「赤鬼」NODAMAP

芝居を見に行くと大抵「アンケート」なんてものがあって、それに住所を書いたり名前を書いたりしておくと次の公演の案内が来たりしてお得だし、いい芝居だったらひとこと何か伝えたくなるし、だから終演後のロビーではみんなしこしこと鉛筆を走らせている光景が当たり前なのだけど、でもたとえばこの芝居を見た直後に「本日の公演の感想をお書きください」なんて言われて戸惑いもなくすらすら自分の思うところをあますことなく伝えられるぐらいだったら芝居なんか観に来てないよと思うわけだ。「よかったです」「面白かったです」「感動しました」ああ、なんてぺらい言葉。「赤鬼」の前に、言葉はまったく役に立たない。

NODAMAPの番外公演の中でももっとも印象的な作品。野田さんの戯曲のなかでは珍しいほうだと思うけれど、誰しもに覚えのある他者との関係性が扱われているので、ロンドン版、タイ版とこの作品が発展していくのも頷けるところ。日本版は4人で様々な登場人物を演じ分けるので、役者にも高い技量が求められます。

この作品を見た後に心に去来する哀しさっていったいなんなのかなあ。絶望して死んでいった「あの女」が哀しいのか、こんな狭い世界で「他者」を排斥しないと成り立たない社会が哀しいのか、言葉を信じ、言葉に振り回され、言葉に裏切られる人間が哀しいのか。とんびの最後のセリフの後、照明がだんだんと消えていき、カーテンコールの拍手をしているうちに涙が止まらなくなるのは初演のときも同じだった。8年前私は、「この感動の前には言葉なんて屑だ」と書いたのだけど、結局今でも同じ事しか書けそうにない。

食え、そして生きろ。それは人間が生きていく上で根幹をなす言葉だ。あの女もそうした。食って、そして生きた。そしてあの女は気がついた、自分も「そうしなければ生きていけない人間」であること、そしてこれからも同じ事を繰り返していくことに。人が生きるために食べるものが鬼だから。あの女の絶望は、人というものへの絶望なのだろうと思う。

初演のキャストの中でも、ミズカネを演じた段田さんは私にとってほとんど「絶対」で、何しろ遊眠社を解散してから初の野田さんとの共演だったし、その阿吽の呼吸っぷりにはまったく惚れ惚れしたものでした。だから正直なところ大倉くんに一抹の不安も抱いていたんです。私の中では、初演は絶対に超えられないだろうと思っていたし。でも、かれは凄いよ。観ている間、私はまったく段田さんのミズカネを思い出さなかった。超えるとか超えないとかじゃなくて、大倉くんは彼にしかできない、彼のミズカネを完璧に演じていたと思う。中でももっとも印象的なのが、「お前を愛してるからだよ。・・・ちげーよ!お前とやりたいからだよ!」というセリフ。私はここで涙を止めることができなくなった。彼の背中に信じられないぐらいの愛を感じて、なのにそれを言うことができないミズカネの切なさに私は泣きました。

もしかしたら、野田さんのとんびを生で見ることができるのはこれが最後なのかもしれないなと思ったりもしたのですが、しかし今はまだあのセリフが、最後のセリフが野田さんの声以外で聞こえてくることがうまく想像できません。鴻上さんは著作「名セリフ」のなかで、野田戯曲の中からこの「赤鬼」のとんびのラストシーンをあげているのですが、このセリフを声に出して読み上げると、絶望という目に見えないものが音として聞こえてくる、それを素敵な俳優が演じると、それはそのまま「絶望」が形となるのだ、と書いています。私にとって、野田秀樹以上に、この絶望を形にしてくれる俳優が、今はまだ思いつかないのです。