「薔薇とサムライ2 −海賊女王の帰還−」新感線

薔薇とサムライって何年前だっけ…って自分のブログ見たら12年前だったのでまずそこで腰抜かしました。そんな!?そんな昔!?干支一周するやつ!?ってことあるごとにこういう述懐繰り返すのいい加減読んでる方も飽き飽きするんじゃないかって思うものの驚きが止められない。そんなわけで12年ぶりにみんな大好きアンヌ・ザ・トルネードが帰ってきたぞー!

自分の中の感覚ではつい昨日のことのよう、というやつだけど作品の中身はしっかり12年経過していて、天海さんがいろんなところで「これが最後~」と冗談めかして語ってらっしゃるが、実際そうなのかもなと思わせる中身だし、世代交代がテーマっていうのが芝居の中身も、やっている側にも当てはまるようなメタ的なテーマにもなってましたよね。

さて以下は舞台の内容に詳細に触れてますのでまだ見てない人は本当に観ちゃダメなやつ。マジです。

女王として国を統治するアンヌは隣国の領土紛争に巻き込まれ、自国の宰相が密かにその領土拡張を狙う女王と相通じているという中、ひょんなことからその事件の一端を知った五右衛門がアンヌのもとにやってくる…という筋書き。中島かずきさんなので、もちろんソフトだしエンタメに仕上がってはいるものの、かなり世相を強く現したホンになっていたなと思います。コルドニアとボルマンが「パン」をふるまって国力を示そうとするのは一見ファンタジックに見えるけど、「小麦」と置き換えたら、世界有数の小麦生産量を誇るウクライナを彷彿とさせるわけだしね。

アンヌや五右衛門の台詞にも、舞台の上でも、キャラの上でも若手であるキャストに「次へ繋がる」台詞をかける場面が多く、いやマジで世代交代だな…としみじみしたりして。

そんなこんなで、一幕はこれでも心穏やかに観られてたんですけどね。二幕がダメ。あんなの見せられたらもう、それより前のことはなんも覚えてません!みたいになってもしょうがなかろうもん。一幕ラストで記憶喪失になったアンヌ、二幕の出がいきなりトート閣下コスでそれだけでも御馳走ってなもんだが、そのあとの「怪盗紳士」ってフリでなんか予感はしてたのよ。でも予感してても意味ないのよ。
実物が…すごすぎて…!
この薔薇サム2の感想書くの後回しにしてたのも、これ感想に詳細書きたいけど(こんなエポックスルーできるか!?いやむり!)でも詳細書いちゃうとまだ公演期間長いのにー!ってのがあって、こうなったら自分が新橋演舞場でお代わりするまで引っ張っちゃお、と思ったからなんです。

いやもうね、扉の向こうから黒燕尾の天海さんが現れたときの、あの客席のどよめきのすごさたるや!大阪のあのフェスティバルホールが揺れたし、いわんや新橋演舞場をやですよ。すごい、もう、これを表現する言葉がない。薔薇とサムライの時の感想に私こんなこと書いてるんですけど、

この舞台、往年の天海ファンには堪えられないものじゃないでしょうか。だってもう、宝塚をやめて、ヘタしたらもう二度と見ることが出来ないかもと思っていたかもしれないあんな姿やこんな姿、しかもそれがとびっきりにカッコイイってどうしたらいいんだっていう。

これの究極だったよねまさに。文字通り「もう二度と観ることが出来ない」と思ってたものだと思うし、何よりすごいのがさー!それが、今、2022年の今でも、客席をバッタバッタとなぎ倒すオーラと圧とカッコよさとなんかもう…すごいものが具現化した姿で観られているっていうその事実よ!あれは拝むし、このために私の寿命を差し出してもいいとさえ思わせるし、そう思わせて有り難さのあまり寿命が延びるしっていうわけのわからん状態でした。あそこで全力の男役天海祐希を受け止める聖子さん、本当千穐楽まで生き延びて下さい。投げキッス受けたあとの「ギャーーーーーー」って声は客席のすべてのファンの心の声ですマジで!ほんっと、この場面だけでチケット代の価値がある!!!

