「砂の女」ケムリ研究室no.2

安部公房の原作はかなり昔に、いやもう、相当昔に一度読んだことがありますが、昔すぎてちょっとディティールはすでに記憶がおぼろ。関西は平日2日間のみの上演ですが、たまたま休みと重なったので見ることが出来ました。ありがたや。

コロナ禍でも劇場にはできるだけ足を運びたいとは思っていて、それは劇場文化を支えたいという使命感とかそういうのではまったくなくて(つーか使命感、ほぼナイ)、単に自分の欲求の発露に過ぎんのだけど、でも選択する作品の傾向っていうのは多かれ少なかれ変化があった。そのひとつが、長い(とわかってる)芝居はやめとく、というものなんだけど…長いとわかっているのに見にきちゃったね。で、見終わった後、くっそー、面白ぇんだよな、長いけど!長いけど、それを気にしないで見られちゃうんだよな!相変わらず手練れだぜ~~なんか悔しいけど~~と思いながら帰路につきました。別に悔しがることいっこもない。

ミニマムなようでいろんな貌をみせることができるセット、周りを取り囲む砂の壁、押し寄せる砂の質感をいやというほど感じさせる映像使いの巧みさ。観終わった後、思わず自分の首のあたりの見えない砂をむしょうに払いたくなってくる。でもって、やっぱりあの砂の穴の中での「長い時間」の見せ方がうまい。そしてひとつひとつの会話のうまさ、その会話における台詞のキレ。夢における駐在のナンセンスなやりとりも、穴の中での男と女の命の綱引きのような会話も、同じテーブルに違和感なく乗せてくるのがホント、すごいよ。

原作を読んだ遥か昔には当然考えもしなかったことだけど、あの少しづつ尊厳が削られていく、最初は完全なる自由を求めていたはずが、水と引き換えに、食糧と引き換えに、そして…人間はそれに慣れていく。慣れて、忘れて、変化しない世界を選ぶ。今ほど、私たちも同じだ、と思わせる時代はないのかもしれない。そういえば、THE BEEが再演されるが、あれも慣れていってしまう話だったな…。

仲村トオルさんと緒川たまきさんの芯となるふたりが素晴らしいのはもちろんなのだが、オクイシュージさん、武谷公雄さん、吉増さんに廣川さんという配役の妙にも唸った。皆さん抜群にうまいのはもちろん、なんというか、すごく芝居のトーンが合っているのだ。むちゃくちゃ緊密な座組だなー!と思ったし、だからこそこの息の詰まるような空気が観劇後もあたりを漂っているように感じられたのじゃないかと思う。それにしても、これを言うのはちょっとくやしいけど(だからなぜ)、休憩時間込みの2時間50分、あっという間でした。

「市川猿之助 春秋座特別舞踊公演」

  • 春秋座 2階3列25番

大学開学30周年、春秋座開場20周年を記念しての特別興行。猿之助さん、亀治郎時代から縁の深い劇場ですものね。鷹之資さんと連獅子を踊られるというので、それはとっても見たいなァ~と思い、出かけてきましたよ春秋座まで。いつ来ても絶妙に遠い!

猿之助さんからのご挨拶のあと、澤瀉屋一門の皆さまで春秋三番叟。開場のときこけら落とし猿之助さんが舞われた、この劇場のための作品だそうです。5人で踊られたのですが、このフォーメーションの美しさ複雑さ、目を奪われました。思わず見入っちゃう楽しい舞踊。

