「フォリーズ」

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ナショナルシアターライブアンコールで上映。最初にラインナップに入った時、なんとなくあらすじ読んで「好きそうなやつ…」と思ってたんだけど、その時は居住地的に気軽にナショナルシアターライブを見に行ける環境じゃなかったので、思っただけで詳細が記憶の彼方にすっ飛び「なんか…観たいと思ってたやつあったけど…それが何か思い出せん!」みたいなことに。今回のアンコール上映、これを逃すとあとがない!ということで最終日に駆け込みで見てきました。いやー行ってよかった!やっぱり長年の観劇で培われた「これ おれ 好きそう」の感は侮るべからずでした。

間もなく取り壊される劇場に、かつてそこで繰り広げられたレビュー「ワイズマン・フォリーズ」の面々の同窓会が行われる。続々と集まってくる美しき「ワイズマン・ガールズ」たち…というのが物語の背景ですが、実際この作品、最初の紹介でソンドハイム自身が言うように「プロットなんて、なくていいんだ!」なので、物語がここからどう展開するか、というような話ではないんですよね。物語のあらすじとしてはほぼ、この2行で終わり。付け加えるとしたら、そこに4人の男女がいて…というところだけど、これもプロットとしてはそこまで。

この作品のもっともすぐれたところは、「現在」のワイズマンガールズとそれを取り巻く男たち、と「かつての」彼ら彼女らが舞台の上に一緒に存在しているという、その見せ方につきるという気がします。「途轍もなく長い時間を同時に手のひらに乗せると、そこに切なさが立ち上がる」というまさにその通りで、かつての彼・彼女らの幻影が合わせ鏡のようにそこにいることで、なんでもないシーンがものすごく立体的に輝いてくる。

とくに白眉だったのがWho's That Woman?のナンバー!円形の回り舞台でかつてのガールズたちがタップダンスを踊る中、合わせ鏡のように半円のむこうでかつてのガールズたちが踊る、それがないまぜになりクライマックスに向かっていくあの高揚感!歌詞の鏡よ鏡、あの女は誰?(あの女はわたし!)の絶妙な切なさ!心の中でブラボー!連発したし、がんばって見にきてよかった…!!!って思いました。

そのあとのI'm Still Hereもめちゃくちゃよかった…人生は一筋縄ではいかないが、それでもまだ私はここにいる!という力強さ、歌の力でこちらの魂もグッと引っ張られるような、そんな感覚。

恋人たち4人のそれぞれの空虚さ(誰かに愛されたいと言いながら誰も愛せない男、愛している男の空虚さに心が冷えた女、自分を愛しているものから逃げ出さずにいられない男、失ったかつての恋の幻想に取りつかれた女)と、その愚かさ(follies)を見せていくシーンも、美術のうまさ(女性陣ふたりのドレスがあのモスグリーンのトーンのセットと馴染む瞬間たるや)と各シーンの楽しさはあるんだけど、ああやって4人順繰りに見せられるとなんかこう、自分が「待ち」の姿勢になってしまうんだよね(4人分終わるまで次の展開がないな…となり、集中力がなくなる。ほかの作品でもよくこういう状態になる、私が)。とはいえ、サリーのLosing My Mindはすばらしかった。イメルダ・スタウントンが完全に演技力で殴りに来た感じがあった。フィリスはその前のCould I Leave You?の方がパンチがあって好きだったなー。

舞台美術も衣装もほんとすばらしくて、あのかつてのワイズマン・ガールズたちひとりひとりの意匠を凝らしたドレス、美しかったです。心の中が美しさと音楽と、そして少しの切なさで満たされた2時間45分でした!!!

「ラスト・フル・メジャー」

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トッド・ロビンソン監督。セバスチャン・スタン初主演作!え!?そうなの!?ベトナム戦争において英雄的な行動をとった空軍兵士への叙勲をめぐる物語で、実話がベースとなっています。エンドロールで関係者ご本人映像あり。

何しろキャストが文字通り、綺羅星のごとくというやつで、クリストファー・プラマーウィリアム・ハートエド・ハリスピーター・フォンダサミュエル・L・ジャクソンてもう、容赦なくぶっ込んできたな!という感じである。しかも全員が、ベトナム戦争のなかに心のどこかを置いてきた、壊されたキャラクターであるので、その彼らが自分自身と向き合っていく最終盤はもうほぼ演技力の殴り合いという感じであった。

