「八月納涼歌舞伎 第二部」

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やってまいりました、弥次喜多四度目の夏。これで最後!らしいです。謎解きだったりあの世行きだったりといろいろ趣向を凝らしてきましたが、4回目の今回は原点回帰といいますか、弥次さん喜多さんのお伊勢参りをど真ん中のストーリーにしておりました。冒頭がヴィットリオ・デ・シーカのひまわりのオマージュ(音楽も?)で始まったのでいったいどうなるのかと思いましたが、今回は歌舞伎の古典をたくさん引用。鈴ヶ森、切られ与三、女殺油地獄、一本刀土俵入などなど。キャラクターとか台詞はもっといっぱい出典ありそうでしたよね。

私は今回の弥次喜多かなり好きだったんですけど、その好きの理由はやっぱり幸四郎さんと猿之助さんが汗をかく演目になってたからってところが大きい。汗をかくっていうか、しれっといろんな手札を見せてくれるというか。これだけのオールスターキャストだけど、この演目についてはやっぱりご両人の魅力を堪能したいじゃないですか。とらんぷとぷーちん…悪いやつや…そしておふたりの悪い顔がたくさん見られたのも個人的にはポイント高い。

油地獄ならぬとろろ地獄(もう、セットが出てきた瞬間にこれから起こることを予見するやつ)では、ズッコケとは!こう!みたいな、足腰のキマったみなさんの渾身のズッコケが観られて楽しかったです。しかし私はどうもやっぱり鷹之資くんが大好きだね…だってあの体幹の強さ…踊りの確かさ…うおーん本当に今私の一番の夢は勘九郎さんと鷹之資くんでガッツリ!踊りが!見たい!ってことです!!

七之助さんはある時は女掏摸、またある時は…な峰不二子キャラ(似合うね!)で、第一部と第三部合わせて七変化っていうひねり、しかもいだてんテーマ曲までぶっこんでもらって、いやもう本当にすいません、ありがとうございます、ありがとうございます。

いやしかし、4年前と今とでいちばん違いを実感するのは團子くんと染五郎くんの成長ぶりじゃないですか。4年前はふたりとも、メインディッシュに添えられる副菜的な立ち位置でしかなかったけど、もはやがっつり物語を回す方に回ってきてるものね。子供の成長の速さよ…とか言ってるうちにもうどんどん大人になるんだろうな。そうしてみると、今の時期にこうして歌舞伎座の舞台で自分たちが舞台を(いっときでも)引っ張る、という経験ができることがどんなにすごいことかと思うよね。

あとは出た舞台で絶対爪痕を残す猿弥さんの仕事師っぷり、いやもう惚れますってば。娘義太夫最高でした。

もはや恒例、最後に幸四郎さんと猿之助さんがふたりで飛んでいくさまを見送りながら、これだけタイプの違う役者さんががっつり組んで、いつまでも仲良しで、こうしていろいろ手を変え品を変えて楽しませてくれるって、ありがたいことだな~なんて改めて思ったりしました。

さて芝居の感想はここまでです。以下は雑談です。読まなくてもいいやつです。


私は歌舞伎を観るときは、なんというか永遠のトーシローでござい、というスタンスで見てて、どれだけ長く見ててもなんにも勉強、いや勉強っていうか、学習っていうか、習得っていうか、ともかく知見を一切深めないままただ目の前にあるものを観て感想を言ってるだけ、という感じなんですけど、そうはいってももはや15年ぐらいなんだかんだ少ないながらも歌舞伎の演目を見続けているんですよね。

で、これは昔の自分からは想像もつかないことだったんですけど、いろんな演目を見ているうちに、やっぱり歌舞伎の、いわゆる古典といわれる演目、その物語、構造の強靭さ、良さというのが骨身に沁みるというところがある。そして、新作もいいけど、がっつり古典の演目で贔屓の役者を見たいなあ…なんてことを思ったりすることがね、やっぱりあるわけです。

とはいえですよ。
新作ではなく古典をもっと、って、私が言えた口なんかい、というのもどうしても思っちゃうんですよね。
だって私はもしそうした「新作へのトライアル」がなかったら、もっと言えばそうしたことをやりたい、やる、と思って実現させてきた勘三郎さんがいなかったら、おそらく今の今でも歌舞伎を観に来るようになってなかったんじゃないかって思うからです。
自分はその恩恵に預かっておいて、自分がその楽しみを覚えたらそっちの道は閉めてもいい、なんていうのは、少なくとも私が言うのはムシがよすぎるなあ、と思っちゃうんですよね。

新作で歌舞伎の敷居を低くすることがいいことなのかどうか、それは私にもなんともいえないところがあって、昔玉三郎さんが「敷居が高いことが悪いこととは思わない」みたいな話を仰ってた記憶があるんだけど、それは私もそう思うんですよ。
でも「新作」だからこそうまれる出会いがあるっていうのも、まあ言うまでもなく、真実なんですよね。

なんて、いやだから何が言いたいんじゃって感じになってきてるけど、私は自分が歌舞伎に向き合う姿勢としては、やっぱりいつでも「鷹揚の御見物」の客でいたいし、客であることを全うしたいし、その客として出会う作品は新作でも古典でも、いつでも初めて出会う物語みたいにフラットに楽しめる客でいたいなあ、なんてことを思う、永遠のトーシローなのでありました。