最後は連獅子。猿之助さんと鷹之資くんのコンビは今回が初とのこと。間狂言がなかったこともあり、なんかあっという間だったな~。最近、若手(超若手含む)と組む連獅子が多くて、この場合どうしてもフレッシュなほうに視線と称賛がいきがちだし、私も今回は鷹之資くん目当てだったのですけど、それを受ける親獅子側のね、淡々とすごいことをやり続けることの凄みみたいなものを感じるようになった。この日も猿之助さんの、真新しさとか新鮮さとかそういうところではない、淡々と受け止め、同じことを爆発的なパワーを放出しながら舞台の上に居続けるその貫禄にほれぼれしちゃいましたね。
いやしかし、鷹之資くんの踊りは良い!わたし個人的に若手の中ではイチ押しです。あのぶれなさ、あの若さであの安定感、見るたびに好きだな~と思うし、首や手の動きひとつひとつがね~、ほんと、歌舞伎の首、歌舞伎の手だよなって思う。この先末恐ろしいなマジで。

冒頭のご挨拶で、猿之助さんが「灯りを消すのは本当に簡単、やめることは本当に簡単、でも一度消えたその灯りをもう一度灯すことは本当に難しい。もうこうした興行そのものが立ちいかなくなることだってあり得る」とお話され、京都での1か月興行も襲名以来来られていない、僕らはその灯りを消さないようになんとか頑張るけれど、でも僕らだけが頑張ってもだめで、お客様がやっぱり必要なんです。今日この場に足を運んでくださったお客様に感謝いたします、と仰っておられました。

「大パルコ人4マジロックオペラ 愛が世界を救います(ただし屁が出ます)」

パルコオリジナルロックオペラシリーズも第4弾!早いもんだよ。そして「あまちゃん」以来の宮藤さんとのんちゃんのタッグ。2044年の戦争で崩壊した渋谷の街の11年後が舞台。

ダイバーシティを、多様性を描くんなら、ど真ん中ドノーマルの立ち位置も書きたいよっていうのが宮藤さんだなあと思うし、全否定が全肯定にオセロのごとく裏返るのなら、そりゃ屁が出るぐらい言わせておくれやす、それが俺の精一杯でやんす、という、宮藤さんの含羞がはしばしに感じられる作品でした。相も変わらず登場人物みんな突き抜けとる。

とはいえ、多分いまは自分の心情的に、ツイストの効いたものよりもドストレートに殴ってくれる方が心地よく受け止められる(現実が不条理だと人間はわかりやすいものを求めるという、アレですな)感じで、自分の「おもしろがり」力がだいぶ低下してるなーというのもひしひし感じた次第です。

キャスト、伊勢志摩さんと荒川良々さん、そしてみんな大好き藤井隆さんの輝きぶり、すごかったですね。三宅さんもですが、どんな球も拾い上げる達人の技を見ているような感じだった。大江三千里絶妙すぎたし、こう見えて大江千里楽曲は思春期に聴きこんでるんで、幕間のSEにひとりでによついてしまいました。「歌うわよ!」が最後まで効きに効きまくってたなあ。のんちゃん&虹郎くんのフレッシュさを芯に、演劇モンスターがあの手この手を繰り出す感じ、すごく楽しかったです。

「シャン・チー/テン・リングスの伝説」

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ブラック・ウィドウを皮切りに、MCUがスクリーンに帰ってきたぞー!ということで、シャン・チーとうとう公開でございます。このあとはエターナルズ、スパイディ新作と2021年残り3か月しかないのに怒涛のリリースラッシュ、のはず。無事にいけば。MCU初の東アジア系主人公、演じるのはシム・リウ。監督はデスティン・ダニエル・クレットン。

この先終盤の展開のみならずポストクレジットシーンにも言及してますので未見の方は回れ右でござるよ。

サンフランシスコで親友のケイティともどもホテルマンとして働くショーン。ある日突然、バスの中でショーンは怪しい集団に襲われる。「そのペンダントを寄越せ」。実は彼こそは「テン・リングス」の首領の息子だったのだ。幼少期より暗殺者として育てられたショーンはケイティとともになんとか難を逃れるが、ペンダントを奪われてしまう。もうひとつのペンダントをもつ妹の身に危機が及ぶことを察したショーンは香港に飛ぶが…というあらすじ。

