「トランス」  RUPプロデュース

「はっきりさせなくてもいい/あやふやなまんまでいい/僕たちは何となく/幸せになるんだ」
トランス、という芝居を思い出す度にこの曲を同時に思い出す。ブルーハーツの「夕暮れ」。どうしてトランスとこの曲がイコールで繋がっているのか、劇中で使われてたんだっけ?それともこの曲を聴いたときにあまりにもトランスにずっぱまりだったので勝手に関連づけてたのか?それすらもう覚えていないんだけれども。

何から書いたらいいのかなぁ・・・・。久しぶりにこのホンに触れてやっぱりよくできた作品だなぁと改めて思いました。名ゼリフてんこ盛り。あの自在な舞台装置はわりと好き。河原雅彦さんは初見だったけど、下手したらあたし的に直球ど真ん中で恋に落ちるかもぐらい佇まいと顔が好き。ともさかりえちゃんはビックリするほどかわいい。肌キレー。最前だったんで、見とれました。銀之丞さんはもう期待通りに好演というか。いいよね、やっぱ情熱が感じられる役者さんで。大好きです。

私は初演のトランスを見ていますが、でもあまり思い入れはありません。ビデオだって1回しか見てないし、その後公演されたトランスのVer.2と3は未見です。
でもあたしは今日の芝居悲しかったです。初演と較べて、ということを抜きにして。
トランス、という芝居の山場、これは誰がみている妄想で、誰がみている現実なのかが二転三転とするシーン、「それは君の妄想だ」というセリフが3度目に聞こえたその瞬間、会場中が失笑しました。そしてその後、もう一度参三に対して雅人が「イヤ、それは君の妄想だ」といった瞬間、今度は会場中が爆笑しました。文字通り。
あたしは何がおかしいのか全然わからなかった。でも、あのシーンで笑うことを許してしまったのはお芝居として致命的だとも思った。それは、役者の技量が足りないせいなのか、演出のせいなのか、大きな劇場すぎて場、というものが拡散してしまったのか。

鴻上さんの戯曲は端で見るより演じるのが難しいのだな、というのを、「ララバイ」の時も思ったけれど今回も痛感しました。なんということはない会話の最中で突然モノローグに切り替わったり、主観が変わったり、短いセリフで感情を繋いだり、そういう非常に細かい一つ一つのきっかけを逃さずに演じないと、本当訳がわからなくなる。ともさかにしても河原さんにしても、後半で自分の感情を激しく出すシーンは迫力が感じられるのに、前半の一見淡々としたセリフの応酬では力が感じられない。銀之丞さんの参三はキャラクターが特異ということもあって救われていたけれども。

演出は木野花さんだったわけですが、木野さんの即興を主眼に置くやり方は今回はキビしかったように思いました。会話の間が空きすぎ。オチが流れすぎ。あと、屋上でのピクニックのときにやるアドリブのジェスチャーゲーム、ともさかは完全に「素」になっており、確かにそれは笑えるが、でもああいうのは好きじゃない。役としてアドリブを言うならいい。でも舞台の上に「ともさかりえ」が帰ってきちゃってどうするよ。即興で芝居を作るには明らかに技量不足という気がしました。

そうしてもうひとつ不思議なのはここんとここうまで凄いのも久々、というぐらい客のマナー違反大炸裂でした。うしろの二人組常にひそひそ。振り返ってメンチ切ったら一瞬やめたがすぐ復活。斜め後ろはものを食ってるし。(2列目なんですけど・・・)挙げ句左隣は途中でマナーモードにしていたらしい携帯に着信がはいり、更にはその携帯から「○○ちゃんいまどこー?折り返し電話くださーい」という留守電メッセージが芝居のクライマックスで聞こえてくるシマツ。どうよ。

そんなこんなで、なんだかもう、ものすごく悲しい気分になってしまった観劇だったことよ。トホホ。