「ジョジョ・ラビット」

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すばらしかった。掛け値なしの傑作なので、そうなの?見に行こうかな?と思ってる人はここでUターンするだけでなく予告編も見ないようにして映画館にGOしてください。迷わず行けよ。行けばわかるさ。2019年トロント国際映画祭最高賞の観客賞受賞。監督はタイカ・ワイティティです。

10歳のドイツ人の少年ジョジョは自分の脳内にいるアドルフ・ヒトラーと会話している孤独な男の子だ。ヒトラー・ユーゲントのキャンプに参加しても、彼は上級生からいじめられ、勇敢なナチスになることができない。でもイマジナリーフレンドのヒトラーと話しているときは強くなった気持ちでいられる。ジョジョの父親は戦線に参加したまま帰ってこない(とジョジョは思っている)。母親は不在がちだ。姉はいない。ある日ジョジョは誰もいないはずの屋根裏に、ユダヤ人の少女が匿われていることを知ってしまう。

10歳の少年のイマジナリーフレンドとして、とはいえ、ヒトラーを具現化し、かつ彼をユーモラスに(だって10歳の子が思い描く独裁者ですもん)描写するっていうことが表現としていかに高いハードルか、ってことに改めてふるえる想いがしますが、見終わった後には「こういう表現だからできたこと」が積み重なっていて、タイカ監督まじで…天才か!?ってなりましたし、イマジナリーヒトラーが、世の中を単純に二分し、自分と違うものを簡単に排除させる大人としてふるまうたびに、私たちが子どもに何を伝えていかなきゃいけないのか、ということが逆にあぶりだされてくるような気がしました。この想像の中のヒトラーをタイカ監督自身が演じているんですけど、前半の「ユーモアさえ感じさせるちょび髭」から、ラストの他者を抑圧し分断し抹殺する独裁者の貌まで見事に表現していて、脚本書いて監督してさらに出演して…んもう、全方位で天才か!?

ジョジョは、ナチスの単純化した二元論(アーリア人は善、ユダヤ人は悪)を無邪気に信じる(というか、信じたい。世相とこの単純な論理への傾倒って絶対関係あるよね)けれども、ヒトラー・ユーゲントのキャンプでウサギを殺せないし、女の子を傷つけて泣かせたことを悔いる心がちゃんとある。彼らと自分たちが「見かけではなにも変わらない」ことにも気がついている。そういった気づきはどこからくるのか?対話なのだ。脳内で家を燃やしてしまえというヒトラーと、まずは交渉だというジョジョ。お互いを知る、ということの大切さをエルサとジョジョを通して観客も体験していく、その中でジョジョの恋心が育っていく、このシークエンスの積み重ねの素晴らしさったら。

そしてジョジョの周りの大人たち!母親であるロージーのユーモア、そして愛。キャプテンKが示す真の「やさしさ」。いやもうロージースカーレット・ヨハンソンもクレンツェンドルフ大尉のサム・ロックウェルも最高すぎた。このふたりのありとあらゆるシーンが名場面。しかも、しっかりとユーモアをもってそれぞれの生活の描写がなされているところがまた、素晴らしい。キャプテンKとフィンケルの関係性はかなりあからさまに明示されるけど、でも台詞としては何もない。あの最後の市街地戦での彼らの衣装見た時に私は涙が止まらなかったですよ。現実なのか夢なのか曖昧になるような、あの時代に、ゲイであるということはすなわち収容所送りを意味したあの時代に、彼らが示す最後の、全力の権力に対するファックユー。泣いた。泣きました。キャプテンKの最期にももちろん泣きました。ロージーの台詞を思い出す。するべきことをしたのよ。

踊るの、踊るって自由な人がすることだから。解放されたドイツの街、一晩で逆転する価値観。ジョジョは「するべきことを」して、エルサを脱出させる。これからどうする?ジョジョがエルサに尋ねる。そこで流れ出す、デヴィッド・ボウイの“HEROES”。ドイツ語盤だ。ここで流れるのに、これ以上相応しい曲があるだろうか?ステップを踏む二人。踊る。踊るって、自由な人がすることだから。これ以上ない、完ぺきな幕切れ。

戦争という現実のどうしようもない残酷さを目を背けずに描きながら、愛とユーモアをもち、やるべきことをやれる大人でいること、を考えないではいられない作品でした。繰り返しますが、まぎれもない傑作です。