「シカゴ7裁判」

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アーロン・ソーキン監督・脚本!もともとはソーキンは脚本で参加しスピルバーグが監督する予定だった作品が、もろもろの理由で頓挫しスピルバーグは監督を降板。10年以上の歳月を経てNetflixオリジナルとしてソーキンが監督も兼任してようやく実現。1968年の民主党党大会における暴動事件の責任を問われ、共謀罪で連邦裁判にかけられた8人(その後7人に)の裁判の行方を描く映画です。

Netflixでは10月16日から配信開始ですが、それに先立って1週間限定で劇場公開されるということで、これは!ソーキンのファンとしては!行くしかないでしょー!と初日に見てきました。映画としても面白いし、面白いだけじゃなく喉元に重いものを押し込められたような苦さがあるし、役者たちのアンサンブルは素晴らしいし、ソーキンのソーキンたるゆえんである、あの凄まじいスピードで繰り出される台詞の応酬は堪能できるし…とにかく、「映画館で見てよかった…!」と歓喜と興奮で打ち震えました。あまりにも観た甲斐のありすぎる1本でした。これからご覧になる方はできるだけこの先の感想を読まずに劇場、または配信でこの裁判の行き着く先を確認してください!

起訴される被告たちそれぞれの立ち位置、検事、その裏にいる政治家、加えてキング牧師が暗殺され、続いてロバート・ケネディも暗殺され、くじによって当たった「誕生日」のものがベトナム戦争に徴兵される、そういったその時代の背景をも、凄まじいスピードとリズムで畳みかけてくる冒頭が本当にすごい。あのセリフとセリフが繋がってどんどん次の場面に展開していく、あの目まぐるしさ。

検事のひとりはこれはあきらかに「無理筋」の起訴であることを自覚しているのだけど、時の司法長官の前任者への遺恨と、「無責任な若者世代」へのなんの根拠もない反発がこの裁判を支えてしまっているので、本当は起こっていない脅迫が作りだされ、証言は認められず、ブラックパンサー党に属する被告は代理人すらいないままに裁判が継続される。このグロテスクさ。法の執行者が政治に飲み込まれ、偏向した思想のままに強権をふるうことのこわさ。司法長官ミッチェルが共謀罪の適用を強行するように指示するときに言う言葉、「彼らはものを欲しがるただの駄々っ子だ。30代を刑務所で過ごさせたい。」そう言ったミッチェル自身はその後刑務所で過ごすことになるが、それはまた別のお話。

それにしてもホフマン判事の醜悪なことよ。演じている役者さんには敬意しかない。あまりといえばあまりな、まさに「法の濫用」に「どうしろっていうのよー!」と客席から叫びそうになるほどだった(彼がかつての司法長官に対してのみ及び腰なのがまた、一層腹立たしい)。しかし、これは「事実に基づいた物語」なのだ。つまりこの時どれだけたくさんの人間が「どうしろっていうんだ!」と叫びたかったのだろうかとおもう。起訴された8人のうちひとりはブラックパンサー党に属し、しかし彼はたった4時間しかシカゴには滞在していなかった。共謀?バカな。そもそも共謀するほどの連帯が彼らの中にはない。民主党左派はイッピーを毛嫌いし、イッピーは左派を遠ざけ、パンサー党は彼らとは抗っているものが違うと考えている。その4時間しか滞在していなかったボビー・シールに対してこの法廷がやったこと、それがいま、まさに、現在進行形で続いているということを考えずにあのシーンを見ることはできないだろう。呼吸ができるか?とクンスラーが確認するのは、まさにその証左だろう。この作品が紆余曲折を経て2020年の、大統領選挙を目前に控えたいま世に出たことには、意味があるように思えてならない。そういう引力をもった作品だと思う。

冒頭で一気に前提を見せ、裁判の進行と「なにがあったのか」という過去の事実を交差して見せていく構成はまさにソーキン自家薬籠中のものといってよく、「ザ・ホワイトハウス」でもよく使われた手法ですよね。配信が開始されたら吹替えでもぜひ見たいと思っていて、それはソーキンの台詞量は往々にして字幕だと追いつかないことがあるので、あの応酬を見るには吹替えの方が適しているかもと思ったり。

キャストがもう、めくってもめくってもすごい人しか出てこないみたいな感じで、しかも中盤にあなたが!?というような人も出てきて本当どこ見ていいのやら。目がもう一組ほしい。サーシャ・バロン・コーエンとエディ・レッドメインのやりとり、マーク・ライランスの穏やかな中にも頑として固い信念のある立ち居振る舞い、ジョセフ・ゴードン・レヴィットもよかったし、クンスラーと組んで弁護にあたったワイングラスを演じたベン・シェンクマンとかすごく印象に残った。「私が2人目です」の啖呵、そうだ!!!と思わず立ち上がりかけた。いやもう正直書ききれない。すばらしいアンサンブルでした。この綺羅星のごとき役者陣が弾丸のようにソーキンの台詞を叩きつける、それだけで私にとっては至福の2時間だったといってもいいぐらいです。

ソーキンは、ときには事実を積み重ねることがどんな台詞よりもドラマを作る、ということを熟知していて、それがこの映画においてもいかんなく発揮されていると思いました。事実には力がある。名前には力がある。我々は何のために戦うのか。グロテスクな法廷にあっても、その力を絶対に最後まで信じ切ること。すばらしい映画体験でした。
世界中が見ている!