あと今回特筆すべきはやっぱり早乙女友貴くんでしょう!!いや素晴らしかったね。ストーリーがかなり政治的な色合いが濃いので、チャンバラ新感線を求める向き(私だ)には食い足りないな~と思ってしまうところだが、そのフラストレーションをひとりで受け止めてひとりで解消してくださってました。友貴くんが出てくると「うまいひとキターーー」って思うし、川原さんとの立ち回りになると「うまい人とうまい人キターーー」ってそのたびにきゃいきゃい喜んじゃいました。王子の衣装で最後に見せるところもむちゃよかったね。あの一瞬で見事なマント使いを印象に残す、最高の仕事師ぶりです。ほんと、こういうのを見るといかに鍛錬された肉体ってものが強いか思い知らされますな。

ヴィランを生瀬さんが引き受けてくださってるところも、舞台全体が締まった部分だし、古田さんは今回天海vs生瀬の構図になったことでかなり荷物を下ろすことができたんじゃないかって印象です。

新橋演舞場で拝見したときは、折角の演舞場だし!ということで桟敷席で拝見したんですが、これもナイスチョイスだったと自分を褒めたい。視線の高さが違うので、キャストを見上げず目線の高さで観ることが出来るのむちゃくちゃよかった。よかったし、もう私はこの日は自分の視線を天海さんに全振りしようと決めていたので、ひとつひとつの仕草の確かさや、大きな劇場で芝居を届ける、ということがどういうことかっていうのをひしひしと感じることができたなーと。カーテンコールでのお辞儀、そのときの足の角度や美しさ、帽子を取ってゆっくりと客席に手を向けるときの大きさ、マジで、マジで、こういうものが観たくて劇場に足を運んでいる、というものの結晶のようなお姿でしたね。すべての若手はこの背中を見て学んでほしい(誰目線)。本当にこれで新感線へのご出演がファイナルになってしまうのかわかりませんが、たとえそうでも、もう文句は言えない!ってほど、得難いものを観させていただいたなって気がしております!

「Q:A Night at the Kabuki」NODA MAP

2019年の初演から3年ぶりの再演、しかもメインキャスト全員続投というのがすごい。これだけ売れっ子ばかりを揃えているというのに!

いわば完全再演なので、驚きをもって観るというわけではなかったですが、やはり時を経て、かつ大河ドラマが「鎌倉殿の13人」というタイミングもあって、いろんなディティールの解像度は前よりも上がったなという気がします。そしてもちろん、それは現在のロシアを巡る世界情勢も然りなのだった。

これは初演の時の感想にも書いたかもしれないが、この作品の眼目であるところのQUEENの「オペラ座の夜」をモチーフに、という部分については、これらの綺羅星のごとき楽曲たちとこの戯曲ががっつりかみ合ってる、という感じはなく、ショーケース的なものになってしまっているよなあと思う。正直野田さんの舞台での音楽の使い方って天才演出家の唯一の弱点、みたいなとらえ方を私はしているので、今回もその部分は不満といえば不満かもしれない。Love of My Lifeがあれだけ繰り返し使われるのも、この曲がもっとも(というか唯一)御しやすいからだと思うしね。

しかし、3年前の時点から、戦争にフォーカスし、そこに誰もが知っているロミオとジュリエットの「その名をお捨てになって」という名セリフから、名も知られず戦って死んでいく者たちに手を差し伸べるこの戯曲の凄みは今になっていや増すばかりだと思います。今、この瞬間にも、世界ではそうした現実があり、我々はそれを3年前よりもはるかにはっきりと感じとる場所にいる。

私には名前があった。この戯曲はこの一行に辿り着くための長い旅路だと思うし、その最後の肝を託される松たか子のすばらしさたるや。私が観た回で、この最後の手紙で彼女が感極まってるのが見て取れ、でも声の震えをぐっと抑え込んで演じきった、顔を上げた瞬間にほろっとこぼれた涙の美しさよ。これも初演の時の感想で書いたかもしれませんが、私がいまいちばん好きな舞台女優はあなただよ…!ともうほれぼれしてしまいます。

羽野晶紀さんや橋本さとしさんの新感線組のタフさというか、場数が仕事してる…!みたいなプロフェッショナルぶりにも改めて感じ入ったし、純粋再演ならではの醍醐味を堪能させてもらえた観劇でした。

「阿修羅のごとく」

向田邦子の手によるドラマ脚本を舞台化。脚色・演出家の選球眼といい、魅力的なキャスト陣といい、これはツボを突かれるプロデュース公演やで~!と第一報でなるやつ。

今回客席を四方囲みにするというアナウンスがされていて、入場してみたら思わず膝を打つというか、もうそこで先制点みたいな感じでしたね。舞台上部に相撲の吊り屋根。これだけで、何を見立てているかを瞬時に観客にわからせる。通常吊り屋根の四方には房が下がっており、それぞれ青・赤・白・黒が4つの季節とそれぞれの神(青龍・朱雀・白虎・玄武)を表すというのを考えると、まさにこの舞台にうってつけ。

