「マティアス&マキシム」

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グザヴィエ・ドラン監督・脚本・主演。ドランの地元であるカナダのケベックを舞台にした作品。幼馴染のマティアスとマキシムは、友人宅のパーティーで、家主の妹の自主映画に強引に出演させられ、そこでキスシーンを演じることになる。

映画を見ているとき、たまらなく苦しくなる感覚があって、自分でもこの苦しさはなんなんだ、どこからきてるんだとむちゃくちゃ戸惑ったんですけど、それはたぶんこの映画がものすごく真摯に、精緻に、青年期にむきだしの他者と向き合っていくという意味での「恋」を描いていて、そして自分はそういったことからくるっと回れ右して生きてきたからなんではないかと思った。なんで回れ右してきたのかというと、しんどいからだ。もちろんそうやってきたことがだめだとか、後悔してるとかそういう話ではない。どんな人生でも現在地点に辿り着いているだけで満点だ。けれど、わたしがかつてそのしんどさから回れ右したことは事実で、この映画はそのしんどさから目をそらしていないということなのだ。自分で自分の行動をコントロールできなくなる、ありたい自分がわからなくなる、自分をさらけだすこわさ、それを否定されるかもしれないことのおそれ。人生における甘美で苦いあの飴を、わたしは欲しいと思わずにここまできたのか、欲しくないふりをしていたのか、そこに目を向けさせる力がこの映画にはあった。

パーティで大人気ないふるまいをして飛び出したマットが、道路の真ん中で立ち尽くすシーンがまさに象徴的で、あそこで「戻れ」とおもう私と、「行ってしまえ」と思う私がいた。戻れと思う自分はこの物語に足を突っ込んでいて、もう半分の私は物語に突っ込み切れずに逃げるマットを見て安心したかったのかもしれない。

予告編で見たシーンや台詞が一部本編ではなかったような気もしたけど、自信ない。マットのスピーチのとことか苦しさで気が遠くなりかけたし(そこまでか)。むちゃくちゃ揺さぶられたんだなー、と1日経ってしみじみ思う。揺さぶられたからいい、揺さぶられなかったらダメ、みたいな尺ではエンタメをはかっていないけれど、しかし「揺さぶられた」という事実は事実である。

スパッと音がするような幕切れで、そこがとてもよかった。あの一瞬でじゅうぶんだし、あの一瞬が彼らがこれからどう変わっても、どこかで彼ら自身を支えるのじゃないかと思う。そうあったらいいなと思う。マットとマックスを取り囲む友人たちのふるまいもすてきでした。様々な「母親」が描かれるなかで、父親の不在感ハンパねーなというのも思いました。マットがあの部屋で、マックスの手の甲にキスをする一瞬の官能は、本当に私を揺さぶりました。良い映画だったと思います。