しかし!あくまでもまったく個人的に腰が浮くほど興奮したのは主人公ハフマン(セバスタ)のペンタゴンの同僚にジョシュが、いやジョシュじゃなくてブラッドリー・ウィットフォードなんやけど、もうジョシュって呼ばせて!ジョシュがいたことである!しかも!セバスタと並んでペンタゴンの長い廊下を話しながら歩いてくる、それを正面から撮り続けるカメラ、ほ、ほ、ホワイトハウスを彷彿とさせすぎやろがい!ってなったし、しかもセバスタとバスケ…バスケをするシーン…(ザ・ホワイトハウスでもあるんですよジョシュらが大統領とバスケをするシーンが…)もう、セバスタとジョシュが並んでるってだけで(しかも結構絡む役なんよこれが!)ひえ~~~~見にきてヨカッタァ~~~~となったのもむべなるかなである。

事実は小説より奇なりとは言うけれど、逆にむりやり「奇」を盛り込むことも当然できないわけで、そしてピッツェンバーガーの行動に照らせば、その話が日の当たるところに一度出れば名誉勲章授与を妨害するほうが国にとっても政治家にとってもマイナスだったろうと思うんですよね。だから告発以降のドラマが薄くなるのはもっともなれど、しかし物語としては食い足りない部分が残ったのも事実。あとベトナムに移住した退役軍人を訪ねていくところ、いやそんなアヴァロンとか言われましても…現地住民からしたら勝手に美化してんじゃねーよってならんか…?という部分は残りましたな…。

セバスタ、若くして国防総省の中枢にぐいぐい食い込む野心家、という役どころなんだけど、野心家というには雰囲気柔らかくて、奥さん役がファンタビのクイニー(アリソン・スドル)だったので、ご夫婦のシーンがいずれもかわいい&かわいいだった。エド・ハリスが手紙を渡すシーンが個人的にはいちばんぐっときたところ。マスクが涙で濡れました。

「帰還不能点」劇団チョコレートケーキ

  • AI・HALL H列15番
  • 脚本 古川健 演出 日澤雄介

劇団チョコレートケーキの新作。いやー傑作でした。観ながら、もちろん舞台に集中しているんだけど、これは自分はいまめちゃくちゃ突出した演劇作品を見ているな…と自覚できちゃうようなところがありましたね。

大日本帝国下において実在した「総力戦研究所」の同窓生が、戦後亡くなった同窓生を偲んで旧交を温めつつ、「あのとき」を振り返る…という構造をとっていて、この視点がまず慧眼の極みとしかいいようがない。総力戦研究所という題材のピックアップはもちろん、その時代にいる彼らを描くのではなく、戦後という視点から振り返る、かつあくまでも「酒場の余興」といったテイで過去のなぞらえが進んでいくというのがむちゃくちゃ効いてましたね。こうすることで、観客はある意味彼らと同じ視点で振り返れるんですよ。その時代の彼ら、を描くと結果を知っているのは観客側だけになり、ともすれば登場人物が過剰に狂信的な人物にみえるきらいがあるけれど、この構図では最初から現実と一線が引かれているのがまずよかった。

さらに「酒場の余興」という構図だから、その「日本が戦争に流れ込んだ」時代の振り返りを役者陣が入れ替わり立ち替わり演じていくのもすばらしいアイデア三国同盟独ソ不可侵条約あたりの顛末を漫才風にやってみせるところ、いや面白すぎてふるえがきたわ。そう、今回何が素晴らしいって、この相当に重い題材を重いままで手渡すのではなく、演劇として、エンタメとして、そうすることで届く高みが、渡せる重さがあるはずだ、という志で貫かれていることだとおもう。劇団メンバーだけでなく客演陣も皆みごとというほかなく、言ってみれば間断なく劇中劇が繰り広げられる展開であっても観る側に混乱をいっさい生じさせなかった。

もちろん、相当に単純化した描き方であるとはいえ、歴史とは作用と反作用である(私の高校時代の恩師の言葉)ということを、そしてこの国がついこの間(歴史においては80年、100年というのはついこの間でしょう)、その作用反作用のなかでいかに戻れないある河を渡ったのか、がきちんと整理されて提示されるのもすごいとしか言いようがない。

