私達の声に耳を傾けないで

ずいぶんと勝手な考え方だなと思うのだが、ネットでの匿名の書き込み等々に関して、役者や作家やアーティストが何か言うたび、どうということはない発言なのに複雑な気持ちになる。大抵は彼らの言い分がもっともなように思えるのだが、それでもどうにも複雑なのだ。それはなんというか、「そんなに私達の言うことに、耳を傾けないで」という感じが一番近い。とはいえ、私もネットで匿名の書き込みをしたことはもちろんあるし、このサイトだって本名でやっているわけではないのだから、ある意味匿名のようなものなのに、それでも「耳を傾けないで」とはやはりずいぶん勝手な考え方だなと自分でも呆れる。

ネットによって様々な公演の感想や今日起こった出来事が、ウェブ上に絶え間なく流れるようになり、便利な世の中になったものだと思う。匿名掲示板や一行レビューにあげられる感想は絶えることがない。だけど不思議だ、本来なら匿名の書き込みより署名入りの記事の方が信憑性があってよさそうなものなのに、なぜか人は匿名の記事の方を重視したがる。それはきっと、ある一人の感想は「その人の感性」であるのに、匿名の記事は「氷山の一角」になってしまうからなんじゃないかと最近思うようになった。一行レビューに5人の無星が続いたらそれはまるでその芝居が「まったくダメだったとほとんどが思っている」という印象になってしまうのだ。でもその書き込みが示すのは、単にその日の客の中で「5人には気に入られなかった」ということにすぎない。その5人という数ですら実は怪しい。2ちゃんねるでも同じである。絶賛の書き込みが5つ続く。「傑作。これは見ておくべき」「もう一度見たい」「当日券って出るの?」そうするとまるでその5人の影に何倍もの人が居るような錯覚にとらわれる。逆に批判の言葉が5つ続く。「最低」「見るとこなし」「金返せ」。その5人の言葉によって、あるかどうかもわからないその下の氷山の幻影を見てしまう。だがその芝居のその日のキャパが200なら5という数字は40分の1にすぎないし、500なら100分の1、1000なら200分の1に過ぎない。実際に氷山があるかどうかなんてことはこの際問題ではない。2ちゃんねるでの評判があてになるかどうかも問題ではない。問題なのは「そう見えてしまう」ことだ。

匿名の記事には本音がある、と私達は錯覚しがちだ。タテマエでは言えないこと、表では言えないこと、しがらみで言えないこと、それが匿名の書き込みでは読める。そう思いがちだ。それは強ち間違いではない。だけど、私自身も一行レビューや2ちゃんねるに書き込むからこそ思うのだが、匿名でしか言えないことには、匿名でしか言えないだけの価値しかないと思う。それがたとえ本音であっても、堂々と自分の名前を出して言えるだけの本音ではないということなのだ。私はそういうコミニュケーションを悪いと思っているわけではない。誰もが気軽に自分のつぶやきを落とせる、そういう場所も必要だと思うし、そこに真実が含まれている場合もあるだろう。だけどそれを「基準」にされるとなんだか不思議な感じがしてしまうのだ。客がそれを基準にするのは別に構わない(金を払うのは自分なのだから)が、ものを創っている立場の人間がそれにとらわれることには違和感を覚える。

匿名での批判は卑怯だとか、そういう発言を聞くたびに「お願いだからそんなに耳を傾けないで」と私はどうしても思ってしまう。誰しも評価は気になるだろうし、客がどのように思ったのか知りたいと思うのは当然だろう。だからこそアンケートを配りもするのだろう。だけど「どう思ったか」なんて、本当にはわからないことなのだ。本当にはわからないことは、ネットの中でも当然わからないことなのだ。それは匿名掲示板に限らず、ファンサイトでもわからないし、もしかしたらアンケートでもわからないことなんじゃないだろうか。それはその日の客席の、ネットも見ずアンケートを書くこともない、「観客」の中にだけあるんじゃないだろうか。創り手の人が信じるべきなのは「自分が創りたい物」であり「自分の信じる面白さ」しかないし、頼りにするべきなのは「客席」しかない。客を信じるな。ただ、客席を信じろ。それは目に見えず、なんとも頼りないものかもしれないが、そこにしか答はないような気がする。