものへの愛しさだけが自分の胸に残るような、そんな気がしてきました。

平成の世が開けると同時にこの世界に生まれ落ち、平成という時代が閉じるまさにその月に、しかも文字通り桜の咲き誇るこの季節にこうして新しいフォーマットで生まれ変わっていく「贋作・桜の森の満開の下」。私の観劇人生を支える一本であることは間違いなく、そういう作品に30年前に出会えたこと、本当に感謝したいです。