「大地」

パルコ劇場リニューアルオープニングシリーズのうちの一作で、三谷幸喜さんの新作。これでもか!と音がしそうなほど豪華なキャストを揃え、チケットももちろん即完売…のところ、新型コロナウイルスの影響を受けいったんすべてを払い戻し、販売客席を半数以下として幕を開けたのが7月1日。

個人的に2月以来、半年ぶりの劇場でした。もっと感傷的になるかと思ったけど、そうでもなかった。緊張していたからかな。
以下、展開に関するネタバレがありますので、大阪公演をご覧になる方はお気をつけて。

舞台はとある共産主義国家、国の政策によって反政府主義のレッテルをはられた芸術家たちは強制収容所に送り込まれる。家畜の世話に明け暮れ、「最高指導者の偉大な考え」を刷り込まれるだけの毎日のなか、とある収容棟に偶然集まった「俳優」たちは演じることを取り上げられた日常とどう向かい合うのか、という物語。

手触りとしては同じくパルコ劇場でかかった三谷さんの「国民の映画」に似たところがあるなと思いました。芸術に対する国家の抑圧を描いていること、それに対する芸術家たる彼らの人間性、その矜持を描くと同時に、その当てにならなさを抉り出しているところが特に。ある意味ではこれ以上ないほど時宜を得た作品であるともいえて、思想や独裁主義からではなく、感染症という問題に端を発しているにせよ、かつてこれほどまでに「演ずること」が抑圧を受けた時代はこの数十年、いやもっと長い単位でなかったことかもしれません。劇中繰り返される「発声練習、スクワット、ホンがあるならそれを読むこと、それが今できる役者の仕事だ」という台詞に、家の中にとどめ置かれた日々を想い出さない観客はいないのではないでしょうか。

そういった時流を反映した(した、と思わせる)台詞だけではなく、「ダメなホン」への役者の諦観など、普遍的な台詞の面白さもふんだんにあり、三谷さんはこれを書きながら役者が実際に演じるところを想像してひとりほくそ笑んだのではないか…とおもうくらいです。

一幕の終盤では文字通りのハラスメントの末に、「人間の尊厳」のかわりに手に入れた卵を拒否し、みごとな「ディナー」を演じてみせる役者たちを見せる一方で、二幕のラストでは文字通り命がかかった局面で彼らの人間性が鳴りを潜めてしまうところを書ききるのが、少なからず「歴史」を前にしたときの三谷さんらしい展開、きれいごとだけを書くことをよしとしないところだなと思いました。

ところで、この舞台の二幕のとある展開は、その他のシーンと微妙にリアリティラインを異にするような部分があります。若いふたりの逢瀬の時間を捻出しようと登場人物たちが文字通り「ひと芝居打つ」わけですが、その切迫性(あの雁字搦めの収容所生活において、ここまでのことを起こす動機として十分なのかどうか)も含め、他のシーンとの重さの違いが如実なんですよね。しかしながら、これこそまさに芝居のマジックとでもいう面白さで、ここで若いドランスキーを足止めする辻萬長さんの、浅野和之さんの、山本耕史さんの、キャストそれぞれの「持てる武器」によって観客と劇空間がねじ伏せられていく、その愉悦。とくに辻萬長さんの「父としての語り」が白眉だと思うんですが、まったく相手の台詞を受けない、一方的な演技に相手が飲み込まれ、次に観客が飲み込まれ、最後には観客全員が声に出さずとも、ドランスキーに対して「言え!言っちゃえ!」と気持ちを一つにする。そこに放たれる「おとーーさーーん」だからこそ、客はそれを万雷の拍手と爆笑で迎えるわけです。これは演劇だからこそできる極上の嘘で、あのシーンではそういった綺羅星のごときキャストらが、その魅力を大玉百連発とばかりに打ち上げるんですから、盛り上がらないわけがない。

苦いラストを描きながら、あのときその人間性を放棄した役者の多くが二度と舞台にあがらなかったと語らせるところ、もしかしたら…と一縷の望みを持たせる台詞を言わせるところ、なにより最後に「あったかもしれない」愉快な旅公演の姿でしめるところは、三谷さんのやさしさなのかもしれないですね。

照明も舞台装置も小道具も、なにもかもいらないが、演じるうえでもっとも失ってはならないものは観客だったというその台詞を、三谷さんが初めから書いていたのか、いま、この時だから書いたのか、それはわかりませんが、森羅万象を乗り越えてこの客席に辿り着いたもののひとりとしては、沁みる台詞でした。

大泉さんの演じる役はいってみれば舞台監督的な立ち回りをする人物なんだけど、この役を大泉さんに振るあたり、本当に三谷さんは大泉さんが好きだし、自分のおもう芝居のトーンを実現してくれるということについて揺らがない信頼があるんだなあということを感じる2時間半でした。辻さん浅野さんの「腕に覚えあり」チームの芝居の確かさ!舌を巻きます。ほんとうにすごい。山本耕史さんがここぞとばかりに出すスターオーラ、それと相反する器の小ささ、それをちゃんと納得して見せられる芝居の確かさよ。竜星涼さん、我らがタカシフジイ、栗原さんに相島さんに小澤雄太さんにまりゑさん…全員がこの舞台に対して最高の仕事をしてくれていたと思います。

わたしが観たのは東京の楽前で、まさに完ぺきといっていい仕上がり、だから楽前が好きだよあたしゃ…としみじみ思いました。完全に熟れて、落ちるか落ちないかの境の果実のような芳醇さ。カーテンコールのあと幕が下りて、三谷さんのアナウンスがダブルのカーテンコールはないよ、浅野さんはもう寝ちゃったよと冗談めかしながら退場を促すのを聴いている観客はみな笑顔で、席を立ち、通路を歩きながら、ダブルのカーテンコールはないことを承知で、拍手で舞台を讃えていて、それを見ている劇場スタッフさんがマスクをしながらでも笑顔なのがわかって、私はいま劇場にいるんだな、ということをこのとき、痛烈に実感しました。6か月ぶりの劇場での観劇で、芝居を観始めてから30年以上、こんなに長いこと劇場に足を運ばなかったことはなかったけれど、自分が何を求めていたのか、自分が何を好きでいたのか、何を愛していたのかを思い出させてくれた2時間半でもありました。楽しかったです。来てよかったです。