冗談抜きで、これを教育現場での題材にしてもいいのでは?と思ったなあ。過去を知ることでしか得られないものって絶対あるけど、それには手渡し方も重要で、この作品は(最終盤までは)ある意味過去に対する批判的視点で描かれているので、見る側の拒絶反応を引き起こしにくい。手渡すことに成功すれば、そのあとの自問は受け取った側の人数だけあって、その深さも角度もそれは千差万別だろうけど、「考える」ってところに到達させるにはこういう作品が入り口になってもいいんじゃないかって思います。

個人的には山崎とその妻をフックにしなくても描ける作品ではないかという気はしました。『聞き手』はべつに女性に限らなくてもいいし、岡田の慚愧の念は山崎を通して仮託しなくてもじゅうぶんに伝わるところなので、そのほうがシンプルになったかもしれない。市井のひととして誰かを出すなら、もう少し痛烈な台詞があってもよかったかも。とはいえ、作品として相当に傑出したものであることは言うまでもなく、ぐっと集中した客席で2時間、観劇の醍醐味を存分に味わわせてもらいました。次回公演も楽しみです。

「戦火の馬」

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ナショナルシアターライブアンコールで上映されたので、この機会を逃したら…次はないかもー!と思い足を運んできました。

舞台芸術と一口にいってもそこにはさまざまな手法や表現が内包されると思いますが、「馬と人間の物語を描く」という点においてある意味ひとつの表現の極致を見ている気持ちになりました。これが映像表現なら人は人だし馬は馬ですが、舞台において馬を描くときは、まず馬を馬として出すのかどうか、から表現の枝分かれが始まるわけで、この作品は舞台上で「馬」を出現させ、かつ舞台表現として極限まで具象に近づける、ということをやってのけているわけです。

馬のいななき、仕草、首の動き、表情、身体から立ちのぼる湯気…。実際に舞台の上にいるのは人間が操るパペットであり、その操る人間を隠すことすらしていないのに、文字通りパペットに命が吹き込まれ、ひとつの生命体として存在する、そのスリリングさといったら!

物語としては人と馬の「ゆきてかえりし物語」なんだけど、シンプルなドラマだからこそ惹きつけられてしまうし、戦場における束の間の心の交流、人間性をはがされた場所で起こる人と人、そして人と馬の感情のドラマがすごく胸に残りました。人と人、だけじゃなく馬と馬もね!あのトップソーンを助け起こそうとするジョーイの場面、うわあああああんってなったよ…馬を愛した人も愛さなかった人も等しく命を奪われていくのがまた本当にやるせない…。最後はもう、いやこれで出会わないわけないとわかっているのに、まってー!そこにー!ジョーイがー!!!つって手に汗握っちゃうんだから、本当にすぐれた物語というのは不思議な引力をもってますよね。

舞台美術もすごくよかったな。破り取られたスケッチブックを模していてそこに映像が映し出されるけど、その映し出される映像もどこか絵本的なものだったのがすごく効いていた。舞台で映像を使うとついつい具体的なものを映すほうによりがちだけど、あくまでも「セットの一部」として機能させるほうが絶対効果的ですよね。

馬だけでなく他の動物もパペットとして登場していて、ガチョウはなかでも大人気。カーテンコールにももちろんトップソーンとジョーイが登場するんですが、観客の誰しもがパペットとしてのアイテムではなく「トップソーンとジョーイ」に拍手を送っているのが印象的でした。

「すばらしき世界」

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深く心に残り、映画を見た時の感情を何度も反芻してしまうような作品。傑作です。監督・脚本西川美和、原作は佐木隆三「身分帳」。公開後きこえてくる評判がきわめてよく、見に行きたいなーどうしようかなーどうしようかなーと言ってる間に見逃すパターンかなーと思ってたんですが、会社で久しぶりにぐったりと疲弊するようなやなことがあって、このまま家に帰ってもぜったい切り替えできん、圧倒的な物語の波にのまれるしかない、と思ってそのまま帰りに映画館に飛び込みました。以下具体的な物語の展開に触れます。

人生の大半を刑務所で過ごした男、三上。殺人罪で10年の懲役刑となり、服役していた旭川刑務所から出所するところから物語は始まります。この男が、いまのこの世界で生きていこうとする姿を、真正面から描き続けます。