ブロンテの若草物語がそうであるように、「四姉妹」というとどうしてもキャラ立てがまったく違う4人を並べる形になりがちだし、今作も一見そう見えるんだけど、この見立てに乗っかると、綱子、巻子、滝子そして咲子は、それぞれ人生の春夏秋冬を現しているようで、そうなるとある意味ひとりの人間におとずれる人生の4つの季節、みたいな見方もできるところがむたくた面白い。これらが舞台装置ひとつでいくらでも掘り下げられるのはまさに演劇の醍醐味といったところ。

舞台上に電話を配置したのもよかったなー。電話という小道具は実のところ諸刃の剣というか、携帯に慣れ切った今では、見せ方使い方をちょっと間違えると同時代感が一気に薄れちゃうんですよね。でもこの舞台における電話は、もちろん黒電話だったり公衆電話だったり、昭和のものではあるのに、置き方と見せ方がうまいので全然古さを感じさせない。綱子と巻子がそれぞれの家の電話を取りながら舞台上で向かい合って話すのとかね、まさにセンスだよなあ。それで台詞が向田邦子の台詞なんだから、これ面白くないわけないのよって感じでしたよね。

4人の姉妹がそれぞれの役を演じつつ、そして男性陣2名はそれぞれの相手役をかわるがわる演じつつ、4姉妹は別役でもちらっと顔を出すのもコンパクトで、でも役者のしどころでもあって、楽しかったな~。中でも、安藤玉恵さんの滝子ともう一役(咲子の彼氏の浮気相手)の振り幅よ。あの瞬間に見せる肉体そのもののだらしなさ、みたいなとこを表現できちゃうのすごすぎる。岩井秀人さんも、方向としては真逆のキャラクターなのに、圧をかけるのもかけられるのもうまいのがすごいよ。安藤玉恵さんと岩井さんの消火活動からの情熱のダンスが最高過ぎて、こういう芝居が私を演劇好きにしたんだったそうだった!木野花さんって限りなく私の原点に近いところにいるんだったそうだった!ってマスクの下で顔のニヤケが止まんなかったっすよ。

ほんと全員がそれぞれ別ベクトルの魅力があって、それがぶつかり合ってて、演出も限りなく自分のツボで、ほんと観ている間むちゃくちゃ楽しかったですね。席位置的に、夏帆さんがラーメン食べる場面を間近でガン見したのもあったのか、帰りにラーメン食べて帰りました。引っ張られすぎや!

「天の敵」イキウメ

5年ぶりの再演。初演も拝見していて、非常に面白かった記憶があります。「食」「健康」という誰もが直視せざるを得ない事項に対して、前川さんお得意の「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」絶妙なリアリティラインを突く物語なので、ぐいぐい引っ張られながら見てしまいますね。これ絶対作品に引っ張られたんだと思うんだけど、見ている間むちゃくちゃ喉の渇きを覚えてしまって、つまるところ見ている者に「飢え」「渇き」を感じさせる舞台だったんだなーと思います。

芝居の途中で、「健康になりたいという病気」という台詞があり、改めてすごい台詞だなと思いましたが、「これを飲めば健康になれる」「これを食べるだけで病気が治る」、そういう惹句がこの世界から消えないどころか、そうしたわかりやすさに対する警鐘が常に鳴らされていても絶対になくなりはしないのは、まさにこの「健康になりたいという病気」が我々の中にあるからなんだろうなと考えさせられます。でも同時に、そうしてシニカルに斬って捨てられる人なんてほんとにいるのかっていうのも思いますよね。いつまでも若くいたいという願望はともかく、健康でいたい、命を永らえるという意味だけではなくて、やりたいことをやり、見たいものを見て、つまるところ「自分らしく」生きるための土台ってどうしても健康前提だったりするじゃないですか。それを得られるかも…という誘惑に、果たしてどれだけの人間が抗えるのか。

あと、初演のときはそこまで感じてなかったけど、橋本がこうして永らえた自分の生命が、「何の役にも立たない」ことに絶望するのが、今回のほうがしっくりきてる感じがあった。この世界に私の居場所はない、という台詞の重さよ。そして、何かを得たけど何かを喪っている(橋本の場合は日光)という等価交換の感覚が消えた時に、恥の感覚が強く残るというのも面白い描写だと思いました。そういえば天の敵っていうタイトル面白いなと改めて。人の道に相対する言葉として描かれている感じ。