冒頭の描き方がむちゃくちゃLotRっぽいんですよ、ってこれだから何を見てもLotRと思う輩は~~!って感じだけど、いやでもある超常的なアイテムを主軸にした伝承系の物語の基本を押さえているってことでもあると思う(LotRに限らず、古今東西そうした物語はたくさんあるし、だからこそLotRもそのフォーマットに則ってるともいえる)。その超常アイテム(テン・リングス)を手にしたウェンウー、つまりショーン(シャン・チー)の父は、貪欲に権力を求めるが、その最中にひとりの女性と出会い…というのが物語の冒頭に語られるわけですね。

物語をそこからスタートさせている以上、どうしても過去の回想を展開しないと話が進まない部分もあり、とはいえ個人的には回想シーンの多さはそこまで気にならなかった。気になったところがあるとすれば、幼少期から暗殺者としての育成のきっかけが母の死であったことは早々に判明するものの、主人公が組織を抜けてアメリカに渡るに至る描写がちとあっさりすぎたかなと。というのも、彼は妹を置いていっているわけなので(そしてクライマックスで、その過去の行為が反転するところが肝なので)それだけの「なにか」を描いた方がよかった。実際に暗殺を成し遂げたことにより、その行為に恐れをなして…というのはちょっと語らなすぎる。まだ成し遂げられず、のほうが説得力がある気がするが、それだと主人公の過去からの成長を描くのに足りないという判断だったのでしょうか。察するにそういうシーンも撮ってはいたけど、もろもろ意見があって引っ込めた、ってところなのかな。

もうひとつ気になったのはケイティがあそこでついていく必然性がちと弱い。ケイティというキャラクターを帯同させたい(帯同させないと展開として困る)けれど、恋愛を絡めたくはない、という落としどころなのかもだが、ただ押しかける(ついていく)のじゃなくて、もっと自然な巻き込まれを用意してほしかった気はする。

逆にうまいなと思ったのは、ウェンウーがあの村を襲いその向こうを目指そうとする動機に「妻の声が聴こえる」という現象をもってきたところ。さらに過去にはそうした襲来者があったことも語られ、それが敵の罠だと見てる方にはわかるが、ウェンウーにはそれがわからない(わかりたくない)。徹頭徹尾この父は子よりも妻を愛しているタイプであると描かれているのが効いているし、ヴィランにより世界の危機になる、のはいいけどじゃあそのヴィランの動機って何!?ってMCUに限らずどの大作映画も苦心するところだけど、そこに人生唯一のロマンスを持ってくるのが心憎い。

今までのよくよく見れば、いやよくよく見なくてもナンチャッテアジア、な描き方からは、一線を、画すぞ!という気合は、まず使用される言語に如実に表れてましたね。冒頭ひと言ふた言原語で話してあとはなぜかみんな英語が流暢!みたいなのではなく、登場人物らが英語をしゃべるときにはそれなりの必然性があるようにしていたし、演じる俳優さんにも目線が行き届いているなという感じだった。

サンフランシスコの街並みを疾走するバス車内でのアクションや、香港での地下(地上)闘技場、竹の足場を使ったビルの外壁アクションと多種多様なアクションシークエンスから、後半一転、妖と幻が織りなす不思議空間が出てくる趣向、こういう味変(味変言うな)してくるかー!と面白く新鮮だった。ターローの村の動物たちみんな最高にかわいいし…モーリスはもちろんだけど、あのガーディみたいな、獅子みたいなコ大好きっすわ…。

父との対決のあとシャン・チーが湖に沈んで、そこで守護者である龍と出会うところ、いやーときめいたな。むしょうにときめいた。いや、龍ってこれだよね。ドラゴンじゃないですよ。ドラゴンと龍って似て非なるどころか、よくよく考えてたら似てすらいないんじゃねーかって思う。あそこでシャン・チーやシャーリンを背に乗せてくれる龍、龍神さま、こんなに馴染む絵柄ねえ!って感じでしっくりきますもん。我々を助け導いてくれる存在としての龍、肌馴染みよすぎた。そういえばあの異界の化け物の親玉を弓で射貫くのも、LotRっぽいつーか、ホビットだよね!ある意味王道ってことですな!