恥ずかしながら西川美和さんの作品を拝見するのが初めてなんですが、ディティールにおける演出が行き届いて、それがまずすごくよかった。刑務官の描写や、役場の人間の描き方、市井の人たちの立ち居振る舞い、どれもウェットになりすぎない。極端に露悪的な人間を書くことをせず、「どんな人間にもグラデーションがある」ということが徹底されている。三上の身元引受人になる庄司は三上のために家を探し生活保護の申請を手伝い、妻ともどもに献身といってもいい働きをするが、孫たちが訪れていることを理由に三上の頼みをあしらうこともする。反社に保護は下ろさないと冷たく言い放つ福祉課の井口は、一方で三上の家を訪ね今後のための直接的な働きかけをする。三上を万引き犯と誤認するスーパーの店長は、しかし三上の地域とのつながりを必死に保とうとする…。

見ながら、どうしようもない、われわれは、どうしようもない世界を生きているんだ、ということを何度も思いました。わかりやすい答えなんてどこにもない世界。三上は、その生い立ちから、社会における「どうしようもなさ」に抗う術を一つしか知らない。「暴力」というその術は、どんな道よりも早く理不尽さを解決する。深夜まで五月蠅く騒ぐ階下の住人も、通行人にイチャモンをつけるチンピラにも、弱いものをあざ笑っていじめる同僚にも。

この世界は生き辛い、辛抱の連続だ、でも、「空が広かちいいますよ」。その一言が三上を押しとどめ、一度は絶たれたと思った繋がりがふたたび結ばれ、歌と、笑顔にあふれた最高の「すばらしき」瞬間が描かれるが、しかし、この映画におけるもっとも苦い場面がそのあとに用意されている。発達障害のある若者、それを陰で責めたてる職員。その若者は入浴する被介護者を放置してゲームをやっていたという。あやうく溺れるところだった、と。そうして、障害のある若者の喋り方を真似てあざ笑う同僚。どうすればよかったのか?モップの柄が折れるほど彼らを叩きのめすべきだったのか?偏見をさらけ出す彼らの指を目の前の鋏で切り落としてやればよかったのか?私がそこにいたら、その場にいたら、何を言ったのか?または、何も言わなかったのか?

この世界の中でわたしはきっと騒音に眉をひそめるだけでなにもせず、道端でチンピラに絡まられている人間を見てみぬふりをする人間だろう。でも同時に、どこかで、話を聞き、拒絶せず、コスモスの花を渡せるような人間でもあれればと思う。せめてそういうグラデーションのある人間になれればとおもった。どうしようもない世界だが、それでも空は広く、コスモスは香る。

役所広司さんがとにかく素晴らしいのは言うまでもなく、本当にやる、と思わせる危うさと寄る辺なさが共存していて目が離せない。キムラ緑子さん、六角精児さん、北村有起哉さん、橋爪功さん、梶芽衣子さんらの、三上を取り巻くひとたちの造型が一辺倒ではないところ、まさに芝居巧者の面目躍如といった感じで本当によかった。三上を取材する津乃田を演じた仲野太賀くんも、若者ゆえの残酷な物言いもみせつつ、同時にあの若さだからこそ三上に劇中かけられるもっとも暖かい言葉を発するのにふさわしい人物を演じきっていて、すばらしかったです。

さて、これは完全に余談ですが、たぶん多くの人がこの映画を見て真心ブラザーズの名曲「素晴らしきこの世界」を思い浮かべたのではないでしょうか。以下、歌詞の一部を引用します。

夜道を一人で歩いていたら どこから何やらカレーのにおい
僕もこれから帰るんだよ 湯気がたってる暖かいうち
素晴らしきこの世界

電車の窓から夕焼け小焼け よぼよぼばあさんひい孫あやす
どうかみなさんお幸せに 車掌さん天国まで連れてっておくれ
素晴らしきこの世界

しゃべって怒ってむなしくなって 無口になったりまたしゃべりだす
僕はどうせならネコになりたいよ くだらないことから逃げて寝ていたい
素晴らしきこの世界

(中略)

民族紛争果てしない仕返し 正義のアメリカミサイルぶちこむ
飢えた子供の目つきは鋭く  偽善者と呼ばれて自殺する男たち
素晴らしきこの世界


オレはいつでも ムキムキムキムキになる
くだらないことでも ムキムキムキムキになる
口から泡とばし ムキムキムキムキになる
大事なことなおさら ムキムキムキムキムキ…

改めて真に名曲だし、この楽曲に「素晴らしきこの世界」と名付ける精神は、この映画のなかにも同じものが流れているような気がします。どうしようもないけれど、空は広く、コスモスの香る、すばらしき、この世界。