この芝居はなんといっても浜田さん演じる橋本の、まさに得難い「異物感」と、世の中を諦めているようで達観しきれない寺泊を演じる安井さんのぶつかり合いというか、時にキャッチボールだったり時にピッチャーとバッターだったりという関係性の面白さと、あのセットの中で相対するふたりと100年の歴史を同時に舞台の上に乗せてしまう演劇ならではの構成がまさに極上の味付けだと思ってるんですけど、初演からますますブラッシュアップされて見応えしかないという感じでした。

これは完全に余談ですが、私も最後の晩餐は鰻がいいなと考えながら帰路につき、まんまと鰻弁当を買って帰ったので、やはり相当、引っ張られております。

「ピピン」

前回上演の時の周囲のお友達からの評判がとてもよく、そのときは見逃したので今回の上演待ってました!あざっす!!!という感じで飛びつきました。飛びついたわりには事前情報をまったく仕入れてなかったので、カール大帝の息子ピピンって名前が出てきて「あっ、そっち!?」と驚いた次第。そっちといっても、実際に歴史物を重厚に見せる芝居ではなく、「ピピン」という「偉大なる父のもとで育った、何者かになりたい若者」をピピンの器を借りて寓話的に見せていくという形でした。

サーカス小屋での出し物としていろんなシーンが展開していくんだけど、まあまずこの手の「見世物小屋」の雰囲気が嫌いな観客などいない(暴論)。好きに決まってるやつだし、あとやっぱりボブ・フォッシースタイルの振付の偉大さよね。前情報まったくなしで見たけど、さすがにこれのオリジナルがボブ・フォッシーの手によるものだということは知らなくてもわかる。はーかっこいい。彼のダンスのセクシャルさって不思議とヘテロセクシャルな匂いが薄い。個でなりたつセクシャルさ。

それからなんといっても最終盤の展開よ!ピピンが最後にキャサリンとテオに出会い、その時点で観客としては「ここに本当の幸せがあるとか言い出すやつ」って予想はつくわけで、実際にその通りになるわけだけど、序盤から繰り返される「一生忘れられないクライマックス」がなんなのか気づかされるところもシニカルの極みだし、加えて去っていくピピンとキャサリンからテオの手が自然と離れて…ってあたりでわーおそう来る!?って思わず顔がニヤけちゃったもんね。

何者かになりたい、もっと充実感のあるものがほしい、そういって戦争に行き淫蕩の限りを尽くし革命を起こし、でもいつも「思ってたんとちゃう」と「何者にもなれなかった」若者、このサーカスはその「何者かになりたい」という欲望を養分とするかのように大きく、派手に育っていく。しかし若者が「地に足をつけ」ると、まさにバブルが弾けたように欲望の風船は消え、舞台装置は取り払われる。けれども、「何者かになりたい若者」が後を絶つことはないのだ…とでもいうようなラストシーン。いやあ良い。こういうのめっちゃ好きです。

全開続投組も、今回の新キャストもみんなよかったなー。クリスタル・ケイさまあれはカッコ良すぎ!!!歌もさりながら、けれん味のある、ハッタリの効いた芝居の数々に目がハート。あとはなんといっても前田美波里さまのあのパーフェクトボディぶりよ…いやすごい。スマートならざりし我が体形じっと手を(腹を)見るどころじゃない。

大阪公演初日を拝見しましたが、森崎ウィンくんの挨拶があり、東京公演で一部中止になってしまったことに触れた時ほんとに泣いちゃって、いや振り回される観客もつらいけど、やれないほうもつらいよね…まじでコロナめ…と3億8000万回目ぐらいの呪詛を心の中でつぶやきました。大阪公演無事の完走なによりです!おつかれさまでした!

「VAMP SHOW」

初演1991年、再演2001年。えーあの再演からもう21年経ったの!?ってこういうことがあるたびに思うやつ。もともとはサードステージプロデュースの公演で(だから初演の演出に板垣さんが入ってる)三谷幸喜にホンを書いてもらって新感線(古田)TSB(西村)第三舞台(京)の役者らが勢ぞろいしたわけだから、今から思うとすげーなって感じですし、再演は再演で堺さんやら蔵之介やらが顔を揃えてて、そう思うと今まで再演されなかったが不思議な感じもしますね。今回の演出は再演メンバーでもある河原雅彦さん。