テン・リングス自体がものすごく見栄えするアイテムなので、これを使ったアクションシーンがとにかく楽しかった。子どものころにみたら翌日腕輪10個つけちゃうやつ。

キャスト、シム・リウのシャン・チーが思った以上に朴訥気のいいお兄ちゃんふうで(MCUでいくとサムとかスコットとかの系譜)じっとり水分量の多い役作りじゃないのがすごく奏功してたとおもう。オークワフィナとのコンビもだからこそ活きたって感じがありましたね。アイアンマン3のマンダリンの展開をきっちり落としたのよかったし、まさかベン・キングズレーがここまでがっつり出てくれるとは!っていう。モーリスとのやりとりよかったなあ。でもって、トニー・レオンですよ。嗚呼トニー・レオン、あなたはどうしてトニー・レオンなの、と意味のないリフレインを叫んでしまうほどに魅力大爆発でしたね。憂いと色気と殺気と愛情が同時に見え隠れするってどんな役作りよ。お父ちゃんめっちゃ強!感もありつつ、いやでも、その裏には…?と常に観客にうかがわせる奥行きのある佇まい。いやはや最高でした。

エンドクレジットで出てくるキャプテンマーベルとバナー博士(そしてウォン)、「サーカスへようこそ」って、フェーズ3までのMCUだったらワクワク感が先にきたかもしれないけれど、指パッチンを経たあとの彼から発せられるその言葉の重さね。いやでも、まずは…ホテルカリフォルニアでも歌うか!

「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」

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デヴィッド・エアーの「スーサイド・スクワッド」見たのがついこの間のことのような…ってマジで5年前なのでこれはついこの間だった。続編というスタンスになるのかな。今作の監督はジェームズ・ガン

ヴィランだけを集めた極悪党集団、首に爆弾を仕込まれ後戻りできない背水の陣を敷かれて極秘重要任務に向かうアウトローたち…というのはもちろん今回も同じなんだけど、のっけから「そのへんもう皆さん把握してると思うんでサッサとやります!」とばかりに話が進む。話が進むにつれて、どんどん死ぬ。いやもう、軽い軽い、命が軽い。R指定だけあって、ゴア表現も惜しみない。首も飛ぶ血も飛ぶ人間も動物も等しく死ぬ。「そういうテンションの作品だな」と思って見ないと心のシャッターが閉まりかけるあれです。

映画なんだから当たり前だけれど、命が軽いとはいっても「軽くない命の描かれ方」も当然あるので、その辺の折り合いを(心の中で)どうつけながら見るかっていうのと、あとこれは前作も思ったんだけどこう、映画として描く以上どうしても主要人物がヒロイックになる部分がありますよね。そうじゃないと成立しないしね。まああれだ、悪党?なのか?このひとたち?というそのアイデンティティーの揺らぎがありますよねどうしても。

そういう意味では今作のピースメイカーはすごくいいポジションだった。正義のためにはどんな悪いことでも平気でやる、というその天秤のアンバランスさがキャラクターを立たせていたと思う。リック・フラッグとのバトルは善と悪が綯交ぜになる感じも含めてむちゃくちゃ見応えがありました。

アマンダ・ウォラーはある意味「こいつこそヴィランだろ!!」と思ってしまう役回りなので、あそこで鉄槌を下されるのはこの映画のハイライトのひとつだなーと思いました。スターロ大王との決着のつけ方、「もっとも小さきものが…」というロード・オブ・ザ・リングの名セリフを思い出したとか思い出さなかったとか(思い出したんだよ)。

あのお父さん(ラットキャッチャー1)がタイカ・ワイティティなのすげえし、なにがすげえって売れっ子すぎじゃんよ。イドリス・エルバはもう何をしててもかっこいいですね。ブラッドスポート、あのフルフェイスマスクも、ギミックいっぱいのスーツも最高にアガったし、またイドリス・エルバがそれを着こなしちゃうからなー!

