「四月大歌舞伎 夜の部 籠釣瓶花街酔醒」

「籠釣瓶」、妙にはまってしまったので別エントリに。

下野佐野の次郎左衛門は、商売一筋の真面目な絹商人。下男の治六とともに吉原を訪れ、美しい花魁八ツ橋に一目惚れします。八ツ橋に次郎左衛門は通いつめ、身請けをするところまで話が進みます。ところが、間夫の浪人繁山栄之丞から次郎左衛門と別れるよう迫られた八ツ橋は、満座の中で心ならずも次郎左衛門に愛想づかしをします。八ツ橋のことを深く恨んだ次郎左衛門は、四か月後に妖刀籠釣瓶で八ツ橋を切り殺してしまうのでした。

以上が松竹のサイトに書かれてるあらすじ。このたった数行で説明される話が、舞台にあがるとこうも面白く、奥深いかということにあらためて感じ入ります。目の前で役者が演じていることの威力、芸の威力、いろいろな意味で堪能させていただきました。

まずは有名な見染の場。江戸に来た記念、といって吉原見物に来た次郎左衛門と治六が、花魁道中と遭遇する場面。タチの悪い客引きに引っかかりそうになった二人が「そろそろ宿に戻るか」という相談をしているところへ花魁道中の錫杖の音が聞こえてくる。まず舞台上手から七越(勘太郎くん)、次いで花道から九重(魁春さん)。そして待ってました、舞台奥、桜の影から玉三郎さんの八ツ橋が登場である。出の場所が三方向に別れているのですごく立体感があり、客席に居ながらにして吉原で花魁道中に「行き会ってる」という感じが自然にするのがイイ。でもって玉三郎さんの八ツ橋である。もう・・・・絶品。こっちも「来るぞ来るぞ」と思って待っているのだけれど、なんか出てきただけで客席が息を呑むというか、視線集中というか、いやすごいんです、これは見ないとわからないすごさ。マジで空気が変わりますもん。次郎左衛門は口をぽっかーーんと開けてその後ろ姿を見送るのだが、多分私の口も開いてたね。でもって、花道で次郎左衛門をちらっ・・・・と振り返り、微笑うんですねえ。この七三での笑みというのは有名な場面らしいのだけど、さもありなん。落ちる、これは落ちるよ。あんなの見ちゃったら、そりゃあとりつかれるよ。

続く立花屋の店先の場面では、次郎左衛門がお金にきれいないいお客であることや、すっかり吉原の「顔」になった次郎左衛門がうかがえます。八ツ橋に吸いつけ煙草をもらったりして、なんだかいい雰囲気ではあるんですが、実はこの八ツ橋にも恋人がいて、それが仁左衛門さん演じる栄之丞。ま、絵に描いたような男前。続く兵庫屋の廻し部屋の場面で、八ツ橋はお前さんに黙って身請けしやがるつもりだぜ、と吹き込まれた栄之丞が八ツ橋に詰め寄る場面になるんだけど、廻り舞台がぐーっと回ってくると部屋の柱にもたれた栄之丞がいるわけですよ。この気怠さ。ほんのちょっとしたことなんだけど、この二人の立ち位置だけで、栄之丞と八ツ橋はつきあってはいるけれど、もうなあなあな関係になっているのがわかるんですよねえ。今でも好き同士ではあるんだけど、恋をした頃の初々しさは二人の間にはもはやない、といった空気。でも他のやつにとられるとなったら話は別。栄之丞は八ツ橋に、次郎左衛門に愛想づかしをしろと迫るんですが、恋ゆえの無理難題と言うよりは、自分のプライド満足させたい一心のように見えたりして。

で、とうとう「縁切りの場」になるわけですが、いんやもう泣いた泣いた。やっと待ちかねた八ツ橋が来てくれたと嬉しくてたまらない次郎左衛門に、「気分が悪い」「気に入らないことがひとつある」「あんたと口をきくと気持ちが悪くなるのよ」と、これでもか、な言葉を投げつける八ツ橋。それは苦渋の表情なのだけど、回りのものが寄ってたかって八ツ橋の不実をなじるものだから、八ツ橋ももう止まらない。好きでこんなことを言っている訳じゃないのに、誰もこの自分の身の内を理解してくれようとしない、その苛立ちとやるせなさに彼女の言葉は緩むどころか冷える一方。そうして挙げ句自分には栄之丞という間夫がいる、と告白してしまう。治六が主人のために激昂し、八ツ橋に詰め寄るのを次郎左衛門が「下がっていろい」というあたりから涙止まらず。細く流れる胡弓の音がまた切なさ倍増。仕事仲間には虚仮にされ、皆が部屋を出ていった後、残って言葉をかけてあげる九重の優しさにまた涙。でもここでその九重に感謝をしつつも、「ことによったら・・・・」と一瞬目の色がすっと消える(本当に消える、まるで何かに取り憑かれたように。凄すぎです)次郎左衛門の表情に、来るべき悲劇の予感がひしひしと伝わってきます。