もう全公演終わってるので遠慮なく展開を書いていくが、「電話」がわりとキーになるので、携帯・スマホのあるなしをリライトするのかなと思いきや、まったく変えずでしたね。そのまま使うって条件つきだったのかな。リライトつっても、携帯の電波が届かないことにしないとどうにもならないとは思いますが。ちなみに、私がこの芝居でいちばん好きな台詞は「通じるわけないよ、あれ貯金箱だもん!」なんですが、ここはやっぱり「電話」というアイテムの重さが今と初演当時では違うので、昔ほど爆発的なオチにはなってなかったかもしれない。逆にいまは「貯金箱としての赤電話」のほうが実際「あり得る」という感じなのかもしれないですね。

丹下の役は初演キャストだった古田新太の嗜好をかなり色濃く反映した役柄になっており(終盤のこれでもかなスプラッタは完全に彼の趣味)、再演でもじゅんさんでこれが引き継がれたので、こうしてフラットなキャストで見るとあの部分はちょっと浮いて見えるところもあるな。他がかなりきれいに死ぬのに比べるとね。

かなり倫理観ガバガバな台詞が飛び交うけれど、そもそも吸血鬼だしねというエクスキューズがあるおかげか、それほど古くさく感じずに観られた印象があります。そこは5人のキャラの立て方のうまさもあるんだろうな。三谷さんの趣向としてホラーは範囲外というところはありつつも、小道具の使い方や設定の巧みさはさすが。あのかばんも、最終盤までうまく引っ張るなと思いながら見ていました。

一番好きな台詞があれですから、当然駅長さん激推しなんですけども、初演三谷さん再演手塚とおるさんで、今回菅原さんで完全におれの好き系譜やん!と嬉しくなりました。期待にたがわぬ面白さとバランサーぶり。岡山天音さんの島は今までとちょっとタイプは違うけど、わんこ系可愛がられ後輩の色がハマっててよかった。久保田紗友さんは公式サイトで「大きな舞台は初めて」と話されてましたが、そのコメントが意外に思えるくらい堂に入ったところがあって好感。姿勢つーか、立ち姿がまず堂々としててよい。この芝居って小田巻の謎の動じなさがボディブローのように効いてくるのが肝だと思うので、よいキャスティングだったんじゃないかと思います。

「頭痛肩こり樋口一葉」

井上ひさし御大の代表作のうちのひとつにして、こまつ座旗揚げ作品。初見です!こんな有名な作品なのに今まで見たことなかった!安野光雅氏のイラストが配されたチラシは何度も拝見した覚えがありますけども。

樋口夏子(一葉)が19歳の時から、亡くなるまで(亡くなってから)の7月16日、盆参りの1日を舞台にするという、演劇ならではといえる構成。暦年の中のある1日だけを切り取るって、かつて三谷幸喜岸田戯曲賞を獲った時の野田秀樹の選評「花見の場所取りのうまさ」を思わせる。夏子がまだ何者でもなかった時代から、何を経て「樋口一葉」に辿り着いたのか。描く場面が限られているので、たとえば半井桃水との恋模様や、「大つごもり」や「にごりえ」が世間に受け入れられた様子などは直接描写されない。しかし、1年、また1年と夏子が何を諦めて何にしがみついて生きようとしていたかは、定点観測だからこそ伝わるものが大きい。

登場人物は全員女性で、それぞれの女としての処世術がまったく異なるのも面白かった。世間様第一のものもいれば、夫によって苦しめられる妻もあり、夫を助けようとして苦しむ妻もあり、女というだけで押し込められる生き方に反発するものもあり。このあたり、約40年前に書かれた戯曲であっても、今でもまったく有効な描写があるところが、なんだか悲しくなってきちゃいますね。「えーこんな時代もあったんだー」ぐらいに振り返るようには、まだまだぜんぜんなってないものね。

この夏子の物語に花蛍という幽霊を絡ませ、かつその花蛍の復讐譚が思わぬ着地を見せるところはさすが御大だなあというところ。そんなこんなで、戯曲としては大変おもしろく拝見したのだが、演劇として沸き立つものがあったかというと、そこが若干微妙という感じになってしまった。もともと御大の戯曲、すごくフィットするときとそうでないときがあって、加えて演出家との相性も合わない時はホントに合わないので、それも要因かな~。

しかしキャストはなべてすばらしく、わけても若村麻由美さんは観るたびに印象が異なるというか、変幻自在なのに決してオーバーアクトではないっていうのが素晴らしい。この戯曲、それこそ一度女性演出家で見てみたいな。また違った樋口一葉像が見られるんじゃないかと思うんですけども。