ハーレイ・クインもアクション盛りだくさんでよかったけど、あの将軍とのあれこれは…要ったのか…という気がしないでもないし、DC映画における彼女のキャラの肝とでもいうべきポップな毒が鳴りを潜めてしまった感があった気がして、そこはちと残念でした。

「リボルバー~誰が【ゴッホ】を撃ち抜いたんだ?~」

原田マハさん原作の小説をご自身が舞台のために戯曲化。演出は行定勲さん、主演に関ジャニ安田章大くん。安田くんの舞台、いちど拝見したときに「このひとポテンシャルの鬼やな」と感じた印象が強く残っていて、近隣での公演でもあるし、足を運んできました。

ゴッホが自殺に用いた銃がひょんなことから場末のオークション会場に持ち込まれる、という「現在」を視点にしたストーリーと、ゴッホゴーギャンが生きていた当時のパリ、フランスを視点にしたストーリーが絡み合うスタイル。これ、うまくやれば非常に効果的なんですが、ちょっと現在と過去の交錯がシレっとしすぎていてもったいない感じ。過去のゴッホたちの姿を想像するオークショニストたちという視点がいつしかその物語の中に入り込んでいる、というのをもっと効果的に見せるやり方があったのではないかという気がします。

ただ、ある意味その「銃」の謎を追うフーダニット、ホワイダニットの構図のおかげで格段に見やすいという利点はあった。ゴーギャンゴッホ、テオとゴッホの関係性に焦点を当てるとはいえ、物語の展開としてはそれほど意外性もないので、銃にポイントを絞って過去に遡らせるやり方は小説原作の強みが生きたなあという感じ。

しかし、ゴッホ、好きだねみんな。ウィレム・デフォーゴッホを演じた「永遠の門」も見たけど、ゴーギャンといういわばXファクターが絡んでいること、そして自身の絵が賞賛され絶賛されることをついに目にしないままこの世を去ったというところが創作者の意欲を駆り立てるのか、ほんと、みんな好きだね、というのをしみじみ思いました。とはいえ今作のゴーギャンはちょっと、わたしにはセンチメンタルに過ぎたなという感じ。最後も、いやこれはちょっとロマンが過ぎるというか、甘い解釈だな~~という感想になっちゃったな。いやまあそういう私もテオとの関係性にはかなりロマンを感じているので、人のことは言えないですね。

安田章大くん、生き辛さを抱えた役柄をピュアにコーティングしてて飲み込みやすいゴッホ像。ゴーギャンと再会してぴょーんと飛びつくところ、モドリッチみたいだな…とほほえましくなった(ニッチな喩えを使うでない)。

今回のハコは東大阪市文化創造館大ホール。出来たばっかりのピカピカの施設で、駅から近いしミナミから近鉄で15分程度なので立地は悪くない。2階席で見ましたが、客席が千鳥なので見やすかったです。ただ、今回の演目、東京ではパルコでやってたわけで、キャパ636からキャパ1500。無理があるよなーと。やっぱりパルコサイズでできあがっちゃってるもの。大阪公演やってくれるだけでもちろんありがたいのだが、こういう問題は常に付きまとってくるよな…と改めて実感した次第。

「フリー・ガイ」

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原作ものでも!続編でも!ユニバースものでもない!ましてやリブートであろうはずもない!それだけでもはや希少種!かもしれない!なライアン・レイノルズ主演の新作です。予告編は結構前から目にしていた気がしますが、コロナ禍で公開が延びて日米同時公開のタイミングに。監督はショーン・レヴィ

いやーむちゃくちゃよかったです。ツイッターでフォローさせて頂いている光岡三ツ子さんの試写をご覧になったあとのツイート見て「なんかこれ…早めに行っておいた方がよさそう!」という勘が働いた。以下ネタバレあるのでこれからご覧になる方はご注意!