四ヶ月後、再び吉原を訪れる次郎左衛門。恐縮する店のものや八ツ橋たちをよそに、「これからはまた初会の客のつもりで」と優しい言葉をかけます。すっかり安心しきった八ツ橋は、次郎左衛門とふたりで座敷に残る。ここで、ちょっと梯子段を見てきてくれ、と言われた八ツ橋が席を立つと、瞬間次郎左衛門の顔が変わって足袋をささっと脱いで座布団のしたに隠すんですね。この時の表情の凄まじさ、もう展開知ってるのに手のひらにいやな汗をかく。梯子段を見に行く八ツ橋の何気なさと美しさが、よけいこちらの身に堪える。そして「この世の別れだ、飲んでくりゃれ」。万座の中でよくも恥をかかせてくれたと、羽織を脱ぎ捨て持参した妖刀籠釣瓶に飛びつき、一刀のもとに八ツ橋を切り捨てる。でもってこんな場面なのに、死ぬときまでも死ぬほど美しいんだ、八ツ橋が。ゆっくりとのけぞりながら倒れていく(神業ですよ、もう)八ツ橋をじっ・・・と見つめ、灯りを持ってきた下女をも切り捨てて、自分の手に吸い付いた籠釣瓶を見ながら、独りごちる。「籠釣瓶は、よく斬れるなア・・・」。

さて、ここまであえて触れずに書いてみたんですが、四月興行のチラシをご覧になればおわかりのとおり、次郎左衛門というのは痘痕面の、ひどく「醜い」男なんです。私はこの演目のあらすじは知っていたけど、この写真を見るまでそのことは知らなかった。これは単に気のいい実直な商人が花魁に入れあげたあげく逆上する話というだけではない何かを、この執拗なまでの痘痕面は示しているような気がします。この「籠釣瓶」自体、全編を通せば八幕の大長編で、そこには籠釣瓶の由来、因縁、次郎左衛門のご面相についても触れられているそうなのですが、たとえその部分が演じられていないとしても、その事実はこの物語の根幹を為す部分だと思います。劇中で、何度か次郎左衛門の顔についての台詞があります。あの顔だけど、遊び方はきれいな旦那。この顔で八ツ橋を身請けするなんざ、まさかと思えばやっぱりな。ふた目と見られぬこの顔故断られても仕方無い。次郎左衛門は八ツ橋に惚れた。それは八ツ橋が美しかったからだ。ただきれいというだけではない、完璧に彼女は美しかった。痘痕面の次郎左衛門はだからこそいつも、美しいものに焦がれて焦がれていたのだろうと思う。彼は愛想尽かしをする八ツ橋に対して切々と訴えるが、激昂できない。これには何か訳があるのだろうと、八ツ橋を信じ切ることもできない。それは彼の心の中に、どこかやっぱり、という想いがあったからじゃなかろうか。やっぱりおれのものにはならないのだ、あの美しいものは。どうやっても自分のものにはならないのだ。江戸を離れて四ヶ月、次郎左衛門は何を考えていたのか。妖しく美しく光る籠釣瓶を見ながら、あの美しい八ツ橋を美しい籠釣瓶で斬ることを、かれはじっと考えていたのかもしれない。

八ツ橋が次郎左衛門を憎からず思っていたのは、彼の人柄、そして何より、真摯に自分を思ってくれているという喜びであったのじゃないかと思う。栄之丞との間には薄れてしまった初々しさに、彼女はきっと心を癒されただろう。だけど、次郎左衛門の中に奥深く眠っていた美しさへの執念ともいうべきものに彼女は気付くことはない。そして次郎左衛門は、自分の中の真に善きものに、彼女が惹かれていたと気付くことができない。

籠釣瓶はよく斬れる。そういって刀を灯りにかざす次郎左衛門は狂気だったのか、それとも正気だったのか。恥をかかされた男の一心の恨みというよりは、かれはそうやって八ツ橋を「自分だけの花」にしようとしたような気がしてしょうがない。死んだ八ツ橋を見つめる彼の目はどことなく満足気ですらあって、この結末の酷たらしさを一層際だたせていたような気がします。

歌舞伎のお話の中には、今となってはそういう感覚、ちとわかんねえなあと思うものもありますが、この物語で描かれた自分への不信、愛するものへの不信、見栄とプライド、すれ違い、妄執。人が人を思うときの美しさと、その裏にある暗さ。それは今、この時代にも溢れかえっていることで、たとえ何年、何百年経っても変わらないことなのかもしれません。だから人間はどうしようもない、そして、だからこそ人間は面白い、と言えるのかもね。