「二月大歌舞伎 第三部」

「奥州安達原 袖萩祭文」。見たことあった気がしたけど初見だったパターン。いやわかんない…もう自分の記憶じゃなくて自分のブログだけ信用してるから探せてないだけかも…。七之助さん袖萩初役。お君で長三郎くんも。いちおうあらすじ頭に入れていったつもりだったけど、後半の展開「なるほどわからん」「で、君は誰!?」の連打であった。袖萩とお君ちゃんのいじらしさにぐっと来てたら最後貞任に情緒むちゃくちゃにされるし。なんであんな突然出てきて「かっこいいとこまとめてやっておきます」みたいな役なの貞任は。ほんと勘九郎さんにぴったりじゃないですか(贔屓を引き倒す)。

「連獅子」。勘九郎さんの親獅子、勘太郎くんの仔獅子。私が最初に中村屋さんの連獅子をみたとき今の勘九郎さんはまだ勘太郎だったのだ…とか思うとこれも情緒むちゃくちゃになりそうになりますがそこはぐっと抑えて千秋楽を拝見してきました。

勘太郎くん、あんなちいさな子が立派に、こんなに健気に、みたいな情を差し挟ませる余地を一切与えない、客席にいる私たちには決してできないことを成し遂げるのだ、というその矜持が炎となって見えてくるような仔獅子だったとおもいます。これが火の玉のように踊れということなのか、と何度かその言葉が頭をよぎりました。大丈夫かな、と思う隙さえなかったね。その隙のなさの裏にはものすごい鍛錬があって、それがかれをつくっているんだなという。

しかし、さらに驚いたのは勘九郎さんの親獅子で、親獅子自体はもちろんこれが初めてではないんだけど、えっ、こんな顔するのか…!と何度も驚かされた。今までは「自分もできる」「ここまでできる」という表現だったのがぐっと抑えられて、投げるよりも受ける芝居になっているというか。親子で踊る意味ってやっぱりぜんぜんあって、それも勘太郎くんが9歳の今、初めて仔獅子として歌舞伎座の舞台に立つ、という時間だからこその表現というのがあって、なんていうか…激しさよりも情愛をすごくすごく感じた連獅子でした。

この先もふたりで、さらに先には三人で踊ることになるのだろうけど、この連獅子は今この時のものなんだなあ…と思ったし、次に見るときにはもっと違う貌になっているのだろうとおもった。

いつ何時、自分の責によらず芝居ができなくなるかもしれないというこの状況下で、1か月無事に上演がかなったこと、本当によかった。きっと屋根の上から誰かさんもご覧になっていたんじゃないかしら。そう思います。

「二月大歌舞伎 第一部」

「本朝廿四孝」。十種香初めてだったっけどこかで見たことあるっけと自分で自分のブログ検索したら勘九郎さんの濡衣で拝見したことあった。そしてここからどうなる!と思ったところで終わるのでその先のあらすじを検索してしまうのも全く今回と同じことやってた。人間的成長なし。前方のお席だったのでお香の香りがまことに良く堪能。魁春さんの八重垣姫、孝太郎さんの濡衣、門之助さんの勝頼の顔合わせでした。

「泥棒と若殿」。松緑さんがご自身のブログでこの演目にまつわる三津五郎さんとのお話を思い入れたっぷりに語られていて、そう言われると…見たくなるやろー!(そればっか)

なるほど山本周五郎印というか、身分の差はあれどそれと関係なくお互いがお互いを思いやる、若者二人の厚情をどストレート、直球勝負で描いていて、まあ正直、めっちゃ好きなやつっすわ!なんすわっ!と思いましたし松緑さんステキなブログ書いてくださってありがとう…!と心の中で手を合わせました。巳之助さんのすっきりした、捨て鉢になっていてもどこか品のある若殿ぶりがすごくよくて、こういう品性って三津五郎さんをやっぱり思い出させるし、三津五郎さんご自身もたくさん新歌舞伎の上演などをおつとめになられていたけど、そのどれもが余人をもって代えがたい印象を残すお役ばっかりだったなあと懐かしくなったりして。

松緑さんの気の良さ100%、な佇まいもよくて、別れの場面の「病むんじゃねえぞ」のひとことにこれ…泣かずにいられる!?となった私です。

ふたりでどこか遠くで暮らす、という「使われなかった人生」を美しく思い描けば描くほど、切なく、胸に沁みる一幕でした。