ごく普通の青年「ガイ」はどこにでもいる市民のひとりだった。決まった時間に起床し、金魚に挨拶、いつもと同じ服、同じコーヒー、同じ毎日。さあ、今日も元気に銀行強盗に怯えるぞ!それもそのはず、ガイはオンラインゲームのモブキャラだったのです…!という世界。でもある日、彼女との出会いが彼を変える。まさにBOY MEETS GIRL。モブキャラだったはずのガイが、そのAIが恋という要素によりプログラムを超えて成長していく。

というだけなら「そうですか」で終わりそうな話だし、こういう「箱庭的世界」を描くのは舞台がゲームであってもなくても先駆的作品はあるわけで。しかし、ここからが脚本の妙としか言いようがないんだけど、そのAIの元のプログラミングを組んだ現実世界のキャラクターとAIによるキャラクターの交流が描かれるところ、さらにはその盗まれたプログラムの証拠を追う筋書き、そして「続編のリリースによってその証拠が(つまりは育ったAIも)消えてしまう」という、映画の脚本で誰もが四苦八苦する(と推察される)「世界の終わり(に、等しい危機)」の出現とそれとのデッドレースを無理なく描くことに成功していること!

続編ありきの敵キャラの言うことどれもが、おそらくはハリウッドで映画製作をする誰もが一度は言われたのではないかという台詞ばかりで、そのうっぷんを晴らすような展開がほんとうに胸がすくったらない。でもって、自分はただのプログラムで、実体を持たない存在だということを知らさせて自暴自棄になるガイが、友人(バディ)の言葉で開眼する展開のアツさよ!「おれは今親友の悩みを聞いて、その役に立ちたいと思っている。この感情はリアルだろ?」くーっ、泣ける。物語は、フィクションはもちろん絵空事かもしれないけれど、でもそこで生まれる感情はリアルなのだ。そしてそのリアルこそが我々を突き動かすのだ。

盗まれたプログラムの証拠が「ブラインドの反射を消し忘れた」ことから発覚するのもいい。未完成なままアップロードされた筋骨隆々なデュードが「決めセリフ2~!」とか叫ぶのも面白すぎたし、あの絶体絶命!のところで出てくるサングラス、そこから出てくる…アレ~~~~!!!そんであの人~~~~~!!!いやマジ声が出そうになった。しかもそこからのみんな大好きライトセーバーよ。21世紀FOXがDisneyに買収されたことをここまで版権的な意味で利用しまくった作品があっただろうか。痛快すぎる。

豪華なサプライズゲストの中でもチャニング・テイタムのテイタム味がほんと満載で、あのシーンむちゃくちゃ笑いました。いやでもこれもライアン・レイノルズの人徳でもあるよな。ヒーローものに真摯に向き合ってきた人だからこそというさ…。いや本当、脱帽です。

アントワンを演じているのがタイカ・ワイティティで、そりゃもう楽しそうでした。そりゃもう楽しそうでしたよ。私が一番イラッときたのはあのSを指で描いて「ソリューション」っていうところ~~!!腹立つ~~~!!

「そういう役割」を付与されているモブキャラたちが、自由に、少しづつでも自由になろうともがくところも、よかった。たまにはカプチーノだって作りたい。サングラス族の横に座って微笑むだけのトロフィーガールなんてほんとは自分らしくない。猫は探しているより抱っこしているほうがいい。手だって下ろしたい!あっという間にすべてが変わらなくても、少しづつ変われる。これはいままさに判で押したような毎日を余儀なくされている私たちへのエールでもあるし、そういう力が世界を変えるんだよっていう脚本でもあって、いや本当に素晴らしかったです。マジでおすすめ!!!